カロンとつながりの糸
かんらくらんか
第1話 冥王星の歌 前編
『ギターの音が聴こえる。マイナーコードに乗せて、少年の透き通る声が、恋の歌を歌っている。彼の歌声は、優しげで、遠く遠くへと響いていく。他の誰でもない、たったひとりしかいない、君の心に触れようとするように。』
幽霊になって一年して、わたしは君のもとにたどり着いた。幽霊になるってけっこう大変だったんだよ。それで一年もかかってしまったんだ。遅くても去年のうちにと思っていたのに、もう二月だなんて信じられないよ。
もしも、君が悲しみに暮れていたら、わたしはそこから君を連れ去ってしまおうと思っていたんだ。こんなことを幽霊に言われたら冗談にならないかもしれないね。それこそ、君たちを見つめる恨めしげな幽霊に言われたら。こんな晴れの昼間から。
「……そうだね」
「ね、ね、でさ、もう一度、その映画を観に行ったの、今度はみんな一緒にだよ、それでわかったんだけど、本当、不思議なんだよね、あのシーンがなかったなんて」
「あるはずのものが、なくなったんだ、たしかに不思議だね」
「うんうん。ね、今度は一緒に映画行こうよ」
「そうだね」
わたしは告白できなかった。いや、しなかったのか。君は時間をいっぱいくれた。だけど、わたしの言葉で、わたしたちの関係が壊れてしまうのが怖かった。死ぬくらい怖かった。青春だって笑われるかもしれないけど、幽霊が言うんだからさ、これって真実味あるよね。
「なんか今日は上の空じゃない?」
「うーん」
「どうかしたの?」
「見られている気がするんだ」
「え? どこ? ストーカー?」
「えーと……」
少年はあたりを見回すと、ぴたりと止まって、遠くの一点を見つめる。
「わからない」
「えー、なにそれ、怖いじゃんか」
(ここだよー)
幽霊は前に出て近くで手を振る。
こんなに近くにいるのに君は遠くばかり探している。ああ、きっと、わたしの方こそ気のせいなのだろう。気づいてもらえたかもしれないと思うなんて……。幽霊なんか見つけられない。可能性もない。まったく別のものに気を取られただけで、わたしのことなんか覚えてもないのさ。
(って、近い近い近い……!)
幽霊は尻もちをつく。
(いててて……)
(やれやれ、なにやってるんだ。すり抜けられるんだから、逃げる必要ないんだよ。相手の動きに合わせたりして、幽霊が転ぶなんてバカみたいだ)
(すり抜けるなんて恥ずかしいよ! カロン! ……それって身体を通り抜けるってことなんだよ!? わかってる!?)
(当たり前じゃないか、そんなこと、よーく、わかってる)
そう言って、彼や彼女やアスファルトや壁もすり抜けて見せる。
(できっこないよ)
(できるよ、ほら、ほーら、あー気持ちいい)
自由形で往復してすり抜ける。
(できないよ、わたしには)
低空で肩をすくめたところを自動車も通り抜けていく。
(それでだいぶ遠回りしたよね)
彼女の名前はカロン。そう彼女が名乗った。男か女なのか、中性的で小柄な見た目で、性別は自分でもわからないんだって。喋り方は男の子っぽいんだけど、わたしはなんとなく同い年くらいの女の子として扱っている。だって、多分、そうじゃなきゃ、わたしが気を許せないからさ。
カロンというのはギリシャ神話に出てくる渡し守の名前なんだって。渡し守って言うのは舟で川を渡してくれる人のことなんだけど、この場合は死者を冥府、つまり天国とつなぐ存在のこと。
似たような伝説、伝承、昔話は世界中どこにでもある。なんでわたしのところに来た子がギリシャ神話の神さまの名前を名乗るのかわからないけど。だってギリシャなんて行ったことない。きっといくつもある呼び名から気に入ったものを選んだんじゃないかな。SNSのアカウント名みたいに。
とにかく普通じゃない子だってことは感じる。少なくともわたしと同じ幽霊仲間が、わたしを担ぎたがって楽しんでるんじゃないことはわかる。
ところで、わたしが幽霊になったとき、最後の息が吐き出された後、魂は身体を離れた。……それどころか、重力とか慣性とか磁場とか流体力学とか、あらゆる物理的現象から、わたしは開放された。開放されてしまった。もしかしたら相対性理論からも。これって、どういうことになるかわかる? つまり、地球の自転からも公転からも置いてけぼりにされちゃった。
それから宇宙空間をぷかぷかと飛んでいくことになった。マーズにもジュピターにもぶつからずに、サタンの輪っかにも引っかからずに、ウラヌスのあたりに行くことになった。ネプチューンもプルートも近かった。行き先は自分の意志とは関係なかった。熱そうなビーナスやマーキュリーやサンの方向には行かなくて良かったと思う。想像するだけでも眩しいばかりだ。
宇宙に流されていくことを、頼るもののないことを、怖さとか寂しさを感じる間もなくて、宇宙の旅はただただ驚きに満ちていた。光が立ち止まっていて、わたしはわたしの生まれる瞬間を見ることさえあった。
だれも録画してくれていないはずのシーンを、繰り返し、走馬灯のように自分の人生を何度も見た。お母さん、お父さん、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、友だち、先生、ぜんぜん関わり合いのなかった人たちの顔が浮かんだ。
わたしのお気に入りの映画は君のことを考えることだった。そうしていると、生きていた頃のように、途方もない時間を忘れて過ごしていられた。
ほらね、幽霊になるってけっこう大変そうでしょう?
(んーーー、うーーー、はーーー、うおーーー、ぐうううう、ぬう、ぬーーーーーー。あぁ、はあ、はぁ、はは、ふふふ、やっぱり君って重いよね)
カロンは少女を度々、持ち上げようとした。おぶろうとした、担ごうとした、お姫様のように抱っこしようとした、引っ張ろうとした、押そうとした、一本背負いも試した、逆に寄りかかって、プロレスみたいに首もひねった。逆立ちして、ぴかーんとひらめいたふりをしても、なにも方法はないようだった。ぴくりとも動かせなかった。その姿は一流のパントマイマーさながらだ。
(ねぇ、勝手に持ち上げようとしないでよ。それに、人に重いだなんて言うのって、とっても失礼なことなんだよ? 百回は言ったけど)
(まだ百回は言われてない気がするけど。まあ、仕方ないじゃないか、ぼくにとっては何もかも重いか軽いかの問題なんだもの)
(エレベーターの重量制限みたい……)
カロンは紙束を音を立ててめくる。
(君は天国に行かなきゃならないからね。伝票にもちゃんとそう書いている。重いままじゃ運べない。軽くなれば運びやすい。超々簡単な理屈だよ)
今は目に見えない糸がわたしをこの星につなぎとめている。それがわたしを重くする理屈らしい。これが幽霊の体重みたいなものなんだって。
銀と真珠の小舟に乗って、ウラヌスからアースへと向かう途中で、カロンはいろんな話をしてくれた。ステュクスのことやアケローンことも話したけれど、わたしが特に惹かれたのは、やっぱり、つながりの糸の話だった。
(一度はちぎれてしまった大切な人たちとのつながりの糸を、ぼくがつなぎなおしたんだよ)
そう言われて意識すると、自分の身体からいくつかの糸が飛び出していることに気づいた。その糸は見えないのだけど、手触りを感じることができて、それぞれ違っていた。糸としか形容できないのだけど、ひとつひとつ違う素材で作られているみたいに感触は別々で、一度選んだ糸を取り違えてしまう心配はなかった。
(その糸をたどっていけば、君の重さの理由もわかるはずだよ。遠くに飛んだ凧を取り返すみたいに引き寄せてみて。引っ張られるのは、君の方だけど)
わたしは左手の小指につながった細い糸をたどることにした。それを選んだ理由は、わたしがはじめて気づいた糸であったことと、優しい温もりを持っているように思えたからだった。
糸をたどると、それはだんだんと、わたしをかつての日常の景色へと近づけた。通学路があり、学校があった。放課後の制服や休日に新しい靴を履いて遊び歩いた街があった。だから、予感は徐々に深まっていった。――その糸は君につながっていた。
火葬場で灰になったはずのわたしの心臓がまた脈打つような気がした。まるでもう一度、燃え上がるように熱くなった。
「キミといると時間が経つのがあっという間だなぁ」
「そう?」
「楽しいんだ。キミと一緒にいられて……」
彼女が少年を見上げる。
「こうやって並んで歩いているだけでも」
君が別の女の子とデートしている。そんなの当たり前だって頭ではわかるよ。あれから一年も経ってしまったこともわかっている。だけど、幽霊って時間の感じ方が違うみたい。みんなみんな昨日のことのように感じてしまうんだ。
それ以前に、恋人でもなかったのにさ。おかしいよね。こんな淡い感情や関係が、つながりが、わたしの中では、永遠に立ち止まったままで、いつまでも変わらないままで居続けるなんて信じられる? だけど、そうとしか思えない、そうなるとしか思えないんだ。
(カロン、たしかに、わたしは重いのかもしれない。こんな想いをわたしは捨てられないから、ここに立ち止まり続けなければならないのかもしれない)
(……)
君を連れ去ってしまいたいって、冗談じゃなかったらどう思う? 君が幸せかどうかなんて全く関係なく、わたしとただ一緒にいてほしいって言ったらどう思う? 一年前だったら絶対言えなかった。
わたしって本当に悪い幽霊かもしれないよ。このまま、重たいまま、飛んでいけない風船みたい、君にひっついていく悪い幽霊……。
「今日はここで、そろそろ帰るよ」
「え、まだいいじゃん」
「ごめん、約束があるから」
「私より大事な用事なの?」
「……」
「ね、冗談! 冗談だよ。黙らないで」
「うん、わかってる」
「じゃあさ……」
「なに?」
彼女は目を閉じて両手を広げる。
「ん」
「なあに?」
「ハグ!」
少年は照れて笑ったけど、彼女と同じように両手を広げた。
「ふー」
「ん、ギュー」
彼女は少年に抱きつき、少年も彼女の肩に手を置く。
しばらくそうしていて、ふたりは前触れもなく離れる。
「じゃあ、また明日、学校でね」
「うん、じゃあ」
わたしの糸が、あの子にもつながっていたら、あの子のほうについていっただろうね。幽霊の頭にだって血が上って、後のことも先のこともぜんぜん考えられなくなった。闇雲に糸を引っ張ってみても、歩いていく彼女にはぜんぜん近づけなかった。遠ざかるだけだった。
(カロン、あの子と糸をつないでよ!)
(ぼくにできるのは、切れた糸をつなぎ直すことだけで、新しく糸をつなげることはできないんだよ。糸を生み出すことも、切ることも、ぼくにはできないんだ)
(ねえ、お願い。行っちゃうよ。見えなくなっちゃう)
(できないものはできないんだ。それに、あの子についていって、どうするつもりなんだい? 君になにかできるとは思えないけど、幽霊さん)
わたしは怒ったんだ。そんなふうに言われて。
(あなたは、わたしにどうしてほしいの? なんにもできないわたしはどうすればいいの? ただ見ているしかないの? どうしてこんなものを見せるの? 見たくなかった! 見たくなかったよ……)
(いつまでも宇宙空間を漂ってたほうがマシってこと?)
(わかんないよ!!)
幽霊は空中でうずくまる。
(……そうなのかも)
(ぼくだって、どうにかしてあげたいよ。だけど神さまだって、どんな問題も解決してあげられるわけじゃないんだ。それどころか、ぼくは君に助けてほしいんだよ。これは君にしか解決できないことなんだ)
(わたしは見ていることしかできないのに?)
(そうとも限らないさ)
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