第4話

 クリスマスを一人で終えてから、家の中で怠惰に過ごした。無理にやることも無ければ、会う人もいない。福島の実家に帰ろうかと考えたが、今になって急に帰ると言えば、東京で何かあったのかと心配されそうなので、やめておいた。母からすれば埼玉も東京の一部のような認識で、電話をすれば東京はどうなの?寒くない?と心配していた。

 花音からの連絡はなかった。年末だから掃除をしようかとも考えたが、普段から、いつ花音が訪ねて来ても構わない様に綺麗にしていたため、これ以上綺麗にしようという気は起きない。

 本田は、風邪は完治したな、という確かな手ごたえを見届けてから、近所のレンタルショップに行った。自動扉が開くとそこは、六畳ほどの狭い空間に、三台のディスプレイが置かれた無人ショップだ。パネルをタッチして、観たいものを次々にスマホにダウンロードさせていく。128ギガバイトの容量があるので、一杯になることは気にせずに好きなだけ借りる。

 借りたのは、お笑いやコメディ映画、アクション映画などの、観ればスカッとしそうなやつを意識して選んだ。最近話題になっていた海外のアクションスパイ映画も借りたかったが、まだこのサテライトショップには入荷されていないようだ。この店も本田は花音ともに来たことがあった。本田一人で来たときも、これなら花音と一緒に見れそうだな、と思いながら借りていた。

 次に駅前のスーパーに行って、年末年始を家から一歩も出ずに暮らせるだけの食材を買った。お菓子やお酒も大量に買ったので、ビニール袋が両手に食い込み、激しく痛かった。でも、その表面的な痛さには、本田を煩わす粘着性は無かった。

 家に帰ってから、かじかんで赤くなった手を冷水で洗い続ける。やがてお湯に変わると、手の表面がひりひりとふくらみ、かゆいような、気持ちいいような、そんな不思議な感覚に触れる事が出来た。

 映画を観ては、目を休めるためにラジオを聴いて、だらだらと寝転がり、飽きたらまた映画を観る。三食自炊は面倒なので、朝はパンをトースターで焙って、インスタントのスープをお湯に溶くだけの簡単なもので済まし、昼間はお腹が空けばスナック菓子をつまんだ。間食をしていると夜になってもお腹が空かず、食べなくてもいいか、とほっておくと決まって深夜になってから無性に腹が減って仕方なかったので、間食を抑えるように心がけた。

 夜に野菜炒めを炒めている際、ふいに既視感に襲われた。危ない、とわかっていても既視感の正体に勝手に辿りついてしまう。キッチン越しに、リビングのテーブルへと視線が移る。当然そこには、笑ってつまみが来るのを待つ花音はいない。

 そんなことをしてあっという間に大晦日になり、流しっぱなしのラジオで、紅白歌合戦、除夜の鐘を聴いて新年を迎えた。布団に入って眠ろうとするがなかなか寝付けなかった。眠たくはない。明日用事もないから早く寝なければいけないわけでもなかったが、ねむらないと、とこころが焦る。焦るほど頭は冴えて来る。冴えると余計なことを考えてしまう。

 花音はなぜ自分を裏切ったのだろう。嫌われることをしたのだろうか。思い当たる節は本田にはなかった。喧嘩はしたことはあったがその度に仲直りしてきた。であれば飽きられたのだろうか。本田自身、自分がイケメンでないことは分かっていた。これまでの人生で女性から告白されたのは花音が最初で、その一回きりだ。背ばかりが大きいがスポーツの経験もないから肉体にも自信はない。気の利いた冗談で人を笑わせるのも苦手だった。佐藤なら上手そうだと思った。佐藤は生徒からの人気もあった。むしろ花音が自分に告白してきたことの方が不思議に思えてくる。それでも一度は好きだと言ってくれたのだから、それなりに自分にもいい所があったのだろう。それが無くなったのか、それとも佐藤の魅力の方が勝ったのか。

 ラジオニュースを聞きながら朝食の準備をする。考え事をしながら眠りについた割にはよく眠れた。アナウンサーが新年の挨拶を言い、コメンテーターがそれに続く。一月一日に送るべくニュースはあまりないらしく、すぐにお笑い芸人がおしゃべりをする楽しげな番組に変わった。面白かったからしばらく聞いていた。昔は、正月と言えば朝早くから生放送でネタ番組が昼過ぎまでやっていて、自分はそれをだらだら見て過ごしたいのに、母親が新年のバーゲンに行くと言って、家族を引き連れ、郊外のアウトレットに行っていた。

 初めは、自分もいくつか店を見て回り、いくつか服を買ってもらっていたが、それも午前中に終えてしまうと、あとは暇だった。フードコートで席を確保して、家族が揃うのを待った。昼食を食べ終えると、母と姉はまだ見ていない店がある、と言ってすたすた行ってしまう。残された父と二人、父は何も言わずにスマホを操作しているが、少し経つと、ママの様子見て来る、と行ってしまう。そうなると、混んでいるフードコート内で、四人掛けの席を一人で座るのは居心地が悪く、後に続いて外に出た。家族と合流しても待たされるだけだから合流はしなかったが、じゃあ何をして時間を潰していたかは、思い出せない。

 二日にもなると、さすがにこの暮らしにも飽きてしまった。借り溜めた動画はまだまだあったが、観る気にもなれない。本田はふと思い立ってスマホのカメラロールを見始めた。知っていたことだが、どの写真も花音に繋がっている。花音と行った神社の鳥居、花音と食べたパンケーキ、花音と今度観に行こうと話した映画のパンフレット、エトセトラ、エトセトラ。

 この数日間、お笑いを観て笑っていても、映画を食い入るように集中していても、心が揺れ動くことは無く、我に返った瞬間に、何をしているのだろう、と茫然としていた。映像を見ていても、情が湧かなかった。だから、写真を見返しても大丈夫だろうと思った。もう痛みは治ったと勘違いした。しかし、見ているうちに、痛みがぶり返し、こころの在りかを実感してしまうことになった。

 お気に入り登録されている写真の中に、富士山頂から撮った霧海の写真があった。



 昨年の夏休み、初めて二人で富士五都に観光しに行った。首都が東京から富士へと遷都された二〇二一年に開通した富東高速鉄道に乗ること一時間、新御殿場駅に着いた。鉄道は冬の雪害を免れるために、山間部に近づくと地下鉄に変わる。新御殿場駅もホームが地下にあるため、二人はエスカレーターで地上出口に出た。

「うわー、ほんとだ。霧がない!」

「ないね。太陽って暖かかったんだな。なんだか懐かしい」

「ね!」

 霧は重力の影響で地表二千メートル付近までにしか溜まって居ない。すううっと鼻から深くまで吸った息は、新鮮でいつもと違う味がしているみたいだった。空気にも鮮度があるのだと思った。地表の空気の鮮度が落ちているのなら、空気は上空で、あるいは宇宙で作られていることになる。宇宙は真空だと言うから、やはり空の上で空気は作られているのだろう。

 スマホを確認すると、普段は圏外と表示されている場所にWi-Fiの電波マークではなく、山を表すマークが灯っている。初めて見た携帯会社の、その小粋な仕掛けに驚いて、思わず声が弾む。

「花音、見て。ここ、電波入るよ」

「え。あ、ほんとだ。すごいねー」

 新御殿場駅の周りは栄えていて、定食屋やお土産屋などが並んでいる。早めの昼食を、と富士宮焼きそばを食べ、売店に行って水やお菓子を買い込む。

「よし、行ける?」

「行ける」

 富士登山は夏のメジャーなレジャーで、中でもこの御殿場ルートは、関東圏からのアクセスのしやすさから最も人気なルートだった。新御殿場駅からなら、スムーズに登ることが出来れば、登頂まで四時間もかからない道程だったが、混雑のあまり、たびたび列の流れは止まる。

「はー、思ったより暑いね。高いからもっと寒いかと思ってた」

 花音は胸元をぱたぱたと扇ぎ、中に空気を取り込もうとしている。汗の流れる首筋に色っぽいと惹かれ、自分が彼女のことを好きなのを再認識する。

「うん。晴れてて気持ちいいんだけどね。それにしても、ここまで混むとは思わなかったな」

 太陽は雲にも霧にも邪魔されることなく、燦々と真上から照らし、緑の草花が鮮やかに揺られている。本田が景色と明るさに心を捕られて、辺りを黙って見渡していると列が再び動き出した。

「でも、元世界遺産って考えると残念だね」

 山肌から突き出ている、電柱のような通気口のことを指して言っていることは、本田にも分かった。通気口は雪に埋もれないようにと、それなりの高さに作られ、自然に生えてきたのかと思えるほど、あちらこちらと不規則に建てられている。実際は中の構造に合わせて効率的に建てられているのだろうけれど、外から見れば美しい富士に刺さる、不穏な異物でしかない。

「でもしょうがないよ。あれがなきゃ中の人たち死んじゃうんだし」

「まあそうなんだけどさ。もっとうまいやり方はなかったものかね、と思って」

「うまいやり方ねー」

 本田は、花音が何についての、どんなうまいやり方を考えているのか分からなかったので、適当に相槌を打っておいた。

「あれがあんな不気味で、つまんないのがいけないのよねー。棘みたい。まるで針山。

 例えばさ、色を塗ってカラフルにするとかはどう?富嶽三十六景とか書いたら、外人受けすごそうじゃない?」

「あ、なるほど。それいいね。草間彌生の水玉とか」

「それはパス。つまんない」

「だめかー」

 わかったと思って乗っかると駄目だった。でも本田は楽しいと感じた。

「はあはあ。あー、あっつ」

「トーテムポールは? トーテムポールはどう? あのアフリカの、顔が重なってる塔みたいなやつ」

「いいね。トーテムポールはないけど、彫刻っていうのはいけるかも」

「えー、トーテムポールはなしかあ」

「あまりにアフリカっぽすぎるもの。日本ぽくないと」

「日本ぽい彫刻。阿形と吽形とか?」

「そうそう、そういう感じ。他には?」

「うーん。ん! 大仏は!?」

「却下」

「なんで!」

 五時間以上かけてようやく山頂に着いた。青々とした空に白い鳥居が見事に映えている。浅間神社の裏には、鉄骨で組まれた、高さ二十メートルほどはありそうな電波塔が、神社を押さえつけるような迫力で立っていた。

 こうした電波塔が人工衛星とやり取りして、世界と繋がるインターネット環境を維持しており、電波塔が受信したデータは、各鉄道路線と同じように敷かれた有線ラインで以て、全国に普及している。あの大宮地下街でネットが使えるのも、この富士日本電波塔のおかげであるから、文句は言えないが、残念さはぬぐえなかった。

「霧前に来たかったね」

「うん……。でも霧が無かったら、俺はこうして、花音と会うことも無かったかもしれない」

 霧がなかったら、教師にならずに、どこか金融関係や情報通信の会社に就職していたかもしれない。

「そうね。私もそう思う」

 花音は硬い表情でそう言うと、長い参拝列に加わった。

「でも、東京タワーに比べるとちっちゃいね」

 隣で並ぶ花音が振り向いて、いつもの雰囲気に戻って笑ってくれてよかった、と本田は思う。

「当たり前だろ。ここにあんなでかいの建たないよ」

「富士タワー」

「なんて?」

「いいの。なんでもない、言ってみたかっただけ」

 二礼二拍手一拝を済ませると後ろが詰まっているので、長々と拝むことはせずに、すぐに拝殿を空け、順路に従って境内を出て西に回る。ここはフォトスポットとして、どの観光ガイドにも必ず載っている場所だった。

「うわー、ほんとに綺麗」

「うん、ほんと。綺麗だなあ」

 地平線と呼ぶべきか、霧平線とでも呼ぶべきか。ともかく視界の先の先まで、一面が薄ピンクの霧に埋まり、そこに今、太陽が沈もうとして赤く輝いていた。月が黒く光る水面につくる白い「月の道」のように、太陽が薄桃色の霧の表面に、ネオンレッドの「太陽の道」を作っている。風に煽られた霧の海は、波うっているようにも、強い赤い光を浴びた陽炎にも見える。外から霧を見るのなんて、初めてのことだった。

 

 『霧に浮かぶ夕日

  the sunset floating on the Fog 』


 富士五都もここをフォトジェニックな場所として観光資源と捉えているのだろう。丁寧に看板を用意しているが、その看板のお役所仕事感のある、杓子定規で整えられた雰囲気は、むしろこの場にそぐわないと本田は思った。

「霧に浮かぶ斜陽、ね」

「シャヨウ?」

「カズ、知らないんだ。サンセットってね、斜陽とも訳すんだよ。斜陽産業の斜陽」

「知らなかった。シャヨウってどういう意味?」

「普通に夕日って意味もあるけど。『衰退してるもの』とか『没落してるもの』って意味もあるの。わざわざ斜陽って言うときは、こっちの意味が多いんじゃないかな?斜陽産業だったら、衰退している産業って意味だから、例えば……なんだろ? IT産業とか?」

「ふうん。きれいな言葉だけどさみしい言葉だね」

 霧に浮かぶ斜陽。没落しているものなら、霧の上に浮かんでいると言うのは、本田には不自然に思えた。霧に沈んだ斜陽、こっちの方が画になるな、と芸術家じみた感想を思いついてみて、一人 the sunset floating on the Fog に向かってほほ笑む。夕日に輝く霧海と、霧海をバッグにしたツーショットの二枚の写真を撮った。

「じゃあ帰ろっか。帰りはどうする?中から帰る?」

「うん、そうする。中も見てみたい。で、ご飯、ここで食べて帰ろ」

「そうだね」

 『富士山頂駅はこちら』と書かれた案内板を頼りに、山中へ下る階段を進んだ。

 富士山の内部には、いくつもの小さなトロッコのような路線が張り巡らされ、一つの都市になっている。内閣府や国会、その他の省庁がここに備わっており、かつての霞が関同様の機能を持っている。

 今や日本の首都はここ、富士五都なのだ。

 人口では東京県の方がまだまだずっと多いが、外資系や金融、海外との連絡を密に取らなければいけない大企業などは、本社を富士に移し始めている。

 雪害対策や景観保持のために富士の地上に建物が建てられることはまだないが、それも富士への人口流入が増加すれば、じきに東京のような街並みに変わるのかもしれない。そうなれば、野口英世や北里柴三郎の裏に描かれている富士山の姿は、二度と見ることは出来なくなる。

『次は宝永山前、宝永山前、お出口は左側です。

 The next station is Hoeizanmae. The doors on the left side will open.』

 日本有数の地下街である宝永山ショッピングセンターには、ないブランドなどないのではないか、と思うほどブティック、バッグ、コスメ、食器や家具、スポーツ用品にアウトドアレジャー用品、トレンドアイテムを扱うティーン向けの店など、高級志向のものから安さが売りのものまで、多種多様の店が何層にも渡って並び、お食事処だけでも二フロアもあった。天井の高さだって大宮地下街よりも高く、壁の色や照明にもきっとこだわって、束縛間を感じにくい配慮がなされていた。ラグジュアリーな空間に、観光客の財布の紐はこぞって緩くなるのも無理はない。二人も、そんな思惑に絡めとられた消費者だった。

 二人して右へ左へとせわしなく目を動かし、小走りで店の中を物色して回った。学生を卒業して、もう若くないと自分たちに言い聞かせてきた二人だったが、この時ばかりは高校生かのようにはしゃいだ。

 花音が本田にウールコートをプレゼントし、本田はお返しにと、花音に春夏用のワンピースを買った。花音は他にも自分の靴とバッグを買って本田に持たせた。わがままを言うのも、それを許すのも楽しかった。

 さんざん歩いて、遊び疲れて入ったのはイタリアンレストランだった。いつものようにパスタとピザを一つずつ注文してシェアし、あとはサラダなど適当につまめるものを頼んで、赤、白、スパークリングがあったらスパークリング、とお決まりのコースの算段を付けてピザから頼む。

「こんなところにも住んでる人がいると思うと驚くね」

「確かに。政治家とか官僚とかでしょ。うらやましー」

「あとここの企業に勤めてる人とかね」

「いいなー。あー、泊りたかったー。帰らなきゃいけないなんて」

 富士内、富士周辺のホテルは高級なものが多く、中低価格帯のところはすぐに抽選で埋まってしまう。夏季はとくに人気なので倍率は高く、本田も花音も申し込んだがどちらも駄目だった。

「夏はいいけど冬はどうだろ。冬の間中ずっと地下にいなきゃいけないんだよ? 不健康じゃない?」

「それはどこも一緒じゃん。霧の下にずっといるんだから、地下みたいなものじゃない。それよりも、夏の間は太陽のもとに出ることだってできるんだよ? 宝永山だってあるんだよ? 温泉だってあるんだよ? 最高じゃんか」

「うーん。最高かあ。そうだなあ、確かに悪いところではないし、むしろ良いことずくめな気もするけど」

「そうだって。カズはなんでも考えすぎなんだよ。考えるな、感じろ、だよ」

 花音の好きな言葉のツートップと思われる「考えるな、感じろ」を、本田は頻繁に聞かされた。本田は聞くたびに、二十五の女の子の好きな言葉が、ブルース・リーなのはいかがなものだろうか、と言われた内容よりもそちらに興味が移った。それから花音がよく口にするのは「少年よ、大志を抱け」、だった。一度「この老いぼれの如く?」と本田が聞き返したときは、何故か「カズくんはまだ老いぼれじゃないよ。同い年じゃん」と励まされてしまった。

「何笑ってんの? やな感じー」

「ごめんごめん、別に。なんでもないよ」

 白のグラスを飲み干し、スパークリングは無かったがロゼがあったのでそっちを注文する。コンビーフと白菜のトマト煮をつまみながら、星の照らさない地下の夏夜が更けていった。

「花音はさ、佐藤君のことどう思う?」

「佐藤? 別になんとも。元気だなー、くらい」

「俺はちょっと苦手なんだよね。どこが嫌いとかじゃないんだけど、馬が合わないというか、ノリについて行けないというか」

「いかにもって感じのウェイ系だもんね。確かにカズとは合わなそう。わたしもどちらかと言えば陰キャ寄りだったから、なんとなくわかるわ」

 本田は学生時代の花音のことは知らないが、花音が陰キャだったとはとても思えなかった。先生という職に就いていても、休みの日にこうして遊ぶときはネイルをして爪をきれいに飾り、髪にはパーマを当て、服装だって歳に合うだけの最大限の派手さに思えた。おそらく花音の陰キャと自分の陰キャは根本から違うものなのだろう、と本田は思った

「そうなんだよなあ。ウェイなんだよ。でも、ウェイの割には飲み会来なかったりするしさ。先輩に対しては反骨精神あるみたいだし。それを俺にも、ですよね、って一緒でしょって確認して来るのが、正直めんどくさい」

「ははは。珍しいね。カズが愚痴るなんて。デリカシーのない福井先生には何も言わないのに」

「愚痴ってわけじゃないけど。なんかさあ」

 理解してもらえないことにも、理解してもらえるような言葉を見つけられないことにも不満になった。正しい言葉と正しいエピソードを提示できれば、自分の思いを伝えられたと思ったが、それにむきになること自体、花音には分かってもらえないだろうからと、そこで佐藤の話は切り上げた。

 その後どんな話をして店を出て、どんな話をして帰ったかは思い出せない。地下鉄はしばらくすると山間部を出て、地上を走っていた。しかし、夜になっていて窓の外は暗く、霧も深いため、いつの間にか外に出ていたことに本田は気付かなった。気付いたのは、地上に出てから一つ目の駅に停車した際、扉から霧が漏れ入って来た時だった。

 電車が駅を出発し、車窓からはわずかに建物のシルエットが浮かぶが、すぐにそれも消える。田舎は、駅の周りには建物があっても、少し離れれば何もない、ただの土地になる。人が住んでいないから街灯もない。だから、窓から見えるのは暗い霧だけだ。霧の影響で一般人の車の所有が制限され、それに伴って居住地は駅周辺だけに限定された。本田は、楽しい日帰り旅行の帰りに、『国土改造宣言』によってひしゃげられた生活のあとを見せつけられるとは思ってもいなかった。空調の涼しさを一等強く感じた。隣では花音が寝ている。

 本田は花音の熱の伝わる右肩に意識を集中して、目を瞑った。



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