十三の夏 その5
影は満足していた。今、息の根を止めた男のように、反撃してくるのはやりがいがある。「自分」に反撃する行為が思い上がりであることを分からせ、徐徐に痛みを増すようなやり方で、存分にいたぶって殺す。これほどの快楽はちょっとない。
影は思い出した。もう一つの獲物をそのままにしていた。茂みの中からいきなり棒――建築資材の鉄筋――を突き刺してやったら、あっさりと動かなくなってしまったが……もっと苦しめて殺してやりたい。
影は道を引き返した。迷いようのない一本道。
しかし、なかった。棒を突き刺してやったあの女が消えていたのだ。
影は地面を調べた。確かに、棒の突き刺さった痕がある。さらに血溜まりができていた。相当な量である。
影は目を先にやった。血が点々と続いている。棒を引きずったような線も、途切れ途切れに残っている。
影は焦りながらも、また楽しくなった。あの深い傷だ、今から追いかければすぐに掴まえられるだろう。
影は巨体に似合わず、素早く行動を開始した。
鮫島は煙草を口に、小屋から出た。眠ろうとしたのだが、ちっとも眠くならなかい。昔から環境が変われば、眠れなくなる質だった。酒が効いていない。義理はないのだが、男女六人の若者が戻ってこないのも気になる。
妻や子供達は、とうに寝床に着いている。宮田は部屋にこもっているらしい。床にでも寝るといっていた彼だが、結局相部屋ということで落ち着いたようだ。
「はー」
煙を吐くと、すぐに闇に溶けてしまった。手にしていた携帯用吸殻入れに、灰を落とす。この吸殻入れ、灰は肥料になるから別に捨ててもいいと思うのだが、山火事になると言われて、妻から持たされた物だ。
高ぶっていた気持ちが落ち着いてきた。そろそろ戻ろうかと思った鮫島。その目の前に、異様な物体が現れた。
人間のようではある。ただ、普通の人にはない、細長い何かを持っていた。
鮫島は目を凝らした。そうするまでもなく、相手は外灯の明かりが届く位置に進んでくる。
「……君は、藤本さん……?」
短くなっていた煙草を、口からぽろりと落とした鮫島。藤本のあまりの異常に息を飲む。腹の下辺りから細い棒が突き出ている。足の間からも棒が出ており、その先が地面に触れる音が、ときにずるずると聞こえる。ぽたぽたという音も聞こえた。赤い液体、血。
「――た、す、け、て」
呆気に取られていた鮫島は、彼女の言葉をようやく聞き取ることができた。彼女の身体を受け止め、右脇腹を下に横たえさせる。
「どうしたんだ? 他の五人は?」
「……知ら、な、い。とにかく、逃げ、て」
それだけを一気に喋ると、藤本は血を吐いた。
「みんなを呼んでくる。ここで待ってなさい。動いてはだめだ」
「嫌!」
突然、藤本は大声を出した。何かにおびえているらしく、激しく首を振っている。
「お、置いて、いかないで」
「だが、その怪我では動かなん方がいい。せめて、血を止めないと」
「逃げ、る! 影、大きな影、襲って」
藤本はしがみついてきた。平均的な女性のものとは思えぬ、大変な力だ。
鮫島は、息も絶え絶えの藤本の言葉をどうにか理解した。何者かに襲われたらしい。最初は事故か、それとも若い連中の間で喧嘩が起こり、大事になったのかと考えていたが、違う。
「分かった分かった。小屋に連れて行くから」
鮫島は彼女に肩を貸し、支えながら小屋へ向かい始めた。藤本の苦しそうなうめき声がする。
そのとき――。
「!」
鮫島は、肩に痛みを感じた。貸している方でない右の肩が、焼けるように痛くなる。
「がっ……。何だ?」
振り向くと、自分の右肩に異物が突き立っているのが分かった。
「お、斧じゃないか……」
斧だけが刺さっている。それを持つ腕は見えない。どうやら、斧を投げつけられたらしい。
「逃げて!」
横の藤本が叫ぶ。
鮫島は、藤本の言っていた大きな影がすぐ後ろに迫っていることを悟った。
「わ、分かった」
と答えたものの、恐れと未知への恐怖とで足の運びがおぼつかない。藤本はここまでたどり着くのがやっとだったようで、今ではほとんど自力で歩けていない。
もう少しで小屋の入口というところで、鮫島は痛む右肩に強い力を受け、後ろに引き倒された。当然、藤本もバランスを失い、横へ転倒する。
鮫島の肩にあった斧はなくなっていた。
その代わり、彼の目の上に立つ影の手に、斧が握られている。
見下ろされている。鮫島はそれだけで恐怖した。
小屋の中の者に知らせなくては。鮫島はそう判断した。
「逃げろおーぅ! みんなあーぁ、逃げろおーぅ!」
暗かった小屋の窓から、明かりが漏れた。誰かが気付いたらしい。
ほっとした鮫島の口が、不意にふさがれた。
「も、むっ」
自分で自分の口を見ると、中から腕が生えていた。頭上の巨大な影の腕だ。奴が腕を突っ込んできたのだ。
苦しい。息ができない上に、口が張り裂けそうだ。
「ぃっ!」
鮫島は次の瞬間、声にならぬ悲鳴を上げた。
突っ込まれた腕が、鮫島の舌を鷲掴みにしたのである。
何をする! 必死で喋ろうとしたが、とても舌が動かせる状態ではない。両腕を相手の腕にかけ、何とかやめさせようとする。
ぶち。
嫌な音が、口の中でした。血の味が広がってきたような気がする。鮫島は爪を相手の腕に食い込ませた。だが、効かない。
痛みをこらえ、鮫島は腕に噛みついてやった。骨をも砕けよと、ありったけの力を込める。
これには影の奴もひるんだ様子で、舌を握る手はゆるめられた。
しかし、腕が口中から抜かれる気配はなかった。逆にさらに突き入れてくるのだ。
「おおおおっ!」
不自由なままの舌で、鮫島は絶叫する。もはや、噛みついてなぞいられなかった。吐きそうになる。何とかこの拳を吐き出さなくては……。
鮫島の思いとは無関係に、舌が再び掴まれた。嫌な音が立て続けに起こった。
ぶちぶちぶちっ。
鮫島は気を失いそうだった。いや、失いたかったのだ。
彼は自分の目で、信じられない物を見てしまった。己の口から、かなり長い、赤い物が引き出された。
それは……鮫島の舌だった。
もはや声を上げることも難しく、口いっぱいに満ちて今もあふれ続ける血液に喉をつまらせ、嘔吐きそうになる。
影は鮫島の舌を地面にたたきつけた。巨大な赤いなめくじのよう……。
鮫島はおぞましい空想を打ち消し、逃げなければと立ち上がった。小屋を見ると、明かりがついてざわついているだけだ。鮫島が感じていたほど時間は経過していなかったらしい。
俺は俺で逃げる。だから、おまえ達も勝手に逃げてくれ!
心の中で叫び、鮫島は駆け出そうとしていた。すでに藤本のことは失念しているほどに、動揺している。
が、そのとき、彼の気持ちとは裏腹に、小屋の入口のドアが開いた。
おまえ!
鮫島は妻の姿を見て、来るなと絶叫したかった。しかし、声を発することはかないそうにない。
「あなた、どうしたの?」
のんきな調子の妻の言葉。鮫島は涙が出てきた。この修羅場に妻も子供も巻き込みたくない。
「あなた!」
鮫島は妻を小屋の中に押し戻そうと思った。
が、遅かった。新たに出現した、騒ぎ立てる女を疎ましく感じたのだろう、影は鮫島と彼の妻との間を横切り、それこそ大きな「影」となった。
鮫島は妻の姿を見失ったまま、彼女の悲痛な叫びを耳にした。身が引き裂かれる思い……。
さらに何度か斧を振り下ろした後、影は鮫島の視界から外れた。
ああ……おまえ……。
鮫島は、最愛の者が左腕を失い、さらにその自身の腕を口にくわえさせられているのを見た。額も斧で割られたらしく、激しく出血している。
ぐったりとした鮫島の妻の身体を放り出し、影は鮫島に向かってきた。
ひい!
彼は今や、己のことしか頭になくなっていた。この瞬間には、子供のことさえ忘れてしまっていた。腕を切断された妻の姿を見てから、鮫島は気がおかしくなってしまったのかもしれない。
影に背中を向け、走り出した鮫島だったが、すぐに頭を鷲掴みにされた。万力で締め付けられたらこうであろう、それほどの破壊力だ。頭の肉が内側に沈んでいくような感覚。
それは恐ろしくも鮫島の感覚だけではなかった。実際に、影の指は鮫島の頭の皮膚を突き破っていたのだ。さらに肉をえぐるように突き進む。
次に影は、両手で鮫島の頭を掴まえ直した。すぐさま、鮫島を身体ごと宙に浮かせる。瞬間だが、鮫島の足の方が頭よりも高く上がる。その衝撃で、首の骨がきしむような、外れるような不快音を立てた。
さらに容赦なく、影は鮫島を自分の頭上で振り回す。漫画で見る、怪力無双の大男が丸太を振り回しているような光景だ。つむじ風でも起こりそうな勢いがある。
何回転したことだろう。影は無造作に両手を鮫島の頭部から放した。砲丸投げの要領で、一人の人間の身体が宙を飛ぶ。そして激突。鮫島は頭から小屋の壁にぶち当たった。小屋が揺れ、大きな音が響き渡る。
「何だ?」
「逃げろ!」
そんな声が飛び交っていた。
アキは目を覚ました。さっき、母親に起こされたのだが、まだ寝ぼけ眼のままであった。その母親当人は、変な声を聞いたと言って、部屋を出て行ってしまった。
そして今の揺れと音。ただ事ではないと分かったアキは、大沢倫とルミの兄妹を起こしにかかった。
そうしているときに、部屋の扉が大きく開かれた。
びくっとして振り向くと、宮田優一が立っていた。
「逃げろ!」
訳が分からず、きょとんとするアキ。何かが起こっているのは分かるが、どうして逃げなければならないのか。
「どうかしたんですか」
倫が言った。
「説明してる暇はない。早く裏から逃げろ」
「で、でも、お母さんとお父さんが」
アキの言葉に宮田は一瞬、躊躇したような表情を見せた。
「いいから逃げるんだ! 何とか下山して、助けを呼ぶんだ!」
「……何が」
起こっているのと続けようとしたとき、アキの背後で激しい音がした。
部屋の窓が叩き割られたのである。ガラスが飛び散り、近くにいたルミが悲鳴を上げる。
「見たか? あんな奴が襲ってきてる。君の両親もてんでばらばらに逃げているから、君達も逃げなさい!」
「で、でも、宮田さん」
妹の肩を抱きながら、倫が聞いた。
「俺は奴を引きつけてから、うまくやる! だから君らは早く助けを!」
宮田は素早く部屋に入ってくると、倫の背中をどんと押し、自分は割れた窓の前に仁王立ちした。
アキ達はほとんど何も分からないまま、ともかくも懐中電灯を手にし、裏口へと向かった。
宮田は空手の心得がある。だが、ガラス窓越し、薄暗い中に見た奴の力には対抗できそうもないと悟っていた。
大男の動きを止めるには、足を狙うのが基本だ。しかし、奴の足は頑丈にできている。
次に考えたのは顎先に衝撃を与え、脳を揺さぶってやる戦法だ。しかし、二メートルはありそうな奴の顎に、確実に一撃を加える自信はない。
確実に当てられる高さとなれば、腹がある。奴の土手っ腹に回し蹴りを叩き込めば、悶絶させることができるかもしれない。しかし、奴の懐が深く、自分の足を掴まれてしまってはどうしようもないだろう。
全て、「しかし」で否定されてしまう。
宮田が出した結論は、武器を使う、であった。
慌ただしく、小屋の内部に目を走らせる。刃物類は置いてない。自分が持って来た登山ナイフが一本だ。野外バーベキューのときに使う小型ガスボンベが目に着く。重さが問題だが、使えそうだ。さらに一つ、有力な武器を見つけた。
「よし」
宮田は震えながら気合いを入れた。それが武者震いだったのかどうかは分からない。
影の奴は、窓ガラスを破壊したものの、そこから入ることはあきらめたらしい。現在は玄関をがんがんと殴りつける音が響いている。無論、鍵はかけてあるのだが、やがて破られよう。
宮田は玄関の扉のすぐ前で構えた。ガスを出しっ放しにしておくのは自分も危ない。奴が姿を見せたと同時にバルブをゆるめ、着火するつもりだ。タイミングが全て。
がんがんがん!
ほとんど絶える間なく続く破壊音。すでに、扉はこちら側に浮き上がり、鍵の部分がぎしぎし言っている。
ばん!
唐突に扉が開いた。同時に巨体がおどり込んでくる。
宮田は慌てながらもバルブを開き、ライターで着火した。
ごっ。
炎が音を立て、空間に広がる。闇に光が増し、相手の姿の一部を露にする。仮面でも付けているかのような、無表情。そんな顔が二メートル上に見えた。
残念ながら、炎は届かなかった。強襲を恐れ、ドアから離れすぎた宮田の失敗だったかもしれない。
宮田は思い切って前に進み出た。火が奴に近付く。
相手は戸惑っている様子だ。斧を片手に両腕で十字を作り、熱さをこらえている。
「燃えちまえ!」
勢いづける意味もあって、宮田は叫んだ。そしてさらに前に出る。
ついに炎の先が奴の服の袖に達する。巨体は無言のまま、進入路を逆走した。
逃がすかと、宮田は追った。そして、あっと思い、愕然とした。
雨。雨が降り出している。それも相当の大粒。一瞬、晴れ間を見せていた夜空だったが、やはり崩れつつあったのだ。
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