悪摘み

全力で消費者

No.1 春日弘(58)

 暑い。酷く暑い。

 春日かすがひろしは額に滲む汗をハンカチで拭いながら、暗闇に沈んだ町を歩いていた。


 腕時計を見る。定時などとうの昔に過ぎ、針は九時前を指していた。本来であれば今日は取引先に出向いた後直帰する予定だったが、会社で大きなミスが発覚しこのザマだ。挙句の果てに、ようやく飛び乗った電車は浴衣で浮かれた人々で溢れかえっていた。そういえば夏祭りなんて風習もあったなぁと考えつつ、両手で鞄を抱えた格好で押しつぶされたまま、どうにか最寄りの駅に到着し今に至るのだ。


 家に近づくにつれ人もまばらになっていく。

 何となくほっとしたのも束の間、胸のポケットに入っていた携帯が大きく鳴った。慌てて画面を確認して、深いため息を吐いた。

 そうだ、妻への連絡を忘れていた。画面にはいくつものメッセージの通知が表示されていた。そのどれもが執拗に帰宅時間を尋ねてきている。

 おそらく家に帰ったらネチネチとした厭味ったらしい説教が待っている。そう考えるとただでさえ疲労の溜まった身体が一層重くなる。途方に暮れ、思わず足を止めた。


 帰りたくない。


 最近、妻とは上手くいってない。

 結婚して二十三年という月日のせいなのか、今ではほとんど会話がない。メールもこういった必要最低限の連絡だけだ。それだけならまだしも、妻は苛々してばかりいる。家事をしないだの部屋にこもってばかりいるだの、何かにつけてタラタラと飽きもせず俺に文句を漏らすのだ。

 今回のように俺が悪いこともまぁあるが、毎回毎回呆れたような口調で見下されるのはあまり気分のいいものではない。昔はもっと穏やかな女性だったような気がするのだが。これが俗にいう更年期なのだろうか。

 高校生になる娘もそうだ。反抗期なのか、顔も滅多に合わせてくれない。たまに見かけたと思ったら、声を掛けるだけで蔑むような眼でこちらを睨んでくる。


 ひとつ考え出すと、憂鬱な気分がどんどん募っていく。家に帰ってのんびりと休みたい。しかし家に俺がくつろげるような場所は最早無いのだ。


 「俺の家なのに…」


 もうひとつ大きなため息を吐き、メッセージアプリに『遅くなる』と打ち込んだ。そのままふらふらと家路とは別の適当な小道に入った。

 

 このまま家に帰ったところで重要な精神は休まらない。明日も会社だというのにこれ以上消耗してたまるものか。どこかで酒でもひっかけて、二人が寝たころに帰ろう。うん、それがいい。

 目的地が家でなくなった途端、急に気持ちが楽になった。そんな状況に少々呆れつつ、陰鬱な考えを払うように歩みを進め、店を探す。どこかこの辺りで飲める場所はあっただろうか。


 その通りはやけに静かだった。俺以外に人はおらず、道が狭いせいか車も通っていない。おまけに左右を明かり消えたビルに挟まれており異様に暗いのだ。まるでここだけどっぷりと夜に吞まれてしまったかのようだ。この町に住んでもうすぐ二十年になるにも関わらず、初めて見る道だ。

 その不気味な暗がりに年甲斐もなく怖いという感情が芽生える。暑さとは別の汗がじわりと滲んだ。


 その時ふと、赤い光が視界に浮かぶ。目を凝らしてみると、どうやら光っているのはOPENのネオン看板のようだった。やっと見つけた人の痕跡に思わず安堵しつつ、速足でそこに向かう。

 

 そのネオン看板はひとつのビルの壁に乱雑に吊り下げられていた。本当にただそれだけで、店らしい装飾は何もない。客を呼ぶ気をまるで感じさせないが、本当に営業しているのだろうか。

 訝しみながらドアもないむき出しの入り口を覗くと、階段が数段あった。そしてその奥には重厚な木製の扉が待ち構えている。

 『Bar Pick the Evil』と、そう書かれた看板がそこにはぶら下がっていた。


 一瞬躊躇い、左右を見渡す。しかしどう見てもここ以外に店はなさそうだった。加えて長時間歩いたせいで足腰は限界ときている。喉も酷く渇いた。

 意を決し、おそるおそるドアを開く。カラン、とやや重たいベルの音が俺を迎えた。


 「いらっしゃいませ。」


 最初に目に飛び込んできたのはバーカウンターに立つ青年の姿とその声だった。

 白いワイシャツに黒いベスト。蝶ネクタイをしていないことを除けば、バーテンダーの正装だ。すらりとした体型によく似合っている。

 しかし一際目を引くのは真っ白に色を抜いたその髪である。崩したマッシュルームカットのような髪型といい、最近の若者らしい風貌だ。

 

 でも良かった、ちゃんと営業してるじゃないか。不安も晴れ、俺はずかずかとカウンターの真ん中の席に腰掛けた。青年は俺の方を見てそっと微笑みを浮かべた。


 「ハイボールを、えー…っとニッカで。」


 「かしこまりました。」


 差し出されたおしぼりを見て思わずぎょっとする。

 おしぼりを包む青年の手があまりにも白かったのだ。それこそ頭の色に負けないくらいには。指の細さも相まって何というか、気を抜くと不気味に感じてしまいそうな手だった。目を逸らしながらそれを受け取った。

 

 青年が酒を作っている間、手持ち無沙汰になり何となく店内を観察する。

 本当に小さな店だった。席はカウンターに五席、奥に二人席が一つ、あるだけだ。目立った装飾品も置かれていない。

 そして今まで気が付かなかったが、その二人席にはどうやら一人、先客がいるらしかった。薄暗くてよく分からないが、パーカーのフードを深くかぶっているようで顔は見えない。酔い潰れているのだろうか、長い足を投げ出すようにして背もたれ付きの椅子にもたれかかっていた。


 「お待たせ致しました。」


 青年の声に慌てて前を向く。つるつるとした木目調の机に黒いコースター、次いでハイボールが静かに置かれる。

 軽く会釈をし、早速グラスに口を付ける。きめ細かな炭酸が喉でアルコールと一緒に弾けた。爽やかな香りが鼻を抜ける。


 「こんな時間までお仕事ですか?」


 青年は淀みのない、柔らかな声でそう尋ねてくる。


 「そうなんですよ、今日は。もう歳なのに参ります。」


 グラスを置きつつ、改めて青年を見る。やはり驚くほど肌が白い。しかしその点を除けばかなり綺麗な顔立ちをしている。変な髪色にしなければいいものを。

 青年はその骨ばった手でグラスを拭きながらまた柔和に笑う。


 「お勤めご苦労様です。そんな中この店まで来て下さったのですね。」


 「…正直家に帰っても家内がうるさくて。こっちは仕事で遅くなってるっていうのに。全く。」


 「それは…八方塞がりのような気持ちになりますね。」


 思わず漏らした愚痴に、青年は困ったような顔をしてそう言った。その的を得た反応と言葉に、気づけば声量が上がっていた。


 「そぉなんだよ正に!どうすればいいんだか。」


 そんな俺の様子を見て、青年は軽く頷く。


 「相当溜まっているご様子ですね。酷く疲れていらっしゃる。」


 俺は誤魔化すようにハイボールを煽った。自分よりはるか年下の青年に愚痴るのが、急に気恥ずかしくなったのだ。

 しかし不思議だった。俺は普段こういった場所であまり喋らない。一人で嗜むべき時間に他人と話すのが面倒なのだ。それなのに煩わしさを感じるどころか、今日は口がスラスラと動き、声が零れ落ちていく。

 渇いた身体にアルコールが沁みたから?この店の非日常的な雰囲気のせいか。それとも青年の言うように、酷く疲れていたのだろうか。


 「妻も娘も、私を邪険に扱うんです。」


 気が付くと、そう話し始めていた。


 「貴方はまだ若いから分からないかもしれませんが、長年家族として一緒にいると段々と色んなことを忘れちまうんですよ。全部が当たり前になって、自分と他人の線引きすら曖昧になるから、感謝の気持ちやら尊重する気持ちやら、そういうのは全部消えちまう。やってもらって当然。自分はやらなくて当然。だのに軽蔑とか嫌悪感はいっちょ前に残していやがる。」


 汚いものでも見るかのような妻と娘の目が頭をよぎる。

 確かに俺は若い頃より体もたるみ髪も薄くなり、汗っかきの汚らしいおっさんに変貌した。そりゃ自覚はあるが、人は誰でも老いるのだから仕方がない。俺だって好きでこんなナリでいるわけではない。

 にも関わらず人を邪魔者のように扱って。一体誰が生活を支えていると思っているんだ。俺が働いて稼いだ金を享受しなければ生きていけないことを、あの二人は分かっているのか。生活費や学費は降って湧くとでも思っているのだろうか。

 

 「あんなことまでして…」


 沸々と湧いてきた怒りに任せて一気にハイボールを飲み干し、同じものを濃いめで頼む。

 青年は静かにグラスを下げ、こちらに身体を向けたまま酒を作り始めた。どうやら話の続きを待っているようだ。

 自然と口角が上がるのが分かる。人に鬱憤をぶちまけるのは、こんなにも愉しかっただろうか。


 「…先日に至っては趣味の模型を勝手に売りに出されましてね。」


 「模型、ですか。」


 「昔から電車が好きでしてね。いわゆる鉄オタですよ。色々コレクションしてたんですけどね。ある日家に帰ったら三分の一くらい無いんです。オークションかなんかで出品したらしくて。」


 一か月ほど前の事を思い出す。例のごとく仕事を終えてやっとの思いで帰宅すると、自室に飾っていた三つのショーケースのうち一つが丸々消えていたのだ。

 愕然としつつ問い詰めた所、どうやら発端は娘にあるらしかった。そして事もあろうに妻もその提案に乗り、五万円と引き換えに私の模型は姿を消したのだ。

 当時の怒りを思い出し、思わず歯ぎしりする。


 青年は新しいハイボールをコースターの上に置き、痛むように眉をひそめた。


 「それはショックだったでしょう。怒らなかったんですか?」


 「勿論怒鳴り上げましたよ。けど妻も娘も喚いていて話にならない。ったく本当にどういう神経してたら人の物を勝手に売るなんぞ、非道なことが出来るんだ。」


 グラスを大きく煽る。いつもよりペースが速いことは分かっていたが、今日はタガが外れていた。酷くいい気分だ。

 机にたたきつけるようにしてグラスを置く。ドン、と思ったより大きな音が鳴った。


 「こっちは毎日毎日妻と娘のために汗水流して働いてるってのに、家では鬱陶しがられるし挙句の果てには趣味まで取り上げられて。俺は一体何なんだ、家畜か?妻はパートしかしてないくせに、娘なんかはまだ学生なのに、何で俺がこんなにも肩身の狭い思いをしなければならない。あいつらは俺の苦労も有難さも、何ら判っちゃいない、判っちゃいない!」


 黒く、熱い何かが俺の中で噴き出してくるようだった。

 そうだ。その通りだ。俺はずっと毎日頑張っている。それも俺自身だけじゃない、家族のためだ。なのに俺だけが何故こんな思いをしなければならない?ろくに趣味すら楽しめないまま、俺は一生家族に虐げられ搾取され続けるのか?

 俺の人生だぞ。そんなことがあってたまるか。あってたまるものか。


 「だったら」


 その時、急に青年が両手を机につき、カウンターに身を乗り出してきた。そのまま俺の耳元に顔を近づけ、青年はそっと囁いた。


 「痛めつけてやればいいじゃないですか。」


 先程までとは打って変わった艶やかな声に、一瞬酔いが冷める。

 青年は吐息を吐くように笑い、体勢を戻した。固まったままの俺をよそに、ワイングラスを拭き始める。


 「見えない存在を認めるのは結構難しいんですよ。お客様のご家族も恐らく同じでしょう。お客様の心情が見えないから想像することすら出来ない。いくら口で説いたって駄目です。それでは思考しか伝わりませんから。重要なのは心を判らせることです。」


 青年は柔和な笑顔を浮かべたままだ。

 

 「他者の心が判らない者には、その者の心で判らせてやればいい。は時に人間とっての良薬となります。そしてそれを知らしめることが許されるだけの仕打ちを、お客様は受けた。」


 青年の言葉はふわふわとした抽象的な表現だったが、言わんとすることは何となく分かった。


 要するにこの青年は、妻と娘に仕返しをしないのかと俺を誘っているのだ。それもおそらく、良くない方法で。


 放置されたグラスの中で氷が涼やかな音を立てる。

 こんな提案をされて、ほとんどの人は激昂するに違いない。何を言うか、いくら何でも大事な家族を傷つけられるわけないだろう、愚弄するな、と。

 しかし今日俺はアルコールに浮かされていた。この心地よい空間で、己の中の攻撃的な負の感情を認めてしまっていた。そして酷く疲れていた。


 正常な反応が出来なかったのは、きっとそのせいだ。


 「そうだなぁ出来るもんなら…、ちょっと懲らしめてやりたいなぁ。」


 喉から落ちたのは、強かな冷笑のこもった自分の声だった。

 それを待っていたかのように、青年はワイングラスをそっと傍らに置いた。そしてその細く長い右手を胸に添える。


 「私に任せて下されば、お客様の望みを叶えて差し上げましょう。」


 バーは建前で、実はここそういう場所なんですよ。と歌うように青年は続けた。


 「人間は往々にして、決して口に出来ない黒い願望や暗い欲望を秘めているものです。わたくしどもはその望みを叶えるお手伝いをさせて頂いています。表沙汰には出来ないような望み、具体的には法に触れるようなもの限定ですがね。復讐代行サービスに少し似ているでしょうか。」


 俺はただ阿呆のようにぽかんと口を開けて目の前の青年を見ていた。さも当たり前のことのように青年は説明を続けるが、突拍子もない内容に理解が追い付かない。しかし青年が冗談を言っている訳ではないということだけは明確に分かった。

 青年は軽く肘を曲げ、手を前で組む。少し細められた目が嫌に鋭い。


 「最も、わたくしどもの手を借りずとも、お客様の場合は安全な圏内から仕返しをすることは可能かと思われます。例えば奥様や娘様の大切なものを売りに出す等。目には目を、ですね。…しかし。」


 まるで魅入られたように、俺は青年から目を離せない。


 「お客様の抱えている憎しみがその程度で収まるとは、私には思えなかったので。」


 その言葉に鼓動が大きく波打つ。同時に様々な想いがスッと俺の中で収束した。

 そうか、俺は憎んでいたんだ。

 虚無感や寂しさ、理性で誤魔化していたが、違う。変わってしまった妻を、触れてくれることすら無くなった娘を、俺は腹の底で憎んでいた。それこそ模型が消えるずっと前から。


 認識した途端、蓄積され続けた不満に心が沸々と蝕まれていくのが分かる。

 惣菜ばかりの晩飯、俺のものだけ分けられた洗濯物、妻の冷たい目、娘の舌打ち。ついには二人の嘲るような笑い声まで聞こえ始める。

 が何故こんな思いをしなければならない?大黒柱の俺が。

 

 少し、ほんの少し判らせてやっても、いいんじゃないか?

 思い知らせてやるのが、妥当じゃないか?

 そうさ、やれるものなら。


 生唾を飲み込んで口を開く。


 「具体的には…、何を。あんたらはするんだ。」

 

 思わずたどたどしい口調になってしまう。そんな俺を見かねて、青年は新しいグラスに水を注ぎ、ハイボールの横に置いた。


 「準備です。お客様の望みが何者にも邪魔されず完璧に果たされるように、わたくしどもは絶好の場を提供致します。その際、当然ながらも準備の一つに含まれます。すなわちお客様の望みが、お客様ご自身が警察に捕まることは絶対にありません。これは確約致します。」


 その言い回しにぞっとする。

 それはつまり、人を殺すことさえ可能ということか。


 「どうしますか?」


 突きつけられるような青年の声に、残っていた酒を一気に飲み干す。

 殺してやりたいとは思っていない。違う、そんなことがしたいわけじゃない。


 ただ俺は二人を見返してやりたいだけなんだ。粗雑な扱いを詫び改心して、昔のようにまた俺に頼ってくれれば、俺はそれで満足なんだから。でいいのだ。

 

 だから、多少のことは許されるはずだ。


 青年の話が本当ならば、今日ここに来たのも何かの巡り合わせだ。きっと神様がこの渋い人生を取り戻すチャンスを与えてくれたに違いない。

 それに、これまでやられた事を鑑みるに少し痛い目を見てもらわないと釣り合いが取れないだろう。そう、ちょっと怖がらせてやるだけだ。

 

 口を開きかけ、やはり少し迷う。

 だが…、しかし。


 最後に頭に浮かんだのは、もう戻ってこない鉄道の模型たちだった。


 「お願い、しようかな。」


 これは正当なことだ。悪いのはあの二人なんだから。


 青年は俺を迎えた時と変わらない、温厚な様子でにっこりと笑った。


 「では、内容をお伺い致しましょう。」






 





 暑い。酷く暑い。

 相変わらず真っ暗な例の路地を歩きながら、静かに鳴り続ける鼓動を押さえるように胸に拳を当てた。

 正直現実味が湧かず、夢を見ているような感覚だ。足にも心なしか力が入らない。


 あの夜から一週間後の今日の夜二十二時、俺はまたあのバーに向かっていた。


 『妻と娘をどこかに誘拐して、拘束してほしい。』


 それが俺の依頼内容だった。

 

 『でいいのですか?』


 少し驚いた顔の青年に畏怖の念を覚えつつ、俺は頷いた。


 『そのまま俺がその場に現れて、今まで俺にした仕打ちを問う。拉致される時点で相当の恐怖は味わうだろうし、自分たちのしたことを理解するはずだ。もし理解しなかったその時は…判るまで教育するだけだ。』


 そう言った俺に、青年は納得したような顔で今日の日時を指定したのだった。


 路地の静けさが自分の心音の大きさを浮き彫りにする。背中には冷たい汗が滲んでいた。

 本当に青年はあんな依頼を聞き入れたというのだろうか。あの時は多少酔っていたが完全な素面である今は、僅かにからかわれているのかもしれないとさえ思う。いや、それならそれでいいのだ。何も起きていないのなら。

 

 ただ、今日は妻からの連絡が来ない。


 店の前に到着し、震える足で階段を登る。自分が後戻りできない所まで進んでしまったような気がしてならない。

 いいのだろうか、こんな事をしてしまって。いや、いいはずはないのだが。なんてことをしてしまったんだ、俺は。

 事が起こっているのなら今更もう手遅れだと分かってはいるが、ここまで来てまだ葛藤が繰り返されている。

 

 しかしそんな罪悪感や焦りとは裏腹に、自身の中の何かが高揚している事もまた、抗いようのない事実だった。


 「お待ちしておりました。」


 バーの扉を開けると青年はカウンターから出て来て、軽く頭を下げた。


 「準備は整っております。」


 その言葉を聞いた途端、一気に心臓が跳ね上がった。掌が異様なまでに熱を放っている。

 客に仕える青年の従順な姿勢を見て、からかわれている等という甘い考えは吹き飛んだ。


 本気だ。この青年は俺に言われて、本当に犯罪を犯してしまったのだ。

 

 「料金の方のご準備はよろしいでしょうか。」


 固まった俺を見て不安になったのか、青年は少し訝しむように尋ねてくる。俺はロボットのようにぎこちなく頷いた。

 後払いで構いません、と、青年は軽く微笑み、店の奥を手で指し示した。促されるままに視線を動かすと、前回来た時にあった二人席が片付けられていた。代わりにその場所に、ぽっかりと穴が空いている。


 「あそこを下った先に扉があります。」


 青年は一言そう言って、手にしていた鍵を俺に差し出した。


 つまり、その扉の先には。


 思わず目が泳ぐ。


 「ほ、本当に、俺は捕まったりしないんだろうな」


 「勿論ですとも。さぁ、お荷物もお預かり致します。」


 何か言おうと口を動かすが、何も言葉にならなかった。

 大変なことになってしまった。大変なことをしてしまった。

 頭の中がぐるぐると気持ち悪く回転しているようだった。呼吸が荒い。足腰ががくがくと震えた。自分から依頼したこととは言え、あまりの混乱に逃げ出したい衝動に駆られる。

 

 「どうされましたか?」


 そんな様子の俺を見て、青年は可笑しそうに鍵を手で弄んだ。そして甘い声で囁く。


 「大丈夫。貴方は悪くない。」

 

 その言葉に、はっと目を見開く。震えが止まった。


 そうだ、俺はあの夜に考えたはずの事を忘れていた。直視した心を忘れていた。

 徐々に身体が恐怖から解放されていくのが分かる。代わりに頭をもたげたのは様々な念の籠った憤怒と、言いようもなく昂ぶった愉楽だった。


 何を怖がっているんだ。大丈夫、何も問題はない。俺は今からをしに行くんだろう。

 

 俺は鞄と引き換えに青年の手から鍵を受け取り、その穴に向かう。恐る恐る中を覗くとオレンジ色の蛍光灯に薄暗く照らされた、長い階段が見えた。


 そして意を決し、その穴に足を踏み入れた。

 

 「ごゆっくりどうぞ。」


 背中に青年の声を受けつつ、一歩、また一歩と階段を下っていく。上から見ると長かった階段は、下ってしまえば案外短いものだった。


 下り切った先にあったのは重そうな鉄製の扉だった。大きく深呼吸をする。


 この先にいる二人は恐怖に泣いているのだろうか。俺が来たらどう思うだろう。安心するだろうか。それとも、事情を説明する前に怒りだすだろうか。

 後者であれば、その時は。


 握りしめた拳を解き、南京錠に鍵を刺した。


 「思い知らせてやる。」


 かちゃりと軽い音がして、錠が外れる。そっとその扉を開けた。



 しかし。



 「あ…?」


 目に入ったのは、牢獄のような部屋だけだった。今にも消えそうな白熱灯の下に、むき出しのトイレとバスタブのみがぽつんと置かれている。

 もしやと思い、慌ててバスタブの中を覗き込むがやはり誰もいない。どういうことだ。


 「おいオッサン。」


 突然後ろから声を掛けられ飛び上がる。

 振り返ると、黒いパーカーを身にまとった長身の男が扉に背を預け、腕を組んだ格好でこちらを見ていた。


 「お前、何でここ来たんだ?」


 驚愕のあまり声が出ない。

 男はフードの中に手を入れ、うざったそうに右耳の辺りを搔きむしった。

 

 「あー、いいやいいや、当ててやろ」


 「だ、誰だなんだ、君は…、明美、美来は」


 後ずさりながら、やっとの思いでそう口にする。

 男はうんうんと頷きながらこちらへ近づいてくる。カラカラという固く冷たい音が聞こえる。


 「そうかそうか。家が辛かったんだなぁ。分かってもらえないの悲しいし、仕方ないよなぁ、限界だったんだもんなぁ。」


 男の言葉を遠くで聞きながらはっとする。

 こいつ、あの時の男だ。あの夜店にいた、もう一人の客だ。

 男が頭を上げ、その顔が至近距離で突き出された。


 「いやでもお前、手ぇ上げたらダメだろうがどう考えても。危ねぇなぁ。」


 男の下品な笑顔が視界一杯に広がる。右目は黒いバンダナで覆われていたが、らんらんと見開かれていた左目が俺を離してくれない。愉しそうな声が脳で反響する。

 違う、俺が悪いんじゃない。違うだろ。


 「おれ、お、俺はただ」


 「いーやどんな理由があってもダメなんだって誘拐とか依頼しちゃ。普通に分かるくね?怖いじゃん。精神傷ついちゃうじゃん。ましてや相手が自分の嫁と娘とか、お前とんでもねぇ野郎だなぁ。てかお前、邪険に扱われるって言ってたけどソレ原因お前にあるとは考えなかったわけ?」


 言い返そうと口を開くが、たちまち男の言葉に組み敷かれてしまう。

 そんな訳ない。俺が悪いわけない、俺はもっと尊敬されるべきだ。丁重に扱われるべきだ。

 

 「どーせもっと尊敬されたいとか思ってんだろ?自分はかけた金と労力のことばっか考えて誰の事も尊重してねぇのにな」


 男が一歩身を引く。その右手には金属バットが握られていた。


 「ホントこんな危ないのが何で生きてんだろうなー、いやまぁ、ははははは」


 俺はただただ混乱していた。混乱していたが、これから起こることと、本能が逃げろと警告している事だけは分かった。

 そして絶望の中、真の恐怖に支配された身体が動かないことを理解した。


 「あーばよっと」



 








 数分後、地下室の扉が開かれた。


 「終わった?」


 扉から顔を覗かせたのはバーテンダーの青年である。


 「おー、今しがた。お疲れさん。」


 そして血にまみれた地下の部屋の中心に座り込んでいるのは、黒いパーカーを赤く染めた男だった。

 バスタブ付近にある一つの死体の傍らには、黒ずんだ金属バットが転がっている。どうやら事が終わって少々時間が経過しているらしかった。


 青年はゆっくりとした足取りでその死体に近づく。頭部だけ破壊されたそれは、製作途中で諦められた人形のようだ。


 「おいセイ、汚れるぞ。」


 男の大して咎める気もない制止を気にもせず、青年は頭であっただろう部分を力いっぱい蹴り上げた。

 元々原形をとどめていなかったその肉塊は、鈍い音を立て青年の革靴を受け入れた。青年は顔色一つ変えず、埋もれた靴をずぶりと抜く。


 「全く、奥さんと娘さんを誘拐しろだなんて、酷い奴だよ。」


 「ホントになー。クズだクズ。こんな十円の価値もない野郎が十万で殺されたんだぜ。多分あの世で喜んでるだろ。喜んでほしくねぇけど」


 疲れた疲れたと、男はおもむろに寝転がる。

 その様子を見て青年はクスリと笑った。


 「後は僕がやるよ。サクは上で休んでて。」


 「あー…。わりぃ、そうさせてもらうかな。」






 人間なら誰しもが持つ、悪戯心のような悪意、憎悪、怨恨。


 それは健やかな日常を愉しむための僅かな刺激。同時にいつ芽吹いても不思議ではない、邪悪な種。

 華咲けば周囲の養分を吸いつくし、他の命を枯らしてしまう。


 だから彼らはそっとその種に水をやる。

 この世の危険リスクを失くすため、その成長を見極める。


 そして種が芽吹いたのなら、その時が最期。

 開花する前にひっそりと収穫を行う。


 その温室の名は『Pick the Evil』。

 

 今宵も種が入荷する。

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悪摘み 全力で消費者 @zenryoku_shohi

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