第6話

 学校生活はいつも通りの様相で流れて行った。本田と花音が職員室や廊下ですれ違っても挨拶を交わす程度で、これは以前と変わりない。放課後になっても連絡を取ることなどはなかったが、それだって、周りから見れば「いつも通り」だ。

 二人は付き合っていなかった、だから別れたわけでは無い、今も昔もただの同僚、これが職員室に無音で発信している事実だ。本田はこちらの事実に沿って生活を続けた。本田にとっても、こちらの事実がいつも通りになりつつあった。しかし、花音と挨拶を交わす瞬間や、昔のことを思い出すたびに、「いつも通りの仮面」が外れかかることがあった。外れそうになると、本田は必死にいつも通りを作り出さなければいけなかった。

 花音がいつも通りの様子で、廊下ですれ違う生徒と話し、職員室で男性教員と談笑しているところを見かけると、本田の中に憎しみと悔しさが募って来た。花音がどういうつもりで、いつも通りを過ごしているのか、少しは自分に対して、申し訳ない、と思っているのだろうか。それとも、同じ職場内に元カレがいるというこの現状を、単に面倒がっているのだろうか。花音からの連絡はなく、学校内での様子を見ても、全く心内を読むことはできなかった。

 いつも通りの仮面は、本田が学校を離れるごとに剥がれていき、自宅最寄り駅にひとり放り出されるときには、完全に剥がれ落ちている。いつも通りの仮面は本田の中に在るのではなく、本田の周りの視点によって作られているからだった。仮面を失うと、本田は決まって飢餓感に襲われた。やるべきことがないと花音のことを思い出してしまいそうで、怖くなった。

 この飢餓感を埋め合わせる方法も、消す方法も本田にはわからなかったため、カンタンに集中できる映画などを見て、眠くなるまで耐えていた。映画を観ている間はなにも考えないで済んだ。以前は、時間が空けば好んで小説を読んでいたが、小説は自分の頭で読まないといけないため、花音のことがふって湧いてくると集中できずに、いつの間にか、読んでもいないのにページをめくってしまっていたため、読めなくなった。

 二月になり校舎の中はにわかに浮足立って来る。その微細な変化に、去年は戸惑ったが、バレンタインデーが過ぎれば元に戻ることを知っているので、今年はもうそれもいつも通りに組み込まれている。いつも通りの仮面で校内を見ているうちは、こころが揺れることなく、なんとなく遠くの景色を見ている気分になった。

 お昼休み、本田が職員室で昼食を食べていると、佐藤が自分の弁当を持って隣に座って来た。佐藤とは受け持っている学年が異なるので、特に話さなければいけないことは無い。それでも、去年はよく佐藤の方から話しかけて来ていたが、今年になってからは初めてのことだった。

「本田さん、おつかれさまでーす。昼、パンだけですか? 足ります?」

「うん、足りるよ。どうしたの? 何かあった?」

「いや、別に何かあったとかじゃないですけど。本田さん聞きました?櫻井さんのこと?」

「櫻井? あいつがどうかしたの?」

 花音の名前を佐藤から聞いただけで本田の仮面は剥がれかかった。

「あー、やっぱ知らないんですね。どうやら櫻井さん、今年度いっぱいでここ、やめるらしいですよ」


     ぽこん


 知らない話だった。泡になった黒い感情が、音を立てて吹き上がる。

 ――なんで?

「なんだか自分から異動させてくれ、って頼んだらしくって。突然だったから教頭も、どうにか残ってもらうよう説得したらしいですけど、どうしてもって」

「佐藤君はそれ、誰から聞いたの?」

 ――なんで、こいつから聞かされているんだ?こいつの言ってることは本当なのか? 本当なら、もし本当なら、花音の口から聞きたかった。

「え? うーん。花音さんから、って言ったらどう思います? はは」


    ぽこ ぽここ ぽこぽこ ぽここん


「やだなあ。顔に出てますよ。冗談ですって。この前、森口教頭と太田先生が話してるの、聞いちゃったんですよ。でも意外だなー。本田さんも知らなかったなんて。だって本田さんと櫻井さんって、仲良かったですよね?」


  ぽここ ぽこんぽこん ぽこぽこ ぽこ ……ゴボンン


 小首をかしげる佐藤の目だけが笑って、本田のこころを離さない。足に力が入らない。踏ん張ろうとしても、浮いているような、溺れているような感覚が襲ってきて、視界が揺れ動く。息継ぎのために絞り出された言葉は、本田の気持ちを支えるにはあまりに頼りないものだった。


「お前、知ってたのか?」


「ええ? なんのことすか? あ、すんません。俺、やることあるんで、席戻りますねー」

 佐藤はわざとらしくチラと壁に掛かっている時計を見てから、本田を残して去った。手にしているパンは、もはや味はしない。せめて動揺が気取られないようにと、いつも通りの昼食をとっているふりをしているだけだった。

 チャイムの音が聴こえても、寝起きのように頭が回っていない。いつもはチャイムの鳴る一分前に職員室を出て、ぴったりに教室に着くようにしていたので、焦った。気ばかりが急いて、次どうするのがいつも通りであったか思い出せず動きが止まったまま、本田はさらに焦らなければいけなかった。

「あれ? 本田先生珍しいじゃん。先生もチャイム鳴ってから派に転向ですか?あはは」

 悠長に自分の机の教材を脇に抱えながら福井先生が話かけてきた。

「いえ、ちょっと準備が終わらなくて。昼ゆっくり食べ過ぎちゃいましたかね」

 本田は福井先生を真似て教科書など、次の授業に必要なものを机の上からかっさらい、教室へ向かった。生徒たちに、本田が少し遅れて来たことを気にしている様子はなかった。

 佐藤の言葉で吹き上がった黒い泡は常に脳裏を漂い、思考の流れをよどませる。時折、パチパチと泡がはじける音がした。泡が溜まった鈍い流れは、思考が沈殿する瀞場とろばを産み、生徒たちの前で言葉が詰まってしまった。

「先生、大丈夫ですか?」

「ごめんね。昨日、調子乗って夜更かししちゃって。先生もう若くないのかなー。えっと、どこまで当てたっけ?」

「先生、高木くんからです!」

「ちげえよ。次お前だろ」

「おい、バラすなよ」

「そうか、じゃあ吉田。この問題答えて」

「もー」

 こういう時、生徒の先生への興味の無さには救われる。生徒が興味のあるのは、精々このあとの休み時間や部活のことだけで、テストが近くなってから、黒板の文字に一生懸命になる。教卓と座席の間は、見た目以上に間隔は広く、先生たちは仕事だからと、教室内の人に関心を寄せるが、生徒には教師の内側を想像しようとする視点さえ持たない。

 帰りのホームルームを終わらせ、部活の準備に切り替えるために一度職員室に戻ると、花音がちょうどクラスから戻って来たところに出くわした。これまでだったら目を合わせても軽い挨拶をする程度だったが、そんないつも通りで誤魔化せるほど、本田は冷静ではいられなかった。声に緊張感がともなわないように注意したため、口の端が堅くなる。

「櫻井先生。ここやめられるんですってね」

「はい」

 花音は本田と目を合わせないように努めていた。

「どうして、か、は聞かない方がいいのかな?」

「すみません。お先失礼します」

 本田は、そう言って過ぎ去る花音のそっけない背中を見ながら、髪をかき乱し、無音の地団駄を踏んだ。

 家に帰って荷物を置くと、着替える前に一件、電話をかけた。

『はーい。もしもーし』

「あ、近藤さん。本田です」

『わかってますよ。表示されますから。どうかしました?』

「お借りしていた傘お返ししようと思って。今度の金曜の夜なんか空いてませんか?」

『お、金曜ですねー。ちょっと確認します……。五時まで大宮でバイトですけど、その後なら』

「そうですか。なら金曜で。私も仕事の後ですので、八時頃になるかも知れないんですけど、いいですか?」


 金曜、部活指導を終えて、残業をすることなく校舎を出た。駅までの道中、近藤に電話をかけ、あと三十分ほどで着くと伝えた。

 大宮駅構内にある、二本の鉄柱が蔦のように絡まるオブジェ『まめのき』は定番の待ち合わせ場所で、改札前の目立つところに在る。この時間帯だと大宮駅を利用している部活帰りの生徒も多いので、人目に着くところで待ち合わせをするのは歓迎できなかったが、近藤がここを指定したまま電話を切ったので、仕方なく『まめのき』が待ち合わせ場所となってしまった。

 本田は遠巻きに『まめのき』周辺の人を窺うが、近藤らしい人物はいない。今度は前を通り過ぎて見た。近くで見ても見当たらなかった。彼女の方から気付いてくれることも願ったが、二度往復しても声を掛けられることは無かった。

 本田は用心して、『まめのき』を視界に入れられるギリギリまで離れて待つことにした。腕時計を見ると電話をしてから三十分以上は経っているが、近藤はまだ現れない。

「こんばんはっ」

 右にばかり集中していたところに左から声を掛けられた。

「あっはっはは。めっちゃびっくりしてるじゃないですか。そんなに驚きました?」

「驚いたよ。生徒かと思いました」

「え? 本田さん先生なんですか?」

「そうです。ちょっと早く行きましょう」

 本田は、近藤の背中を押す勢いで、エレベーターに乗った。

「近藤さん、もう何か食べました?」

「いえ、まだ何も」

「そうですか……。まあ、いいか。近藤さん、お酒強いですもんね?」

 地下十三階で止まり、そこから階段で更に一つ下の階へ。七番街の端の端、照明の明りも暗く設定されている、その薄暗い一角に本田の馴染みのバーはあった。アーチを持った木製の扉には、磨り硝子の小窓がはめ込まれている。

「おしゃれな店ですね」

 暗い店内に先客は居なかった。マスターが、柔らかい灯りがすぽんと照らすカウンターに、二つのコースターを並べる。二人はコートを壁のハンガーにかけ、指定された席についた。

「お店の名前、窓ですよね?」

「はい。窓です」

「近藤さん、フランス語読めるの?」

「読めないですよ。卒業単位で第二外国語が必須だったんです。それで試験に出る例文にフネートル、窓があって覚えてただけですよ」

「へー、二外が必須って珍しいですね」

「どうしますか?」

 マスターが二人の会話の切れ目にそつなく合わせて、希望を聞いてくる。

「どうしようかな? 近藤さん、好みとかある?」

「私なんでも好きですよ。こういうところ来ないんで、本田さん、なんか適当に決めてください」

「そうですか。じゃあ。僕は、スッキリとしたショートで、こちらには甘めのショートをお願いします」

「かしこまりました」

 マスターは後ろを振り返り、テキパキとお酒の入った瓶をいくつかカウンターの上に並べていく。金属製のちいさなメジャーカップにお酒を注ぎ、それをシェイカーに流し入れる。二三種類のお酒と果汁、それから大きな角氷も二個ほど入れて、シャカシャカと振り始める。本田と近藤はそろって、マスターの手際を正視していた。思い出したかのように、近藤が本田に向き直る。

「それで、傘は?」

「ああ、うん。帰りに返すよ」

「ふーん。わかりました。じゃあ、こっちが先、渡しておきますね」

 と言って、膝に置かれているハンドバックから、ダークブラウンの包装紙に包まれた四角い小箱を本田に渡した。

「これは?」

「チョコですよ?」

「うそ? 今日何日だっけ?」

「十三です」

「違いますよね?」

「でも、バレンタインが土日のときって、その前がバレンタインみたいなところありません?」

 氷がシェイクされて回る音が、BGMのジャズミュージックに混ざる。本田は、確かに言われてみればそんな気もする、と他人事のように思い返した。であれば、今日、学校ではまさにバレンタインが行われていたはずだったが、気付いていなかった。

「とにかく、これは渡しておきます。女の子が用意したもの、突っ返したりしませんよね?」

「ああ、うん。わかった。これはありがたく受け取っておきます」

「はい。でも、じゃあなんで呼んだんです?」

「うん。ちょっと聞いてもらいたい話があって」

 本田は忘年会から、これまでのことを簡単に話した。自分がそれについて、どう思ったや何を考えていたかについては触れず、事実として起きたことだけを話すように心がけた。その間、近藤は口を挟んで質問して来ることなく、じっと観察するように聞いていた。話し終えたときには二人とも二杯目を注文し、作ってもらっている最中だった。

「正直な感想をいいですか?思ったことは二つ。

 一つはかわいそう。もう一つは言いにくいんですけど、続きが気になる、です」

「続きが気になるって」

「わかってます。これは小説じゃない、ってことは分かってるんですけど、どうしても、そう見ちゃうんです。職業病だと思って許してください」

「職業病って。自称小説家でしょ?」

「違いますよ、本だって出したことありますから!」

「どうぞ」

 マスターが二杯のカクテルをコースターに乗せて、二人の前に滑らす。白く透き通った液体が、逆さになった円錐形のグラスに、溢れそうなくらいに注がれ、そこに角のとれた氷がそっと沈められている。水面が膨れ上がるも、こぼれない。コースターに乗せられたそれを手前に引くと、ゼリーみたいに固まっているのかと思えるほど、揺れて、でも崩れずに明りを反射させている。近藤の前には、口の広い金細工の施された底の浅い円形のグラスが置かれ、ブラッディオレンジの霧に巻かれた島のように、ピンの刺さったオリーブのピクルスが縁にかけられている。

「いただきます」

 グラスの脚を持つと重心が上に偏るため、慣れていないと口に運ぶことさえ不安定になる。近藤は恐る恐るという風体で、鼻を近づけ、目をつむる。それから一口飲んだ。

「おいしい。なんか、香水飲んでるみたい」

 本田も続いて飲む。ドライジンの鋭さとライムの酸味が合わさった、飲みなれた、好きな味だ。

「あの、吸ってもいいですか?」

「あ、いいですよ。本田さん吸う人なんだ」

 マスターが、何も言わずに灰皿を差し出す。

 本田は換気扇のある上空に煙を吐き、もう一息吸って灰皿に煙草を置いた。

「それで? 感想は、それだけ?」

「え? まあ、はい」

「他ないの?どうした方がいいとか?」

「アドバイスが欲しいんですか?」

「いや、そうじゃないけど」

「なにを言って欲しいのか分かりませんけど、うそをついてまで、本田さんが気持ちよくなるようなことは言いませんよ。友達じゃないんですから」

「うん。わかってる。じゃあさ、近藤さんは彼女が本当に浮気したと思う?」

「いや、そんなのわかりませんよ。さっき聞いたのは、あくまで本田さんから見た事実なだけですし」

「だったら、話を作るプロとしては、これにどんな話を作りますか?」

「そうですね……。まず、浮気をしていないって言う前提だと、その彼女さんは同僚の方に何か弱みを握られて、交際を迫られていたのでしょう。この弱みが本田さんに関わるものだと、よりドラマチックですね。それでも必死に拒む彼女さん。しびれを切らした同僚の方は、とうとう忘年会の席で、ありもしないでっち上げを言って、先に既成事実を作ってしまおうとした。彼女さんはみんなの前で反論をしたくても、弱みのせいで言い出せない。さらにそこに漬け込んだ同僚の方は、本田さんとは連絡を取るな、と脅す。忘年会の席での本田さんのリアクションを見て、この二人は付き合っていると悟ったのかもしれませんね。彼女さんは本田さんと顔を合わせるのが辛くなり学校を辞める。

 こんな感じでどうでしょう?」

 本田は近藤の仮説をゆっくり、苦虫でも噛むように咀嚼してから聞いた。

「弱みってなんだ?」

 近藤を覗き込む本田の眼は、灰皿に置かれた煙草の火が消えていることにも気づかない。

「これはただの作り話なんですから。そんなむきにならないでくださいよ」

 本田は軽いノリでかわそうとする近藤の態度に納得がいかず、やけになってグラスを手に取って飲み干した。縁にはわずかに果肉が残っていたが、気にすることなくお替りを要求する。

「そんな変な話あり得ませんよ。電話したって佐藤のやつが気付くはずないでしょう。学校の外で会えば、だれにも気づかれることだって無いんだ。脅されてるからって、連絡が全くないのはおかしいでしょう」

「あー、確かに。甘かったですね、残念。上手くできた話だと思ったんですけどねー。じゃあ、やっぱり浮気してたんじゃないですか?」

 灰皿に残された吸い殻をつまんで火が消えていることが分かると、こすりつけて砕いた。本田は近藤の顔を一つも見ずに、「やっぱり。そうだよなあ」とつぶやきながら、新しい一本に火をつけた。

「あの、やっぱり花音は、私に会いたくなくて学校を辞めるのでしょうか?」

「うーん。それもあると思いますけど、どっちもじゃないですか?本田さんとも、浮気相手とも会いたくないんですよ。自分が浮気をした事実をナシにしちゃいたいんです。女の子はわがままで、弱虫なんです」


   ぽこんん


 また、こころの中で泡が沸きあがる音が聴こえた。


「あんな裏切りを、女の子のわがままで許せと? そう言いたいんですか?」

 本田の恨みの籠った顔付きに気付いていないのか、近藤は少しも口調を変える事もなく、グラスを片手に、子供を諭す教師のようにわずかに口角を上げながら話す。

「許せないですよね。でも、どうします? よりを戻せと脅しますか? 慰謝料を払えと訴えますか? 怒りに任せれば、出来ることはありますけど、本田さんが求めているものとは違うはずですよね」

「俺が求めているもの? 俺が何を求めてるのか、わかるんですか?」

 睨む本田の目には涙が溜まって、今にも落ちそうに震えている。

「傷を癒すのは時間だけですよ。彼女さんも傷を癒すために学校を去ったんだと思います。許したいなら、忘れたいなら、時間が経つのを待つしかないんですよ」

 本田は力なく、カウンターに肘をつき、頭を抱えてふさぎ込んだ。右手につままれた煙草から、灰がこぼれる。近藤には、本田が泣いているのか、笑っているのか、揺れる背中に籠って音は聞こえて来ないため、分からなかった。しばらくして上げた本田の顔に、作り笑いが乗っかっている。

「だったら私の傷は癒えませんよ。学校には佐藤がいます。あいつの顔を見ているうちは、私の傷は絶対に癒えない。逃げた花音が羨ましいよ」

 本田はわざとらしくかぶりを振って、微小を浮かべて残念がって見せる。逃げたい、自分を悩ます問題を、全部なかったことにしてしまいたい。でも、逃げられないなら、自分がどうしたいのか、解決するために何を求めているのか分からない。わかったところで何も出来ないんじゃないのか。

「じゃあ、本田さんも逃げたらどうです? 辞めちゃいましょうよ、学校」

 近藤はつらそうな本田に軽く言ってのけた。他人事だったから。近藤の中に、目の前の人間を救ってやる、という覚悟があって出てきた言葉ではなかった。救われたらいいな、と思って言っただけだった。



 頭の痛みで目が覚める。カーテンの掛かっていないリビングのガラス窓から、朝日であろう薄桃の霧色をした光がにじんでいる。昨晩、近藤と別れたあと、本田は家で一人飲み直していた。酔っているのに眠れないわずらわしさに、意識を失うまで飲み続けた。飲んで記憶を無くしたのは初めてのことだったが、二度とこんな気分にはなりたくない、と思えるほどの頭痛と倦怠感だった。

 本田はまだお酒の残る足取りで台所まで歩き、蛇口のスイッチを浄水に変えて、コップに注いで一息に飲んだ。水の冷たさが心地よかった。もう一杯つぐ。喉を通って行く、この冷たい流れが、気持ちに蓋をしているものを解決してくれそうな気がした。

 頭の重たさのせいで、二杯目は半分までしか飲めなかった。本田はトイレに行って便器に、前のめりに体重を預けてみたが、吐き気は来なかった。でも、気持ちはわるい。この気持ちわるさは、吐き気でないのなら何なのだろう。

 本田は、自分が大釜で茹でられて、体が一回り膨れ上がっている気がした。いつもは、こころは胸の中にちょこんとあって、いろんな刺激に、跳ねたり、揺れ動いたり、沈んだりするが、今は全身がこころで満たされていた。恋の始まりと終わりはよく似ているのかもしれない。

 作業机になんとか腰かけ、机の上に無造作に置かれている、授業で余ったプリントの束から一枚引き抜く。頭の中を整理したかった。これまで、自分のことが分からない、と思う事が無かったので、こうして自分を整理することはなかった。プリントを裏返し左上に、『悩みの原因』と書いて、矢印を引っ張って『花音』と書いた。『花音』にアンダーラインを引いて、具体的に書こうとしたが、どう書けばいいのか分からなかった。結局、誰に見せるわけでもないからいい加減なことを書いてもいいだろう、と思い『浮気? さとうと』と書いた。

 ひとつ下の段に『どうしたい?』と書く。三又に分かれる線を引き、上から『連絡をとって訳を聞く』、二つ目には、『訳は聞かずに、このまま花音が学校を去るのを待つ』、三つ目に何を書こうかと迷い、『さとうを問い詰める』と書いた。

 一つ目の『連絡をとって訳を聞く』から、更に三又に分かれて、上は『花音が浮気をしていた』、真ん中に『浮気はしていなかった』と書いた。三段目には『自分が浮気相手だった』と書いた。そうやって一時間も樹形図状に思考の道を作っていると、いつのまにか、本田のこころは小さくなって胸の中にちゃんと納まっていた。

 最終的に書かれた本田がとれる選択肢は、『連絡して話を聞いて、そのあとも学校に残る』、『話を聞かずに、花音が去ったあとも学校に残る』、それからもう一つ。でも、それ以上は絞る事が出来なかった。ベッドに寝転がって天井を見上げる。

「ねえ、松下さん。電気消して」

 電気が消されても、窓から射す霧に触れた光が、部屋を淡くあからめる。引っ越しのとき、霧があるからカーテンはいらないだろうと思って買わなかったが、自分の意思で部屋を完全に暗くすることもできないのが悔しかった。紙に書いて整理したばかりなのに、もう頭の中が曇って来た。霧が脳内に入り込み、侵されているみたいだった。

 霧の存在が世間に広く出回った二〇〇八年に、この赤く微発光する粒子は人体に害があるのではないか、と怖れられた。光や電波を遮断し、いずれ文明を破壊する、と言われていたのだから、人体への影響を不安がるのは無理もなかった。あの時のことは、本田も子供ながらに覚えている。街からは人が消え、出歩く数少ない人は、みんなマスクとゴーグルをつけていた。ネットスラングでは赤微発光粒子のことを、地球に寄生する霧として『フォグウイルス』なんて呼んでいた。世界中の研究者や政府が、この粒子の人体への影響は極めて軽微で健康被害はない、と発表したことで、混乱は収まり経済活動は無事再開され今に至るが、本当に害はないのだろうか。経済を優先させるためについた政府の嘘かもしれない。今、自分は霧に侵されて、頭が壊れているのではないか、と薄明るい天井を見ながら本田は考えていた。

 本田は畳まれた布団の間に、頭を突っ込んだ。そこにはひんやりするシーツで作られた、完全な暗闇があった。懐かしいと思った。夜でも霧は薄ピンクな微発光を繰り返しているため、闇を見たのはしばらくぶりだった。目を開けても、閉じても見えるものは変わらずに闇だ。変わったのは、自分の目蓋の筋肉に、テンションが掛かっているか否かだけだった。だったら閉じている方が楽なため、閉じることにした。目を閉じると、自分の息づかいが聴こえ、自分の臭いで充満しているのがよくわかった。体の周りを、自分という膜がうすく覆って、世界から守ってくれているような気がした。

 息苦しくなって顔を布団の闇から出した。暖房が効いている室内でも、布団の中よりは涼しく、換気扇で霧を取り除いた無臭の空気は気持ちよかった。

「ねえ、松下さん。花音のこと、どうすればいいと思う?」

 『ハウスマート 松下』には後付けでレシピや家庭の医学、辞書に百科事典などのいろんなデータを読み込ませることができ、質問したことについて、持っているデータの中から答えてくれる。ネットにはつながっていなくても、松下さんは常にラジオを聴いているので、時事について聞いても答えてくれる。もちろん本田は松下さんが「花音のこと」なんていう個人的なことには答えることができないことは知っていたが、気分転換にふざけて聞いてみただけだった。


 花音 さんに、電話します。


 無機質な声で松下さんが答えると、手元のスマホから呼び出し音が流れ始めたので、本田は慌てて止めた。以前にも似たような事があった。松下さんに、「前、花音が行きたいって言ってた店どこだっけ?」と聞くと、松下さんは今みたいに花音に電話をかけた。その時は、そのまま電話をして、松下さんが勝手にかけたんだよ、と二人で笑い合ったのを思い出す。

 AIは本田の質問の意図を理解して、花音に電話を繋げたのではない。文脈から「かのん」を人名だと推測し、キーワードを検索して、連絡帳にヒットしたから電話をかけただけだ。AIは音の意味を理解せずに、システム的に解を出しただけだ。

 合理的な解は、あまりにまっすぐで、暴力的に思えた。これは人間の考え方とはまるで違う、相容れないものだと、本田は感覚的に思った。人は少ない選択肢の中でひたすら悩む。時間が許す限り悩む。それでもいつかは答えを出さなければいけない。時間の制約の中で、こころのうちでどちらとも選びきれずにいたものを、無意識が選び取って、表出させてしまう。時間の制約に捉われて出した解だとしても、それは自分の出した答えなのだから、責任を持たなければならない。

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