第2話
「すみません、今日はもう帰ります」
「あれ? 本田君、もう帰るの。早いねー、もしかしてデート?」
二年の学年主任の太田先生が、五時に帰ろうとする本田を訝しんでくる。教員がこの時間で上がるのは、それだけ不自然なことだった。三時半に授業が終わって、清掃とショートホームルームを行うと、四時からの部活の準備をする。部活が終わるのが、六時や七時なのでこの時すでに定時は過ぎている。そこから、明日の授業に使うプリントや板書の準備をしなければいけない。これが当たり前なのだ。
「違いますよ。ちょっとやりたいことあって。じゃ、お先失礼します」
「はーい、お疲れさまー」
本田は足早に校門から出ると、普段と同じ通学路を通って駅へと歩きだした。
一つ、二つ、三つ。三つ目の交差点にまで来て、足を止める。振り返って見た校舎は既に影も見えずに、霧に阻まれている。この時間帯であれば部活のない生徒はとっくに帰っているし、部活のある生徒の帰宅時間はまだなので、通学路に人気はない。本田はさっと道を外れて交差点を左に入り、さらに次の十字路で、また左に入る。
「よ。待った?」
「あっ。大丈夫だった? 気づかれてない?」
「大丈夫だって。気づきようが無いよ」
この深い霧は、職場に内緒で付き合うには頼もしい味方だった。花音とは二年前、本田が大学院を卒業後、この高校に赴任した際に出会った。歳は同じだったが、教師としては花音の方が先輩で、そんなところから花音の方から率先して、いろんなことを指導してくれていた。姉御肌で、誰に対しても壁を作らない明るさは、本田の持たない性質で、自分よりも体の小さい彼女の存在は、日に日に大きくなっていった。それでも、二人が個人的に学校の外で会う事はなかった。連絡だって、仕事に関係ないことではしなかった。本田には、好きだと打ち明けたい思いがあったが、フラれることを恐れて、言い出すことは出来なかった。
去年のクリスマスの前に花音から告白された時、本田は即了承し、ただし学校には内緒で、という条件付きでの交際がスタートした。決まりはないが、同じ校内で恋愛関係に発展すると、どちらか片方が、どこか別の学校に転属させられるのが暗黙の了解だったのだ。
「まあ、そうよね。で? お店は? 何食べに行くの?」
「え、俺? 決めてないよ?」
「えー、なにそれー。さいあくー」
「俺が予約するって話だったっけ?てっきり花音が予約してんのかと思ってたから」
誘ってきたのは花音からであったし、その誘いも急なものだったので、花音が行きたい店も決めている、と本田は勘違いしてしまっていた。せっかく無理して、残業もせずに時間を作ったデートを、不細工なものにしたくなくて焦り始める。本田はスマホを取り出して、メモしてある店の中から、今からでも入れそうな店を探す。
「クリスマスデートだよ? ほんとはまだ違うけど。それでもクリスマスデートなんだから、男の方がリードするのは当たり前でしょ? 違う?」
「ごめんごめん。参ったなー。……そうだなあ、カントンモンはどう? この前行きたいって言ってたでしょ?」
「中華かー。うーん、全然クリスマスっぽくない、けど。まあいっか、行きたかったし。じゃあそこにしよう!」
広東門はこの辺りでは有名な中華料理屋で、霧以前と同じ場所、大宮駅東口から徒歩五分ほどの場所でやっている。料理の味も人気だが、見つけにくいことでもまた、有名だった。本田はいつか行くだろうと思って、時間に余裕があった時に、予習がてら店の前まで訪ねていた。そのおかげですんなりと辿り着くことが出来て、ほっとする。
ビルの二階が広東門の店舗で、外観はつまらない、地味な普通のビルだ。霧以前に建てられたものの特徴である大きな窓に、ウェイターであろうチャイナドレスを着た女性がちらと見えた。霧のために外の様子は見えないので、最近のトレンドは、窓は羽目殺しで小さく、明り取りの機能しかないものが多い。その方が断熱性も高いので光熱費も抑えられ経済的なのだ。
そんな小さな窓を見たとき本田は、いっそのこと付けなければいいのにと思っていたこともあったが、消防法で人が出入りできるだけの大きさの窓を付けなければいけないと定められていることを、あとから知った。
大きな窓から外に抜けた光はただ薄桃の霧を照らすだけで、照らされた霧は風にたなびいて流れていく。一階から大きな窓に合わせて整列している赤みを増した霧は、子供のころに食べた駄菓子のさくらんぼ餅を思い出させた。プラスチック容器に並んだ四角い座布団みたいなピンク色の水あめを、つまようじで一粒ずつ食べていたあれだ。最後の三粒はいっぺんに刺して食べた。あれを美味しいと思っていた記憶はないが、これほど見かけなくなるとまた食べてみたくなった。
広東門の内装は中華料理屋らしく、赤と白を基調としたデザインで、中央部分がくるくると回る特徴的な円卓が並んでいる。香辛料や脂の臭い、店内に流れる弦楽器で奏でられた中華らしいBGM、それらが本田たちの気分を高揚させる。
「あー。どれもおいしそう。何にする? まず、角煮は外せないでしょ。それからチンジャオロースにマーボー豆腐。あ、スープもある。シメはチャーシュー炒飯でいいよね?」
「まだシメまで決めなくていいだろ。どんだけ食べる気だよ」
メニューには、どれも端に「二名様用」と表記されているが、中華料理は基本大皿なので、一品でどれだけ届くのか想像がつかない。なので、いっぺんにそれだけ頼んでしまえば、食べきれるかも分からない上に、相当な金額になってしまう。このような高級中華料理屋に慣れていない本田は不安に駆られて、やや居心地が悪くなった。花音のはしゃぐ様子を見て、花音も慣れていないのだな、と思うとと、なおさら不安になった。
「あっ、カズ。小皿ってのもあるよ。これでいくつか頼んでいけばいいんだね」
結果的に、花音が食べたいと言ったものを食べたい順に頼んで行き、合間にお酒を入れていった。水餃子、小籠包、マーボー豆腐、チンジャオロース、酢豚、おこげ、ユーリンチン、春巻き、これでもかと言うほど、花音が満足するまで食べ続けた。それが楽しかった。
本田は脂でテカる花音の唇に吸い込まれていく、あんの掛かった野菜を見ながら、話し始めた。会話の種類には、酔ったときに話すべき種類の話がある。酔ったときにしか出来ない話ではなく、酔ったときに話すべき話だ。真面目に話すには惜しい話、かしこまって話せば中身が消え去ってしまう話。本田はそんな風にして、いい加減な自分の考えを語って聞かせるのが好きだった。
「ねえ、8×8=?」
だからか、本田は酔うと度々このような、禅問答じみた遊びがしたくなる。花音は不審がる様子も無く答える。
「六十四」
「六十四から一を引くと?」
「六十三」
花音の方も慣れているので、一々何について聞いているのか尋ねる事なく、終いまで付き合ってやっていた。初めてこの問答を始められた時には、驚いていたが、それを理由に突き放すことはしなかった。本田は、今なら自分の話したいいい加減な考えを話しても大丈夫だろう、と酔いながらも機をずっと探っていたのだ。今では、なんの躊躇いもなく、変な話を始めている。
「だよね。じゃあ、六十三は八で割れる?」
「整数の中では無理ね」
「そう、割り切れないんだよ。たった〝一〟欠けただけで、その世界を構成する要素だった八は、要素ではなくなってしまうんだ。可哀そうだと思わない?」
花音は興味もなさそうに、かぶりを振って聞き返す。
「全然。なんで8×8が世界なの?」
「それはただの例えだよ。この前ふっと気が付いてさ。知ってた?俺の名前、和明って和も明もどっちも八画なんだよ」
「ふーん」
この答えにも花音は興味をそそられていないらしい。でも、本田はそれでよかった。自分の考えに関心を持たれなくても、共感されなくても構わなかった。生活している内に溜まった、自分でもくだらないと分かっている考えを、誰かに聞いてもらうことが目的だった。
「じゃあさ、どうしたら八はこの世界の構成員のままでいられると思う?」
「さあ?」
「それはね。八自身を引くことなんだよ。64-8=56、八の倍数のままだ。八自身が世界から消滅して初めて、この世界は八の物であり続ける。言ってる意味わかる?」
「全然。これ貰っていい?」
花音が指しているのは一つだけ残っているシュウマイだった。
「ああ、いいよ」
本田は花音が大きなシュウマイを酢醤油につけて、一口で頬張るのをぼうっとした頭で見つめ、かわいいなあ、と素直に思い出す。花音は食べることが大好きだ。自分でもそれを認めている。それでいて太ることもないし、痩せようと努力しているようにも見えない。この小さな体で、なにをそれだけエネルギーを使うことがあるのだろう、と本田は考えるが、用意していたもう一つの話をしたくなり、頭を切り替える。
「もう一つ聞いてもらってもいい?」
「ふん、ふんお」
「0
花音が、待った、のポーズで手を前に突き出し、口いっぱいのシュウマイを、味わいながら咀嚼してから飲み込む。
「正確には、マイナス273.15℃だけどね」
「そうなんだ。まあ、そこはいいとして。0K+0K=0K、これはいいよね?」
「もちろん」
こともなげに自分の言ったことをスルーされた花音は、不満げに相槌を打ったが、続きを話したくて仕方のない本田は、それに気が付かない。
「問題はだよ。(-273℃)+(-273℃)は、いくつかってことだよ。マイナス546℃になるのかってこと」
「あ、ほんとだ。そんな温度は存在しないもんね」
「そう! でも数学としては正しいんだ。数学は物理を、この世界を記述するのにもっとも適した言語だ、なんて言うけど、全然、完全なんかじゃないんだよ」
「273+273が数学かね。算数じゃない?」
「足し算も数学だよ。それにそこは本質じゃない。この世は完璧じゃない、って言いたいんだ」
「はいはい。そうですね。ねえ、やっぱりシメの炒飯、海鮮にしない? お肉ばっかりだったから海鮮にしたい」
「ああ、うん。いいよ」
手ごたえが無くても、一応、話したいことは話せたので、本田は満足だった。花音が海鮮炒飯を注文するのに合わせて、お酒のお替りも頼む。本田は炒飯を食べきれるのか、やや心配になったが、運ばれてくるのを待ち望みしている花音に水を差すのは申し訳ないと思い、黙っている。にこやかなその表情を見ていると、心配してこころを曇らせているのがもったいなく感じ、その場を楽しむために同じように炒飯が届くのを待ち望んだ。
「あー、食ったー! もー食べられない」
伸びをしながら、満足そうに笑う花音を見ていると、これが幸せなんだ、と誰に対してでも言えるほど、誇らしい気持ちにさせてくれる。二人は、最後の炒飯が余計だったかもね、と笑い合う。でもまた、全く同じ場面に出くわしたとしても、やっぱり炒飯は頼むと思うね、と笑い合う。
本田は、食べて、飲んで、笑って、これが幸せの全部の形なのかもしれないね、と言おうとしたがやめておいた。言わなくても花音は分かっている気がした。代わりに、ありがとう、と言うと、意味も分かっていないだろうに、どういたしまして、と言って花音は笑っていた。
店員さんから渡された伝票に一万八八六〇円と書かれており、さすがは高級中華、と覚悟していた金額に近かった。
「いくらだった?」
「ん、うん。今日は俺が払うよ。店予約してなかったし。そのお詫びとして」
「えー、うーん。いいの? だったら今度、新年一発目のお店は私が決めて私がおごるね」
「お、いいね。楽しみにしてる」
「任せときなっ。ふふっ」
駅へと向かう道、暗闇の中に、ぽつぽつと続く街灯の列を頼りに歩く。
外の冷たさは、火照った二人に心地よく触れ、手をつなぐ距離を、そっと狭めるために囃し立てているみたいだ。本田は冬の流れに任せて、つないだ手を引いて花音を抱き寄せた。
「ねー、酔ってるー?」
花音が腕の中で小刻みに笑う。暖かい。花音の頭皮の香りが近い。吐く息が掛からないようにと、上を向く。見える世界は霧ばかりなので、酔っているとふらついて、何処が上か分かりにくくなる。でも、この時の本田は、確かに、下に花音の存在を感じて、上を向いて応えた。
「うん、酔ってる。紹興酒が効いたなあ。でもあれ、美味しいね」
「初めてだった?」
「うん、初めて」
「そうなんだ。わたし中華行くときは、まあまあ飲むよ」
「そうだっけ? 知らなかった」
霧の世界に二人きり。少し離れれば互いに姿を捉えられなくなる恐怖よりも、誰からも見られていない豊かさに身をゆだね、キスをした。
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