第3話

 終業式を済ませ、部活動の生徒たちの帰宅を見送ると、長い二学期も終わりとなった。

 教頭の扇動で、教員たちは忘年会場である、大宮地下七番街の和食居酒屋チェーン店に集まった。店は貸し切りとなって、席の仕切りが取り外され、掘りごたつの川が三列用意されている。四十二人の全ての教員が収容され、校長一人を学校に残しての忘年会が、ここに始まった。しかし、これは決して校長をないがしろにしているわけでは無く、この忘年会の企画者は校長その人で、自ら留守番を買って出てくれた。

 忘年会は、主に担当している学年ごとに川に分かれてスタートし、本田は花音と別れた二年生の川だ。教員になってまだ二年目の本田、その唯一の後輩佐藤と、若手三番手である花音の三人は、それぞれの川でお酒の注文をとって、お店の方に伝える、という雑用回りに奔走ほんそうしなければいけなかった。初めてこの忘年会に参加する佐藤は、早速愚痴を言いに、本田のもとへ寄って来た。

「本田さん、どう思います? みんなビールで良くないっすか?」

 佐藤の口調にはありありと、先輩教員ばかりがお酒を飲むのは不公平だと、正論を振り降ろしている勢いが感じられた。

「まあ、でも、飲みたいものも、飲むペースも、人それぞれだからね」

「うちのサークルだったら、とりあえず人数分の瓶ビール、机並べて、そればっかり飲まされてましたよ」

「二人とも! さぼってないで働きな」

 花音に、佐藤と一緒になってさぼっていると見做され、怒られてしまった。

「はーい、すんませーん。別に仕事じゃないんだから、いいじゃないですか。ねえ、本田さん」

「ああ、うん。まあね。でも後輩だし」

 本田自身は、こういった下働きを苦に感じていなかった。後輩然として可愛がられるのは本田の性にあっていたし、とがって目を付けられる方がよっぽど嫌だったので、佐藤から、大変だ、と共感を求められるのには困っていた。それでも、叱ったり、きつく突っぱねたり、なんてことは、本田にはとうてい出来もせず、そもそもそんな発想も持たないので、やんわりと視線を逸らすことしか出来ていない。そんな関係は、佐藤が赴任してきてからここ八か月、ずっと続いているので、正直彼のことは得意ではない、と花音に愚痴をこぼすほどだった。

 ようやく先生方に酔いが回って来たのか、お酒の注文のペースが下がり、三人はそれぞれの席へ戻って、食事にありつけるようになった。

 食べ物はコースを事前に注文していたので、何も頼まずとも自然と運ばれてくる。前半に来ていたサラダは、ドレッシングのほとんどかかっていない葉野菜しか残っておらず、揚げ物は、唐揚げやカツなどのメインは既にさらわれて、ハムカツとオニオンフライだけが、大皿の中央に鎮座していた。本田は、そうした残りものを自分の取り皿に全てよそってしまい、空いた皿を重ねて店員の取りやすい位置に下げておいた。こうした基本まで、去年の忘年会で花音から教わったことだった。

「ねえねえ、本田君は彼女とかいないわけ?」

「そりゃいるだろー。こいつも、こんなでも二十六だもんなあ。はっはっはっ」

 学校の敷地を一歩出て二歩出て、と離れるにつれて教師は教師ではなくなり、ただの、ひとりの一般人になる。教科書通りの道徳心や、生徒の見本となるべき模範的行動をとらなければ、という考えは教師が持つ物だ。若い後輩を捕まえては、こんな話を始めるのは霧以前からの、いや、もしかすると戦前からの風習とも呼べるほどの、お決まりである。そして、後輩が場の空気を悪くしないようにと、奉仕の構えで受け皿を用意するのも決まりである、と教わったわけでもないのに、本田は知っている。

「いや、それが全然出来ないんですよ。困ってるんですけどうしたらいいですかね?」

「んえ、いねえのか。ああ、ああ可哀そうに」

「ちょっとやめなさいよ。大丈夫よ、本田君だったら、すぐにいい彼女さん出来るわよ」

「でも、出会いなんかねえだろ。教師やってたら、顔突き合わせるのなんて職員室の連中と、生徒だけだ。あ、お前まさか、生徒に手え出そうとなんて、考えてないだろうなあ」

「いやいやいや、ないですって。大丈夫です。安心してください」

 本田は、いったい自分が周りからどう見られているのか、と不安になるのを押し殺し、彼女は居るというプライドは、隅にしまって、手触りだけでその存在を確かめる。

 ――能ある鷹はなんとやら、だ。

 本田は自分の思いやプライド、主張をこうして奥に隠して、自分だけで確かめて満足する癖が付いていた。いつからそのような癖を持っているのかは、定かでなかったが、気付いたのは大学二年になったばかりの頃だった。

 サークルの仲間内で飲んでいるとき、何の流れか、自分のこれまでの経験についての話になった。浪人中、遊びまわっていた奴が自慢げに語るのを、本田は大人だなあ、と勘違いして聴いていた。本田に話が振られた際、隠すことなく自分は童貞であると言った。すると周りから笑われ、明らかに馬鹿にされた。本田にはその訳が分からなかった。本田の高校はいわゆる進学校で、そういった浮ついたことをしている人は、数える程度しかいなかった。高校ではそれが普通で、遊んでいない自分のことを、誇らしくさえ思っていた。でも、周りは違ったらしい。高校や、中には中学で経験している人もいた。彼らの中ではそれが普通で、童貞は劣等の証だった。

 そのとき、本田は恥ずかしそうに笑って見せて、その場をやり過ごした。本田が童貞だという話はサークル内に広まり、飲みの場で気軽に話題に出せるもの扱いになった。その度に、本田はプライドを隠して、笑っていた。

「出会い系は? 今また流行ってんだろ? あれやってみたらいいじゃねえか」

 確かに、最近また流行っているらしい。霧の影響で、SNSを使った細やかなやり取りは無くなり、代わりに、初めにプロフィールを作成して登録してしまえば、複数対複数の合コンや、一対一のデートなどをセッティングしてくれる、出会い系サイトやアプリが息を吹き返しているのは事実だったが、本田は一度も登録したことは無かったので、詳しいことまでは答えられなかった。

 宴会中、本田は先輩教師たちとの会話の隙を窺って、何度か花音のことを盗み見たが、目は合わなかった。気付いていない、ということも考えられたが、それとは別に、職場に内緒の付き合いであるのにも関わらず、本田が酔って、花音との関係が明るみに出かねない行為をしてしまっていることを、花音は内心怒っているのでは、と不安になる。すると却って、先生方との会話がおろそかになった。

 シメの焼きうどんが出される頃には、座は乱れて、方々好きな場所で、好きな人と飲んでいた。本田は自分のことを、先輩付き合いは悪くない方だと認識しているものの、こうした場面では一人になってしまう。先ほどまで一緒に呑んでいた先輩は、他のおじさん方と楽しそうにしており、どうもそこに加われる気はしない。どこも似たような賑わいで、仕方なく一人で飲んでいるのだ。花音は少ない女性教員同士でおしゃべりしている。

 本田の認識の中では、大勢での飲み会を、嫌いではないが退屈なもの、としてカテゴライズされている。こうした飲み会は、会話をする場ではなく、もっと騒がしい、それこそ祭りのようなものだ。中身のない会話に合わせて大きな声を出して、自分の存在をアピールし続けなければ、誰からも見向きもされない。見えもしない神輿を、ワーッショッイ、ワーショッイ、と音頭に合わせてみんなして担がなければいけないのを、苦に感じる本田のような者は、それを外側から、冷めた面して呑まなければならない。

 焼きうどんはほとんど減らなかった。みんな、飲み足りて、話に夢中になっているので、食べようとも思っていない。これまで残り物を食べ続けていた本田も、これには参ってしまい、申し訳ない、と残す決意を固めた。

 もうお開きか、という雰囲気がなんとなしに漂い、いくつかに分かれていた小グループが、それぞれ二次会の相談を始めだす。本田は酔いと油っぽい居酒屋料理を食べ過ぎたせいで、少し気分が悪くなりかけていた。

「あの! ちょっといいですか!」

 振り向くまでも無く、声の主は佐藤だった。余力がない本田は仕方なく、耳だけで応答することにして、丸めた背を向けたまま、聞き耳を立てる。

「ひとつ報告しておきたいことがあります。実は僕、櫻井花音さんと今、お付き合いしています!」

「ちょっと! 何言ってるの!?」

 頭で理解するよりも早く、体が勝手に花音を見つける。ほんの一瞬、目が合った気がしたが、花音の表情からは何も読み取れなかった。

「いいじゃないですか、先輩。別に職場恋愛禁止じゃないんですし。これを機に認めてもらいましょうよ」

「ちょっと。いいからこっち来て」

 花音は佐藤の腕を掴んでそのまま店を後にした。本田は花音の彼氏として、追った方がいいのか、追わないべきか、考えていた。浮気をされていたのであれば、激怒して追いかけた方がいいのだろう。でも、何かの勘違いなら、今、追ったことで自分と花音が付き合っていることが、他の先生方にバレてしまう。他人事のようにこころは冷静で、頭だけで考えている不自然さに、まだ本田は気づいていない。

 佐藤の報告の煽りを食らって教頭による挨拶は行われず、皆そぞろな足取りで解散となった。

「おい、本田。お前も二軒目行くか?」

「いえ、すいません。ちょっと調子悪いみたいで。すいません、お先失礼します」

「おお、そうか。じゃあまたな」

「本田君、よいお年を」

「メリークリスマス、はまだ早いか。イブ、明日だもんね。本田君またねー」

「それにしても佐藤のやつ驚いたなー」

「ほんとですよ。どうするんすかね?やっぱり移動?」

「さあ。校長が判断するんだろ。俺はいいと思うけどなー。そういう時代だろ」

「時代ですかねー」

 他の人たちが、花音たちの話をネタに、店を探して七番街をうろつく様を背後で感じながら、本田は一人、駅の腹へと通じるエスカレーターを上っていく。一歩一歩が重たく、もういいや、と足を止めて、流されるままに昇った。足を止めると、今度は脳みそが動こうとするが、酒のせいなのか何も考えられない。

 理由の分からない胸の苦しみが、波のように襲って来るのを堪え、釣られて呼吸がしにくくなる。いや、理由は分かっている。佐藤の言った、花音と付き合っているという言葉が深く、決して入ってはいけなかった、本田の大事な場所へ刺さっている。それが痛くて堪らない。


 本田はなんとか電車に乗り込み、席へ身を沈めるようにして全身を預けた。たった一駅で電車は最寄り駅に着き、追い出されるような思いで外に出る。いつもと同じ駅で、いつもと同じ寒さで、いつもと同じ霧の中だ。いつもと違うのは本田の方だった。

 胸の痛みは引かないが、頭は冷やされたおかげで冴えてきた。コンビニで缶チューハイを五本買って、近所の公園のベンチに座り込む。霧以後、公園の遊具は全て壊され、ここにはベンチと電灯があるだけの、寂しい広場だ。


 一本目。缶チューハイの冷たさで、食道がぐっと締まる。痛みの原因は分かっている。佐藤の言葉だ。でもあいつの言葉と、この痛みを繋ぐものはなんだ? 怒りか。誰に対しての? 自分を裏切った花音への? それとも奪った佐藤への? それを声高に宣言されたことで、プライドが傷ついて痛いのか?


 二本目。単に失恋の痛みなのかもしれない。最後に失恋をしたのは高校生だ。あの時は告白もせず、片思いが自然消滅しただけだったから、痛みなんて感じなかった。これが失恋の痛みってやつなのかもしれない。映画や小説の中にしかなかったもの。だったらずっとフィクションの中に在って欲しかった。わざわざ、こっちにまで出向いてきて、こんな痛みを教えてくれなくてもよかったのに。


 三本目。違う。フィクションの方からやって来たんじゃない。手を伸ばしたのは自分の方からだった。一年前、花音の告白を受けて付き合い始めたときから、この痛みの可能性は隣り合っていた。見えていなかっただけで。恋愛はフィクションでも、ましてやファンタジーでもなく、ただただドキュメントで、ムリにいじわるする脚本もなければ、救けてくれる奇跡もないのだろう。


 四本目、弱い雨が降り始める。もしかしたら佐藤の嘘かもしれない。嘘じゃないにしてもただの勘違いかも。付き合ってもいないのに、付き合っているなんて信じちゃっているんだ。可哀そうなやつだな。きっと花音がちょっと優しくしただけで、その気があるとでも思っちゃったんだろ。


 五本目。もし、万が一佐藤の言ってることが本当だとしても、あいつはただの浮気相手じゃないのか? それとも俺の方が浮気相手なのか? 俺が勘違いしていたのか。もう分からない。花音。


 ぽつぽつと降り出した雨は、まもなく本降りとなり、本田の着ているウールのコートを肩からじわじわと侵食していった。今朝のラジオで雨予報だと言っていたので、本田は傘を持って家を出ていたが、さっきの居酒屋に忘れてきてしまっていた。

 吸い切った煙草を捨てようと携帯灰皿を開けると、既に一杯になっていた。いつの間に自分がこんなに吸っていたのか、そこに困惑している余裕も無かった。何を考えることもなく吸い殻が右手を滑り落ち、雨に打たれて火が消える。濡れたことで火照りはなくても、脳みそだけは五本の缶チューハイで酔っていることを分かっていた。頭が回っていないわけでも、動きが鈍いわけでもない。同じ言葉だけがぐるぐる、ぐるぐる、すごい速さで回っている。

 雨のおかげで霧が静まり、一時的に視界が晴れている。しばらくそうして座っていると、公園の前を通りかかった人が、雨に打たれてうなだれている人物に気が付き、わざわざ近寄って声を掛けてきた。しかし、本田の耳には、誰かが何かを話している、程度の自分には関わりのない、遠い音にしか聞こえなかった。

 反応のない本田を不審に思ったのか、せっかく声を掛けてくれた人も離れていく。

 ――六十四から欠けた一は花音だったんだ。

 ほんの数時間前まで、この世界は本田のものだった。それは確かだった。でも、佐藤の一言で、花音が欠けた。途端、世界も欠けてしまった。

 この公園もそうだ。以前、何度も本田の家に行く前にここに立ち寄って、夏の夜風を浴びながら、二人きりで話をした。音楽の話、映画の話、お酒の話、次どこ行く? 何食べる? どんな話だって二人でして来た。自分の中にあるもの全てが花音とつながっていて、花音が消えると、その全ても一緒に持って行かれてしまったみたいだ。

 霧の晴れている今、はっきり見える。ここに一人だ。


 〝然し君、恋は罪悪ですよ。〟


 なら、罪の後には罰がやってくる。恋が与えた快楽を、恋が根を張った生活を、恋した相手を、罰は奪っていく。いや、違う。失ったあとに残った、この痛みだ罰なのか。であれば、これほどまでに巧妙な罪はないだろう。罪悪感はまるで存在せず、罰の痛みに苦しんでいるときになって、初めて己の罪に気が付く。罪と罰はきっちり釣り合っている。

 二流の劇のように出来過ぎた筋書きだと思った。ベンチを照らす電灯までもが、スポットライトのようで不愉快に映る。本田が席を立って帰ろうとすると、呼び止める声がした。振り返って見ると、知らない女性が立っている。

「あの、これ。よかったら使ってください」

 差し出しているのは、女性が差しているのとは別の、ビニール傘だった。

「すいません。ありがとうございます」

 愛想なく答えて受け取り、家に帰った。

 シャワーを浴びて寝間着に着替える。布団を被るとすぐに眠たくなった。

「ねえ、松下さん。電気消して」

 部屋の明りが舞台照明のようにすうっとしぼんで消えた。カーテンの掛かっていない窓から、霧の薄ピンクが弱々しく部屋に滲んできた。

 案の定、風邪を引いた。目を覚まして初めに自覚したのは、久しく会っていなかった全身を覆う倦怠感。恐る恐る額に手を当てると本田の予想通り熱がある。風邪だと分かると、咳が止まらなくなった。

 本田はめったに体調を崩さない質だったので、一人暮らしを始めてから薬などは買ったことがなかった。当然、この家の中にも風邪薬は置いていなかった。とにかく、水分と栄養は取らなければいけないと思い、冷蔵庫を開けてバナナと飲むヨーグルトを取り出す。こういうときは温かいものを摂った方がいいのかもしれないと考えたが、立っていることさえしんどく、面倒に思えたので、仕方なくバナナと飲むヨーグルトだけで済ませた。

 ベッドに戻って、いつ戻してもいいようにと、枕元にゴミ箱を用意して眠った。再び目を覚ましても、体の怠さは改善されていなかった。熱もある。背中は寝汗で蒸れている。本田は着替えようかと思ったが、それも面倒で体を起こそうとはしなかった。ベッドの脇に置かれた小さなテーブルからスマホを取って確認すると、日付が変わって深夜だった。誰からの着信もない。

 気を紛らわせようと、ダウンロードしてあった音楽を再生させるがすぐに止めた。本田が音楽を好きになったのも、花音の影響からだった。

 スマホを手放し、ペットボトルを取ろうと手を伸ばしたとき、距離を見誤ったのか、弾いて転がって行ってしまった。飲むのも構わずに眠った。ただ眠って過ごせるのは幸いだった。


 花音と二人で地下街を歩いている。高級ブランド店は、ちらと横目で見ただけで素通りし、鞄屋では、入り口に飾られている小ぶりの手提げカバンを、花音が持ってポーズをとる。値札を二人して覗いて、その高さに笑うと、店を出た。結局、よく行く、手を伸ばせば買えなくはない、ちょっとお高いブランド店に入って、いくつか花音が試着して見せてくれた。

 買ったものが入った紙袋を花音が大事に抱えながら、こちらに駆け寄ってくる。手を繋いで、何やら談笑しながら歩き、エスカレーターに乗る。すると、花音の手が離れ、花音は乗ってこなかった。放された指先に引っ掻かれたような痛みが残る。手に気取られていると、とっくに花音との距離が離れて、その表情は分からなくなった。

 焦って駆け降りるが、エスカレーターの進む速さの方が速く、花音との距離は縮まらない。小さくなって見えなくなる姿を追いかけるが、とうとう上の階についてしまった。

 そこは、蛍光灯の明りで白く灯された、エスカレーターのモーター音だけが床を這うように響く、静かな自分の部屋だった。ベッドの上のスマホが震える。表示されている名前は櫻井花音だった。急いで手に取り、応答ボタンを押そうとするが、なぜだか怖かった。


 本田は頭痛と吐き気で目を覚まし、トイレに駆け込むが、何も出てこずに胃液だけが上がって来た。水分を摂ろうと水を飲むが、すぐに吐いてしまう。喉が渇いて仕方ないのに水が飲めない。これはきっと脱水症状だと思った。水が必要な筈なのに、飲んでも吐いてしまうことが本田の恐怖心を煽る。こんな状態でも死ぬのが怖いか。死へ抗おうと、なけなしの知識を揮って水に塩を混ぜて少しずつ飲んだ。生きるためなら頑張れる身体が情けなかった。

 喉の渇きや吐き気は収まり、体調が落ち着いてくると、頭もすっきりしてきた。どうやら、風邪も大分よくなったらしかった。スマホを見ると、クリスマスは半分が終わっていた。相変わらず花音からの着信はない。

 クリスマス。花音は実家に帰ると言っていた。本田はそれが嘘だったのではと疑い始めた。疑い始めたというよりは、その事実こそが、花音が佐藤と付き合っていた証拠のようにしか思えなかった。いくら考えてみても、本田は花音のことを信じる口実を見つけられないでいた。

 佐藤の言っていたことが何かの間違いなら、花音から連絡があったに違いない。でも、それはない。スマホを居酒屋に忘れて、連絡が出来ないだけかもしれない。それとも、何か言い訳を考えているのか。本当のことを言っても、とうてい信じて貰えないと思って、信じてもらえそうな言い方を考えているのかもしれない、とまで本田は不細工な考えを広げた。本田はどんな内容でもいいから、花音からの連絡が欲しかった。

 本田からかければ、質問をすることしか出来ない。そうすれば、問いただす者と、釈明する者になってしまう。そんな上下関係を一度作ってしまったら、信用することも、許すこともできはしない。行きつく先は、終わりだけだ。だから本田は、花音の方から連絡してきて、言い訳をして欲しかった。

 どんな言い訳でもいい、それさえあれば、許せるし、信じる。そうすればもとに戻れる。何もなかったみたいに、二人してご飯を食べて、お酒を飲んで、映画見て、音楽聞いて、たまに佐藤の悪口を二人で言ってもいい。あの日々が帰って来るためのうそなら、僕も一緒につくから、だから連絡してきてくれ。

 本田はそう願いながらスマホを見つめる。



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