第7話
週が明けて月曜の放課後、本田は校長室の扉をノックしていた。中から呼びこまれて入ると、校長は机の上に広げられた書類に目を通していたらしく、禿げ頭がこちらを向いていた。校長は目を老眼鏡の上から覗かせ、ぺっとりとした微笑みを浮かべて顔を上げる。
「ああ、本田先生ですか。何かありましたか?」
「いえ」
本田は三歩進んで机の前に立ち、「これを」と異動願いを、校長の読んでいた書類に重ならないよう、空いている場所にそっと置いた。
「ちょ、ちょっと。本田先生、これは困るよ。新任教師が二人も異動願いを出したなんて知れたら、教育委員会から目付けられる」
校長先生は目を見開いて、受け取った封筒を握って立ち上がり、あからさまに狼狽えてみせた。同情を誘うつもりなのだろう。こんな田舎の小さな高校でも、校長にまで昇って居座り続けているだけあって、校長の腹は狸のように座っている。
「すみません。お願いします」
「いやいや、無理ですって」
校長は顔を赤らめて手を振って机を周って本田の元まで寄った。
「櫻井先生は異動するんですよね?」
「ええ、あの子には理由がありましたから」
「理由って何ですか?」
「言えるわけないでしょう。個人情報ですよ」
「じゃあ、私も櫻井先生と同じ理由です」
「君、理由知らないんでしょう?」
「知らないです。けど、同じです」
花音がどんな理由で異動したいと伝えたかは本田は知らないが、本当の理由は同じであった。佐藤から、過去から、傷から逃げるために学校を離れる。校長は老眼鏡を外し、椅子に座った。今度は落ち着き払った様子を纏って、下から目線で説得に移る。
「埒が明かないな」
「異動は認めてもらえないんですね?」
「ああ、認めん。本田先生には今後もここで頑張ってもらわなければ困る。この話はこれっきりだ。いいね?」
「わかりました。……私、教師を辞めます」
「は? え? ちょっと」
「今年度いっぱいで辞めます。すみません。よろしくお願いします」
有無を言わさぬ決意で本田は頭を下げた。人に対して、こころから頭を下げたのは初めての経験で、何度も味わいたいものではないと知った。
次の日には、職員室中に自分の噂が知れ渡っていることは感じ取れたが、知らぬふりをした。直接問いただしてくる者はいなかったので気付かないふりをしていれば、噂は外側を勝手に回っているだけで、蚊柱のように鬱陶しくはあっても、害はないと思った。でも、一人だけ、昼休み隣に座って、たずねてくる者がいた。
「本田さんも辞めるってホントですか?しかも教師も辞めるって」
「うん、本当だよ」
「うわー、マジなんすか。え? なんでですか?」
「それを佐藤君に教える必要ってあるかな?」
いつも通りの声色で、いつも通り、佐藤の目ではなく、鼻頭を見つめて話している。
「いやー、すんません。気になって」
「ううん、いいんだよ。あやまらないで。そうだ、前から言おうと思っていたんだけど。僕は佐藤君のこと、ずっと得意じゃなかったんだよ。四月に入って来た時から、ずっと」
佐藤のへらへらしていた顔が曇る。こんな顔、初めて見れた。
「普通に嫌いって言えばいいじゃないですか」
「違うよ。嫌いだったんじゃない。好きでも嫌いでも、なんでもなかった。ただ得意じゃなかった。佐藤君にもそういうものあるでしょ?嫌いじゃないけど好きでもないやつ。我慢すれば食べれなくないけど、好き好んでは絶対食べないやつ。ちょうどあんな感じだったんだ。でも、今は違うよ。僕は君がちゃんと嫌いだ」
「知ってますよ。
でもなんかダサいっすね。やめるってなったら、急に強気になるのって。じゃ、さよならー。おつかれしたー」
佐藤は自席に戻っていった。本田はその背を見送りながら、清々しい思いも誇らしさもこれっぽっちも無く、嫌なものを背負っている気分になった。これが本田のできる、「いつも」を壊されたことに対する最大の反撃だった。それでも、言わないでいるよりはずっといいはずだと思った。前よりも佐藤のことが怖くなくなった。
八時まで残業をして本田は一人で帰っている。冬の日はとっくに落ち、霧夜を照らす街灯は水先案内人の船頭に灯る提灯のようだ。案内されずとも駅までの通学路は迷う可能性すらなく歩けた。駅に着いてスマホを確認するとマナーモードにしていたため気付かなかったが、ついさっき懐かしい着信があったみたいだ。スマホを手にして待つと、またかかって来た。
「もしもし」
『ちょっと。どういうつもり? なんでカズまで辞めるのよ!』
久しぶりに花音のほんとうの声を聞いた。
「はは。やっぱりかかって来た」
『もしかして、それだけのために辞めたの?』
ホームの端にあるベンチに座る。周りに人影は見えない。
「まさか。そこまで馬鹿じゃないよ。でも、辞めたらかかってくる気はしてた」
『そう……。あのね、ほんとはもっと早くカズに話さないといけなかったんだけど』
「ちょっと待って。話さないで。多分だけど、それ、俺は聞く必要ない。それよりも、俺のわがまま、聞いてくれる?」
応答がないため、本田は勝手に話を続けた。
「最後に会いたいんだ。それで、最後に会う日は思い出の中のままの二人でいたい。それを約束してくれるなら会おう。場所は、一昨年のクリスマスに行った店、覚えてる?」
初めてのデートで行った店だ。
「終業式の日、七時に待ってる。来たくないなら、来なくてもいい。それでも、連絡はいらないから。俺の方からも、もう連絡はしない。いい?」
「じゃあ、ね」
「またね」も「さよなら」も言えない別れ。交わせる言葉の少なさに、かゆい痛みが、通話終了ボタンを押す指先に走る。カッコつけていることは自分でも分かっている。本当は、花音の話を聞きたかった。言い訳でも、嘘でもいいから、花音の口から語られる事実を知りたかった。
でも、聞いたところで、別れることには変わりない。それに、その花音の話を聞いてしまったら、きっと二人とも傷つくだけで、二度と昔のようには振る舞えない。だったら最後くらい笑っていたい。
プリントの裏紙に記された本田の導き出した三通りの解。『連絡して話を聞いて、そのあとも学校に残る』、『話を聞かずに、花音が去ったあとも学校に残る』、『話を聞いて、学校を去る』、本田がとっさに選び取った解はその中には無かった。
でも、これが本田の出した、合理的な解だった。
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