第2話 冥王星の歌 後編

『ギターの音が聴こえる。マイナーコードに乗せて、少年の透き通る声が、恋の歌を歌っている。彼の歌声は、優しげで、遠く遠くへと響いていく。他の誰でもない、たったひとりしかいない、君の心に触れようとするように。』


 君は歌が終わるのを、自分で惜しむように、最後のコードをゆっくりと丁寧に鳴らす。君のそういう仕草が、なにか大切な宝物に触れるようで、その宝物をこっそりと見せてもらっているような、特別な気持ちにさせられる。いつかの、そういう素敵なことを思い出させてくれる。音が自然に鳴りつきるのを待って、手に持っていたピックを弦とフレットの隙間に挟んだ。視線を前に向ける。


「ありがとうございます。今日の配信はここまで。また配信をするので、良かったらチャンネル登録をお願いします。今日は聴きに来てくれてありがとう。じゃあ、また」


 君はノートパソコンのトラックパッド動かす。クリックの音が何度かカチカチと鳴る。前半の音はネットの向こう側にいる人たちにも聞こえただろう。きっと後半の音はちぎれて届かなかっただろう。


「配信が切れてるかどうか確認……大丈夫」


 少しだけ高めの天井と、物の少ない部屋のせいで、小声でもやけに反響してしまう。それがちょっと寂しいように感じる。ギターを片付ける音がする。弦を布で拭くとキュッという音がする。木箱になっているから指が当たるとギターはポコンと太鼓みたいな音もでる。全体を軽く磨いて、君はギターを部屋の隅っこにコトリと立てかける。

 リモコンを取ってエアコンに向ける。配信中は弱めていた暖房を少し強くする。ノイズが入らないようにするためだと言っていた。ふぅと一息ついて、それを待っていたように猫が鳴いた。見知らぬロシアンブルーだった。君は美人が好きだったよね。


「よしよし、今日もおとなしく聴いてくれていたね」


 立ち上がり、ワンルームのリビングからキッチンまでを歩いていく。電気ポットにはお湯が湧いていて、マグカップとお好みの飲み物のインスタントを取り揃えている。

 こんな想像をしてみる、二百年も前の人がインスタント食品を見たらどう反応するだろうって。彼らが見たら魔法のように思える手際も、今のわたしたちにとっては、なんてことのないことで、粉末が溶けていくところなんて、眺めもせずに、君はいつかそうしていたように、宇宙空間の見えもしない遠く遠くを見ようとするようだった。


「あち……」


 熱湯の飛沫が君の指を濡らす。すらりと伸びた指は、爪の先まできれいに整えられている。女の子のように見えるときがあっても、見かけより細くないのを知っている。それでもなぜか簡単に折れてしまいそうな気持ちにさせられる。痛くなるから、早く冷やしたほうがいいよ。そう言ってみても、君は気に留めなかった。


「俺、おかしいのかな」


 その言葉は単なる独り言ではなくて、だれかに問いかけて返事を待っているように聞こえた。そう感じたのは正しかったし、だれかの正体もすぐにわかった。君が名前を呼んでくれたからだ。ぽつりぽつりと、だけど探すように。


「ゆいか……ゆいか……」

 音がして、少年ははっと振り返った。椅子の軋む音、猫が飛び乗ったからだった。腰を落ち着けて丸くなる。温もりが残っているのだろう。小さく笑う。

「ここにいる気がして仕方ないんだ。……昔から幽霊なんか信じてなかったけど、自分だけに都合のいい考え方なんか嫌いだったけど、あれからちょうど一年だからさ。訪ねてきてくれた気がするんだ。もしも、本当にそうだったとしたら、話したいことがあったんだ」


 沈黙。きっと、君がそう感じただけだろう時間を、わたしはここにいるって伝えたくて、叫び声だってあげたんだよ。開き直って、抱きしめようとしたんだよ。わたしから君は見えているのに、君からわたしが見えない理由を探したって見つからなくて。ただ残酷なこととしか思えなくて。それでもまだ君の側を離れられないで。


「そんなわけないよな。だってさ、ただの友だちだったんだから、俺が勝手に思ってただけなんだから……」


 これでお終いだと思うと怖くて、死ぬよりももっと怖くて、わたしは透明で体温もない両手をきつく握りしめていた。なにも掴むことのない両手には糸だけが巻き付いてた。闇雲に手繰り寄せようとした。それしか頼りがないから。

 だけど、また音が鳴った。それから顔を上げて、君と重ねて声が出た。


「え?」


 ――ミラレソシミ。


 まだ部屋に響いている。混ざり合って聞こえるのはギターの音だった。演奏と呼べるようなものではなくて、弦の音がただジャーンと空気を震わせただけだった。わたしが呆然と見ている前で、君はギターに歩み寄って落ちたピックを拾い上げた。


 不思議に、その記憶がとても鮮明に、だけど一瞬にしてよみがえった。君とわたしはあの日、海に行った。二人で自転車を漕いで、一時間もかけて海へ。嫌なことを全部ふっきるみたいに力いっぱいペダルを蹴った。

 嵐の後の海岸にはいろんなものが打ち上げられていた。地球の自然現象が現代芸術の真似事をしようとしたみたいに雑然とした意味のない羅列に見えた。そのほとんどがあらゆるゴミだったけど、きれいな流木や貝殻もあった。本当を言うとなにもかもきれいに見えたんだ。それは君と一緒だったからかもしれない。


 防波堤から遠く水平線を眺めた。太陽の光を青い海が反射していた。波は白かった。空は青くて雲はひとつもなくて、その先にもなにもないみたいだった。

 君は背負ってきたギターケースからギターを取り出して、歌を歌いはじめた。強く吹く潮風とたたかって、わたしも一緒に、その日は声が枯れるまで歌った。海に歌うのは君の思いつきだった。歌詞は書くけど、話すのは苦手なんだって、だから言葉にならないことを今日という日に変えて表現しようとしてくれたんだよね。


 わかったんだ。隠そうとしてもわたしが変わり果てたことを。わたしはある死にまつわる物語を話した。失くなってしまう人のことを話した。帰り道には星が輝いていた。君が教えてくれなかったら、あんなにたくさんの星が存在することを、わたしは知らなかったかもしれない。


 冥王星は天文台からでないと見えない。「あっちの方角だと思う」と君は言って指差したけど、見えるはずのないものを指差すって、変だって思ったんでしょ? はにかんで、すぐに手を引っ込めたよね。あっちの方角で合ってたよ。冥王星はあっちの方角だったよ。

「冥王星を探したパーシヴァル・ローウェルはその発見前に失くなった。ローウェルの死の十四年後にトンボーが冥王星を発見するまでに、多くの人がこの見えもしない星を探していた。存在することを信じていた」


 君はそういうことをなぜか知っているから不思議だった。スマホで調べなくても日付や名前が曖昧なことってなかったと思う。それで君は歌をつくってくれた。潮風で枯れた声で冥王星の歌をうたってくれた。横を向いたままそのワンコーラスをくれるって言った。


 君の歌にどれだけ救われたかわかる? 君にわたしが話した物語が、本当のことだってことはわかってたよね。だけど、その人がまだ失われていなくて、その人がわたしのことだって、それだけはどうしても言えなかった。言葉にしてしまうのが怖かった。自分が死ぬなんてまだ信じられなかったから。クラスメイトの誰よりも早く、わたしが死ぬんだって。


 そうなった後ってなにもないんだと思ってた。だけど君の歌をもらって、そうじゃないと思えた。見えないものだって、きっとあるんだって思えた。その瞬間も君の歌は胸にあった。だから、心残りができたんだ。

 君がこんなにもくれたのに、わたしって君になにをしてあげられた? あげられていたとしても、冴えないものばかりじゃなかったかな。ありきたりで、つまらないものじゃなかったかな。もっといいものをあげられたら良かった。いつか歌をあげられたら良かった。


「ゆいかはたくさんのものをくれたよ」

(……え?)

「俺はなにもしてあげられなかった」

(そんなことない)

「気づきもしなかった」

(それは、わたしが言えなかったから)

 少年はギターを取って椅子に腰掛けた。

「あの曲、ちゃんと一曲にしたんだ。……最初に聴いてほしい」

 息を整えて、歌い出したのは、あの時の冥王星の歌だった。


 なにかが見えているわけではなかった。なにかが聞こえているわけでもなかった。だけど、見えないものを見ようとしていた。聞こえないものを聞こうとしていた。そこにあると信じて歌ってくれた。


 涙がこぼれても少年は歌うのをやめなかった。声を震わせても音を外さなかった。やり直せないことがあると知っていた。――歌い終わって、少年は声を震わせながら、言葉を紡いだ。話下手な彼の精一杯の言葉だった。

 少女はそれが歌の続きであるように、じっと黙って聴いていた。


「……去年くれたよな。このピック。貝殻の模様の。チョコレートと一緒にさ。俺の歌が好きだって言ってくれて嬉しかった。歌うことが好きになった。……なんか恥ずかしくて、ありがとうって返すこともできなかった。それに、いつだって言えると思ってた。そんなふうに思い込んでた。当たり前みたいに。……会いに来てくれたんだよな。ねぇ、歌うたびに思い出すよ、ゆいかのことを。俺に伝えてくれたこと忘れない。絶対に忘れないから。だから、……ありがとう」


 わたしはこんなふうに今までは思っていた。もしも死後の世界があったとして、それは生きている人とはほとんど無関係なものであるって。触れ合うことも、直接、話すこともないのだからって。今はそう思わない。

 どうして、こんなにも嬉しいんだろうね。君がわたしを忘れないでいてくれることが、時々でも想ってくれることが、そのことがわかったことが。


(糸は、大切な人とだけではなく、思い出やものにもつながっているんだ。ものが君の想いに呼応したんだ)

 カロンはそう言った。

(平たく言ってしまえばポルターガイストってやつだけど)


 わたしは泣いたまま笑った。

 泣いたまま歌う君みたいに。


「ねえ、カロン。わたし、軽くなれた?」

「きっと、それなりにはね。さあ行こう、ぼくが渡してあげる。まあ、その前にゆいかには、たどるべき糸がまだあるようだけど」


 こうして、わたしの冥王星への旅がはじまった。

 君のくれた歌を口ずさんで。

 勇気をくれたから。

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カロンとつながりの糸 かんらくらんか @kanraku_ranka

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