君は霧中

杜松の実

君は霧中 著者 近藤玲

第1話

 仕事を終えて、薄手のウールコートを羽織って校庭に出た。この校庭も来年度には閉鎖されて、新しい校舎が建てられることになっている。

 男が薄桃色の霧を二十歩も進むと、校舎はただの黒いシルエットだけが浮かび上がり、壁と化した。さらに進んで校庭の中心まで行けば三百六十度、霧に阻まれその陰さえ誰からも見られることのない音だけの世界だ。その音さえ生徒がみな帰った学校ではほとんど聞こえない。さぼり場所としては最高だが、生徒たちからしても先生から目につかない、悪さをしやすい場所であるので、度々問題になっていた。左手に携帯灰皿を用意して、煙草に火を点ける。敷地内での喫煙は禁止されているが、見つかることはない。吐く煙は霧に紛れてすぐに姿を失い、煙草の火にあぶられた霧は、色を濃くして流れていく。見える風はこの世を粗っぽく攪拌かくはんしているようで、いいぞ、もっとやれやれなんて、ふざけた事を考えてみた。

 見上げれば一か所だけ、ひときわ赤く光っているところがある。あの明りの大きさならきっと満月だろう、と独言ひとりごちた。夜空は見えなくても、月はいつでも同じようにある。とくに今日みたいに月が明るい夜は、霧の色がいつも以上に艶めいて赤くなるから、以前以上に月を近くに感じているかもしれない。

 霧の温室効果のおかげで、日が大地を照らすことは無くても、十二月の最高気温は十三度近くを保っているが、さすがに夜ともなればこの薄いコートでは寒気がした。男はさっさと吸い終えてしまい、校舎に戻ろうとする。スマホを取り出して時刻を確認、あれが満月だとすれば校舎はあっちか、と雑な勘定で以て歩み出すと、間もなく黒い壁が霧中に浮かび上がったので安堵した。


 ここらは田舎のため、学校から駅までの道は、未だに区画整備が進んでいなく、幅広い車道は残っていて、街灯の間隔も以前のままで広い。霧の中から頻繁に顔を出す住所の書かれた案内板だけは、この田舎でも整備されていた。

 ――歩き慣れていなければ迷うことは無くても、心細いんじゃないかな。

 しばらく歩くと、煌々と輝くものが霧の彼方に姿を現す。、どんな小さな駅でも明るく装飾され、街のランドマークに変わっていった。街は、駅を中心とした生活基盤に構築し直され、駅は全ての拠点、ステーションになっている。

 本田和明が学生だった頃は、まだ「戦後」、「戦前」なんて言って、太平洋戦争を時代の転換の象徴として使っていたが、今では「霧以前」や「霧後」、「アフターフォッグ」など五年前、二〇二〇年に霧が世界中を覆いつくしたことを受けた語が用いられている。今年で二十五になった本田は、世の中が霧に揺れて霧に流され、霧に適応していく様を眺めながら大人になった。十代の頃とは生活も大きく様変わりし、不便に感じることも多いけれど、人類が困難を克服しようと前進してきた歴史は本田には誇らしかった。

 本田が自動改札に定期をかざすと、霧を遮断するための透明なアクリル扉が、正常に作動して開き、中に入るとWi-Fiに自動接続されたスマホから、通知音が鳴る。三日後の忘年会の店が決まったとのお知らせが、一斉メールで届いていた。構内のベンチに腰を下ろしてニュースをチェックしてから、エレベーターを使ってホームに降りた。当然、ホームにも霧が充満しており、Wi-Fiが切断される。まもなく電車の到着のアナウンスが鳴り、足元の白線を注意深く確認してから乗車位置に立った。

 二十分ほど揺られて乗換駅である大宮に着いた。大宮はこの辺りでは最大の都市であり、新幹線が多く止まることも自慢の一つだ。この日、本田は自宅に向かう電車に乗り換えるのではなく、地下街へと通ずる地下改札を抜けた。

 この大宮地下街は霧後に作られ、その規模は年々拡大していき、今や街というより都市と呼ぶに値する規模にまで拡張されている。ブティックやコスメ、レストランに映画館、病院、ホテル、区役所までもが地下街に在る。地下空間は徹底的な空調で以て霧を押し出してクリアな環境を維持すれば、電波通信が自由に行える場所として、霧以後重宝されるようになった。このたった五年で開発は日進月歩の勢いで進み、資本の集まる投資マーケットとして賑わっている。

 地球の表面を遍く覆う薄桃色の霧は、霧状に見えるだけであって、実際は赤く微発光する粒子の集まりであることは小学生でも知っている常識である。この粒子は、紫外線や可視光だけでなく、比較的波長の短い赤外線にまで干渉してしまう為、二十一世紀を代表するかと思われていたIoT技術やオンラインを扱ったサービス技術は、衰退するしかなかった。

 霧の存在が初めて確認されたのは、二〇〇一年、中国の砂漠地帯の地下水からであった。アメリカの物理学者リーマンが発表した、『この赤く微発光する粒子が、二〇二〇年には世界中を覆い、一部の電波通信は使えなくなる』という予想を、学会が承認した二〇〇八年には、先進技術を扱う企業を中心に株価は大暴落し、一九二九年『大恐慌』以来の世界恐慌となった。それだけリーマンの提唱した予想はセンセーショナルなものだった。

 エスカレーターでB1へ降りると、そこは一番街と呼ばれる区画で、B12までまっすぐに落ちる吹き抜けの周りを、ブランドのロゴが彩り、一昔前の百貨店同然とした風景だ。違うのはここが地下だと言う点で、本田がたった今降りてきた上を見上げれば、エスカレーターの分だけ切り抜かれた夜空が、吹き抜けに合わせて投影されている。本田はこの地下街へ頻繁に顔を出しているためこの人工オリオン座はすっかり見慣れている。しかし、作り物であるのだから当然なのかもしれないがそれでも、この星たちは何かが変だ、と前々から思っている。元々、星はただの光の点であるのだから、こうして人工的に光の点で表したところで、問題はない筈だろう。光度が違う、配置が違う、そんな微妙な差であれば、熱心に星を見たことのない自分に、その違和感に気付けるだろうか、と本田は考えてみるが、五歩も歩けば興味を失い、忘れた。

 そのままB3まで下りて脇へ逸れ二番街、オフィス街である四番街に抜けて、さらに地下に潜る。街の番付は開発された順になっているので、二番街と三番街は隣り合っておらず、一番街二番街四番街の下に作られた七番街は、大宮地下街の最下層だ。ここらはチェーン展開されている居酒屋やラーメン店、ファストフード店などが軒を連ねている。

 本田は牛丼チェーン店で腹八分目まで満たすと、さらに一つ下った地下十四階の奥まった場所にあるバーを訪ねた。

 『le bar ; fenêtre』、マスターに以前聞いた時、フランス語で〝窓〟を意味する店名だと教わった。店内はカウンターのみの六席で、一席一席に柔らかい明りがスポットライトのように当てられている。

「いらっしゃいませ、どうぞ」

 いつきても満席になっているところを見たことがなかった。地下街の中では端だと言っても、家賃は地上に比べれば安くはないはずであるから、本田は馴染みの者として不安になる。聞けば、上の階の飲食店関係者が多く利用しているようで、深夜帯になれば、それなりに賑わっているそうだ。

 この日も、入った時に居た客は一人の老紳士だけだった。

「どうします?」

「うーん、そうだなあ。ショートでスッキリしたやつ。甘めじゃない方がいいかな」

「ショートでスッキリ、で甘くない」

 マスターは振り返って、戸棚に所狭しと飾られているお酒の瓶を眺めながら、思索を始める。

「やっぱりジンで?」

「そう、ですね。ジンで」

「かしこまりました」

 注文を聞き入れると、マスターは何も言わずに灰皿を差し出す。このバーが開店した一年前から、必ず月に一度は、多い月は三四度通っている為、すっかり常連と見做した対応をしてくれる。本田はこの店をよく気に入っている。屋内で煙草を吸える場所は霧が生活を覆いつくすよりも速く駆逐された。少し前まではかろうじて小さな個人経営の居酒屋でも吸えたが、今では飲みながら吸えるのはバーくらいだ。

 中でも、このバーを気に入っているのは、このバーには多くのクラフトジンが取り揃えられているからだ。ジンは、杜松ねずの実というスパイスを使った蒸留酒で、杜松の実さえ使っていれば、ジンと呼べるというほど、定義のゆるいスピリッツだ。そのため、クラフトジンには幅がある。杜松の実を使い、あとの余白は各々の作り手次第であるので、その飲み口の差は、ほかのどんな酒よりも多い、と本田は考えていた。飲み比べて、違いを認識し、言語化する、そういった脳でもお酒を飲むという感覚は、クラフトジンに顕著な特徴だと思っている。

 酒と煙草とマスターとの会話で、二時間ほど居座りお会計を頼むと、八千円を超えていた。安くない出費にも、酔いと美味しかった時間から、満足感しか含まない「また来ます」を言い残して、地上へ戻った。先ほど出てきた駅へと通じる道を選んで地上に出なくてもよかったのだが、本田は温かくなった頬に、風を感じたくなったのだ。

 暖かい地下から出ると、冬場の空気が、肌を撫でつけ水分を奪い去るのが天命、とも言わんばかりに襲ってくる。ピンクの霧は、霧に見えるだけで水分ではないため、肌を乾燥から守ってくれることは無い。

 吐く息が白い。両手をポケットに突っ込み、肩を迫り上げて、大きな影として霧に抱えられた駅へと向かう。


 大宮の隣駅から徒歩十分、という好立地に本田の住むマンションは在った。六階建てマンションの六階の隅、部屋は簡素な作りで、広さはそれほどではないが、独り暮らしには十分な広さだ。風呂トイレ別、これを条件に探して見つけたのが、この家だった。入居時に、霧のための換気設備を新たに設置するために金は余計にかかったが、その分、敷金礼金は大家さんが安くしてくれた。

 玄関を開けると、ファンが自動的に、ゴウンコンコンコンと作動して、漏れ入った霧を外へと吸い出す。

「ねえ、松下さん。モニター出して」

 巻かれて収納されていた有機ELディスプレイが天井から垂れ下がり、「ハードディスクに保存されている映像を見る」、「スマートフォン等その他のデバイスに保存されている映像を見る」、の二つから選択できる画面が表示された。スマホで操作し、カーソルを合わせて選択すると、スマホ内に保存されている動画一覧が表示される。

 明日の午前十時に消去されてしまうレンタルした動画の中に、一本まだ見ていないものがあるので、見てしまわなければいけない。それはベテランのお笑い芸人が開催した単独ライブを映像化したもので、つい五年前までは、毎日のように見ていた彼らを再び見ることができて、なんだか懐かしくなった。彼らはやっぱり板の上でも面白かった。

 大人になると、おかしくて笑うことはとんと少なくなる。笑っていると、むかし流行っていた〝デトックス〟なんて言葉を自然と思い出した。確か、老廃物を身体の外に出して、心身ともにリフレッシュする、と言った感じの言葉だったと記憶している。ああ、今がそうかもな、という言葉がなんとなしに本田の中に湧いてきて、考えて出た言葉ではないものに、ひどく納得させられた。


 ピリリリーン ピリリリーン


 本田は見ていた動画を一時停止して、スマホを拾って見ると、相手は櫻井花音だった。花音からの電話が鳴る度、今になってもドキドキするのは、なんだか情けなかったけど、それほど自分は彼女のことを愛しているのだ、と自慢したい気持ちにもなった。

『もしもし。今、何してた?』

「お笑い見てたよ」

『あれ? そんな趣味あったっけ?』

 花音の弾んでいる声を聞きながら、こっちまでウキウキして口元が緩くなっているのを、自覚する。

『面白い? 誰の?』

「面白いよ。オースチンの単独ライブ見てたの」

『あー懐かしい! よかったね』

「うん。久しぶりに笑ったよ」

『なにそれ。私と居る時だって笑ってるじゃない』

 ムッとするかな、と思って本田はわざとからかう様なことを言ってみると、思った通りに、花音は少し不機嫌になった。自分の言葉で彼女の感情をころころ変えられるのが、また嬉しくなる。

「ごめんごめん。そんなつもりじゃないよ。花音と居るときは、幸せだなあ、楽しいなって微笑んじゃうんだよ」

『ふーん。そう』

 花音は怒った口調を続けているが、そんな風に言われてまんざらでもない、って感じがにじみ出ていた。本田はこうして、自分にとって花音はかけがえのない存在であることを無意識的にアピールする。

『そうだ。ねえ、明日か明後日、ご飯食べ行かない?』

「え? でも三日後、忘年会あるよ?」

『そうだけど、今年は二学期終わったら、わたしすぐ実家帰らなきゃだから、クリスマス一緒に居れないじゃない? その代わり、と言ってはなんだけど』

 花音の声は少しだけ申し訳なさそうに沈んでいる。本田はその声を聞いていると、これ以上そんな気でいさせたくないと思った。

「そうだね。じゃあ明日。クリスマスデートしよっか」

『いいの! よかった~。じゃあ明日ね。残業しないでよ』

「はいはい、わかりました。花音も、残業しないでよ?」

『あーい。じゃあねー』

 静かになる。一人暮らしを始めてから、部屋が静かになることは、寒くなることとイコールだと知った。実際、分子の振動が音であり、熱であるのだから、静かになることと寒くなることは、同値なのかもしれないが、人間の持つ感覚で感じ取れるレベルの世界ではないことは、分かっている。

 それでも、やっぱり静かな部屋は寒いのだ。本田はスマホを操作して動画を再生させ、画面に映らない観客たちが笑うのと同じように笑った。


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