十三の夏 その4
影は、少し距離が届かなかったかという風に首を傾げ、さらに一歩、安川へと接近した。
そのとき、影の動きが止まった。その足下に、大きな石が一つ、ごろんと転がる。
「おい、こっちだ!」
錦野安彦だった。何とか恐怖から脱した彼は、痛みをこらえながら反撃の機会を狙っていたらしい。
「安川! まだ動けるだろ? 早く知らせに行け! 助けを呼んでくれ!」
ものすごい早口で、それだけのことを安彦は喋っていた。
が、安川はぼーっとしか聞いていなかった。指を失った痛みと恐怖とで、とても動けそうにない。
影はほんのしばらくの間、考える様子を見せた。どちらを先に始末すべきかを考えているのだろう。
結論はすぐに出たようだ。女は動けず、声も小さくしか出さない。それに対して男は逃げ出せないものの、大声でわめく。そこから判断したのであろう、影は再び安彦へと身体の向きを転じた。
「おい! 早くしてくれ!」
必死の形相で叫ぶ安彦。それでも安川は反応できない。
「がー、立て、馬鹿野郎ぅ!」
狂ったように泣き叫ぶ安彦に、影は覆い被さるように迫る。
「殺されるぅ!」
喜劇めいた叫びを上げたところで、彼の顔面は潰された。影が、さっき後頭部に当てられた石を拾い、それをお返ししたのである。
安彦の顔にめり込む石。
「……しゅしゅ、ぷ……」
意味不明の音を出しながら、彼の顔面は血にまみれていった。
影は充分にめり込ませたところで、どうしたことか、石を引き抜いた。何をするのか。影は石を持ち変え、再び安彦の顔面をめがけた。
「ぐぼっ!」
嘔吐するようなうめきに加え、歯の折れる音がした。そう、影は石を安彦の口に突っ込んだのだ。これで完全に黙らせることができるとでも言いたげに。
動きの止まった安彦の首筋に、影は手を当てた。狙いを定めている。そして斧を両手で横に振りかぶった。
狙いすまされた一撃によって、錦野安彦の首から上は、水平に飛んでいく。すぐにそれはそばの岩肌にぶつかり、ぐちゃりと音を立てた。
影は安川の方を向いた。
それまで停止状態にあった回路がつながった。安川は盛大に悲鳴を上げ始めた。
「ひゃああああああ!」
女の方は喋るまいと安心しきっていたらしい影は、少しだけ慌てたような素振りを示す。が、それはほんのわずかな間であった。
影は斧の刃の部分を両手で持つと、それは水平に構えた。そして猛スピードでダッシュ。
安川は見た。血のカーテンの向こうに、斧を構えた巨大な影が突っ込んでくるのを。
次の瞬間、彼女は絶命していた。斧の刃が、悲鳴を上げて大きく開いていた彼女の口にくい込んだのだ。そしてそれは簡単に皮膚を破り、彼女の延髄を切断、さらには背後にあった木にまで深くくい込んでいた。
もう死んでしまったのか。
影はさも、つまらなさそうに木から斧を引き抜いた。そうして、刃に張り付くようにしてついてきた安川の顔の上部を、ゴミのように手で払い落とした。
「何か変な音、聞こえなかった?」
藤本にそう言われ、錦野博樹は内心、舌打ちをした。
折角、いいムードに持って来たところなのに。
「風だよ」
「ううん、そんなんじゃない。何か動物が吠えているみたいな」
草の上、列んで座っていたのだが、藤本は立ち上がってしまった。ジーンズを通してでも色気の漂う太股が、博樹の目の高さに来る。
博樹は喉を鳴らしてから、仕方なしに立ち上がった。
「気味悪いわ。戻りましょ」
「そんな……。声なんか、どうせ」
弟の奴と君の友達がよろしくやっているんだよと続けたかったが、やめた。どうも彼女はすぐには落とせそうにない。こんな話をしたら逆効果だと、博樹は判断したからだ。
「分かったよ。帰ろう、小屋に」
腕時計を見たが、星明かりだけでは暗く、はっきりとは確認できなかった。中途半端な時間に二人して帰ると、宮田先輩に冷やかされるな。錦野博樹はつまらぬ心配をしていた。
藤本を先にして、今来た道を引き返す。後ろから彼女のすらりとした肢体を見つめていると、興奮してきてしまう。博樹はどうにか自分を抑制していた。
気を紛らわせるため、彼は空を見上げた。知っている星座を広大なキャンバスに描こうと試みる。そうしていると意外に早く、興奮は収まってきた。これなら平常心で小屋に戻れそうだ。
博樹がそんなことを思っていたとき、
「っ!」
前方で、そんな極々短い悲鳴が、確かにした。あまりに短いために聞き取れなかったが、藤本の声だ。
目の高さを通常の位置に戻した博樹は、信じられないものを見た。
前を行く藤本利香のシルエット――その足が三本になっている。真ん中の一本はやけに細い。よく見ると、その付け根から何かが滴り落ちていた。
「どうしたの」
その声は、すぐにかき消された。右手の茂みから、巨大な怪物のような影が飛び出してきたのだ。
「うわっ!」
声を上げて、博樹はその場を飛び退いた。自分の意志とは無関係に、吹き飛ばされたような案配だ。
影は、藤本の方へ歩み寄っていく。このとき、博樹はようやく理解した。藤本利香は細長い棒で身体を串刺しにされているのだ、と。その黒い棒は彼女の下腹部を前方から貫き、股をわずかに左にそれて突き抜けている。棒の先は今、巨大な影が棒の反対側を押し込むことで、地面に深く潜っていく。
藤本のしなやかな身体は、完全に地面に釘付けにされた。その光景は、博樹に昆虫採集を想起させた。
「うっう」
低く短い声が聞こえる。彼女はまだ息があるらしい。痛みのショックで気を失いかけているだけなのかもしれない。すぐに病院へ運べば助かるはずだ。
博樹は勇気を奮い立たせた。空手をやっていることも、それに拍車をかけたのであろう。彼は構えを取りながら、なるべく相手に気付かれぬようそっと進み出た。
だが――あとになって思えば、彼が勇気を出したこと、空手をやっていたことは不幸だったとしか言いようがなかったのだ。
影は女の方が声を出せないでいるのを確かめると、目を着けておいた男へと身体を向けた。男は、奇妙な格好でそろそろと近付いてくるところだった。影の姿を正面から見て、びくりとしたのが窺えた。
これは面白い。
影は愉快になった。向こうから近付いてくる奴は、滅多にいない。存分にかわいがってやろうと決めた。
「そ、そこをどけ!」
震え気味の怒声が、影にも聞こえた。
「何でこんなことするのか知らないが、それ以上やると許さない」
ますます愉快になった影は、こちらからも近付いてやることにした。大股で一歩、踏み出す。あっという間に二人の距離は狭まった。
そこへ、男の蹴りが来た。
「せいやあっ!」
蹴りは確かに影の右すねに命中した。相手は渾身の力を込めて放ったらしかったが、影にとっては痛くも何ともなかった。
「ちっ」
男は舌打ちし、さらに狙いを定めるかのようにしている。
影はもう一発、蹴らしてみることにした。
「せい、やああっ!」
今度のは少しだけ効いた。と言うのも、二発目の蹴りは、影の膝の側面よりやや裏側にヒットしたからである。いわゆる関節蹴りになっていた。
影はそろそろ本気を出すかと思った。
「もう一つ、くれてやろうか」
調子に乗っているらしい相手の男は、そんなことを言っている。
影はかまわずに、また一歩を踏み出した。
そこへ、今度は右足の蹴りが来た。影は素早く左腕を下ろし、相手の右足首を掴まえる。
「あ、が」
影が手に力を入れると、男の口からはそんなうめきが聞こえた。
「は、放せ!」
言われても放すつもりはない。影は一気に左手を握りしめた。
「がああああ!」
ぼきぼきぼきと音がして、男の悲鳴と重なる。気が付くと、影の左手から相手の右足首は消えていた。あまり強く握りすぎて足首が細く変形し、滑り落ちてしまったようだ。
「うう」
男はそれでも立っていた。正拳とかいうかまえをしている。
影はひねり潰してやろうと、さらに身体を近付けた。
そこへ拳の連打が来た。
「あああああ!」
踏ん張りがきかないまでも、男は必死の形相で拳を影の腹に打ち込んでくる。
影は拳の動きを少し観察してから、右手の方を掴まえた。再び、力一杯握りしめる。
「ぎゃっ!」
短い悲鳴。腕の骨が砕けたせいだ。男の右手首がだらんと下がった。
「くそっ!」
男はまだ反撃をしてくる。指を立てた左手で、影の顔面を狙ってきたのだ。しかしそれは、もはや速さに欠けていた。影は右の拳で相手の左手をぶん殴る。
奇妙な、何かが裂けるような音がした。
次には、男の絶叫が響き渡った。それはあまりに甲高くて、音として要をなしていなかったが。
錦野博樹は、自分の左手を見たくなかった。今までにない痛みが、びんびん伝わってくる。それでも確認せずにはおられない。
「ひ」
博樹はまた絶叫しそうになった。自分の左手が今や手でなくなっている……。親指を除く四本の指は、その付け根が手の甲へと飛び出していた。白い骨が皮膚を突き破り、黒いような血が溢れ出ている。
呆然としていると、目の前の影が動きを見せた。背中に右手を回している。すぐに何かを手にしたのが分かった。大きな斧が博樹の目の前に現れた。斧が振り上げられる。
絶望しつつあった博樹は、さらなる恐怖で瞬時に意識を戻した。
しかし、正確な判断はできなかった。振り下ろされた斧に対して、彼は動かせる左手で防ごうとしたのだ。
ぎゃぅ。
もはや声も出なかった。斧の刃は、彼の左手、人差し指と中指の間を捉え、一気に左腕を真っ二つにした。肘の辺りまで、彼の左腕は二つに裂けてしまったのだ。裂け目から、白いような黄色いような骨が見える。
と、とにかく、こいつから離れないと。博樹は掴まれている右腕を必死に引き抜こうとした。だが、びくともしない。自分の腕の方が痛くなる――と言っても、それは左腕の痛みの比ではなかったが。
そうしていると、影が博樹の右腕を持ち直した。どうする気だと考える間もなく、斧が博樹の右肩めがけ落ちてきた。
「あああー」
出なかった声が、再び出せた。それほどまでの衝撃。肩の骨が砕けると同時に、腕の付け根もすっぱりと切断されてしまった。
影は、これで逃げられるぜとでも言いたげに、奪い取った腕を二、三度振り回した。
死にたくない。現在の博樹の心を占めているのは、それだけであった。両腕を失おうとも、右足の先が潰れていようとも、命だけは助かりたい。彼は片足を引きずるようにして、逃げようとした。
あの巨大な影が立ちふさがっているから、小屋へは行けない。どこへ続くか知らないが、今いる道を奥へ行くしかなかった。
だが、相手に背中を向けたのは完全に失敗だった。どんな攻撃が来るのか分からない。それだけに恐怖が倍加する。
突然、彼の身体が宙に浮いた。一気に高く吊り上げられ、逆さまになる。引きずっていた右足を取られたのだ。
「は、放してくれ」
当初の威勢のよさも忘れ、哀願する博樹。両腕の傷口からの出血がさらにひどくなった。
影はしばらく、博樹の身体を揺らして弄んでから、またも斧を取り出した。
まさか……。博樹は考えたくないことを想像した。そしてそれは実現する。
ぶつんという異音がして、博樹の身体は地面にたたきつけられた。いや、たたきつけられたのではない。右足を太股から切断されたことで、落下したのだ。
痛みが三倍となって襲ってくる。気を失いそうなつらさだったが、まだ彼には生きる執念が残っていた。一本の足だけで逃走を続けようとする。
影は容赦なかった。今切り取ったばかりの右足を、ぶんと投げつける。それは博樹の背に命中し、彼は無様に転んだ。
彼はなくなった腕で、必死に起き上がろうとした。無論、それは無理だ。せいぜい、仰向けになるのがやっとだった。その仰向けになったところへ、思わぬ感触があった。
息ができない……。意識が薄れながらも、博樹は思っていた。何を顔に押しつけてきたんだ、こいつは?
影が押しつけてきた物――それは博樹の右足の切断面であった。まだ血が流れ出る切断面だけに、呼吸を妨げるのに充分、役に立つ。
「ぅぅぅ」
弱々しい声を漏らすだけとなった博樹。
そんな彼を、第四の衝撃が襲った。影の狙いは当然、左足であった。自慢の蹴りを放った左足も、いとも簡単に切断されてしまった。
博樹は、まだ自分が生きていることがおかしくなってきた。両手両足をもがれても生きていられるなんて、考えもしなかった。
そして彼は思った。何だ、俺も昆虫だったんだ。藤本さんだけじゃない、俺も昆虫採集されたんだな。それで、お気に召されなかったから、手足を引きちぎられて遊ばれているんだ……。
その思考もすぐに中断された。それは永遠の中断であった。影の斧によって、錦野博樹の頭部は胴から切り放された。
雲が流れて、ようやく月が顔を出していた。
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