腑抜けた夜を嗤えばいい

穂波

腑抜けた夜を嗤えばいい



 人生なにもかもがうまくいかない。


 愛らしく生まれついたものはなにをしても許されるが、生まれつき醜いものはなにをしても疎まれる。かわいいはつくれるなんていうけど限度があって、結局は加工できない見ためや育ちで判断される。

 努力を重ねたところで美人には勝てないし、かわいい子にもなれそうにもない。

 

「もう、無理。ホントムリ。世界中のラブソングを撲滅してまわれたらいいのに」


 近江和葉このえかずはは頬を赤くして熱弁をふるっていた。

 アルコールが入ってゆるくなった口元からは、ぼろぼろと愚痴と不満がこぼれだし、今夜はどうにも留まりそうになかった。雑居ビルの四階、隠れ家のようなバーの店内に朗々と声が響き渡るのを気にしてはいられない。


 喉を湿らせたくてマルガリータをぐいと煽ると、カウンターの奥から生温いまなざしを向けられる。


「お客さん荒れてますね。ほどほどにしておいてくださいよ、お一人なんですから」


 マスターは聞き上手な中年で、客入りに反してバーテンダーとしての腕は確かだった。おまけに聞き上手だ。無精髭をさすりながら、彼が相槌をへえはあ打つと妙に心地がいい。客が少ないのをいいことに、話し相手になってくれている。


「そう、おひとり。おひとりさまなのよこっちは。向こうは二股かけてたってのにさあ!」

「詐欺師の才能をお持ちのお相手だったのですねぇ」

「男を見る目がないって言わないでよ。……本命ならまだよかったのに」


 先日まで恋人だったツヨシのことだ。

 ツヨシはたしかに万人が認める美形だった。和葉がツヨシに惹かれた最初の理由は顔がよかったことだが、派手な顔に似合わず繊細な物言いをする感性に惹かれた。


 その繊細さゆえに社会に適応できずにいる不器用さに庇護欲をくすぐられたのだ。

 付き合いはじめてからは放蕩ぶりに辟易したものだが、好きな人に微笑まれてしまえば財布の紐は簡単に緩んだ。

 これだから女という生き物は、と自虐しつつも半ばヒモのようなツヨシに食料を与え、服を与え、肥え太るまで養いつづけてしまった。


 ところが、付き合ってから約三ヶ月後、奔放なのは金づかいだけではなかったと判明した。

 和葉の他にも関係をもっている女性がいたのだ。さらに追及するとツヨシが相手と付き合いはじめたのは、和葉との交際が始まったのとほぼ同時期だったとわかった。

 最悪なことに、和葉はキープの女としてもてあそばれていただけだった。



 同時交際のスリルを愉しんでいたクズ男――ツヨシが選んだのは、和葉ではなかった。天秤にかけられた末にただの都合の良い女として捨てられたのだ。彼がいうには、和葉はかわいくないそうだ。


 たしかに、ツヨシのもうひとりの彼女はそれはもう目を瞠るような美女だった。写真だけで負けた、と感じてしまうほどには。


「はあ、なんかもう最悪。なんでわたしだけこんな目に遭うんだろ。仕事もプライベートもうまくいかないことばっかり……もう死んじゃったほうが楽かな」


 和葉のつぶやきに苦笑しながら、マスターはのんびりとグラスを磨いていた。


 カウンターの奥に揃えられたボトルをぼんやりと眺めていると、香水の甘さが鼻をかすめた。いつの間にか隣の席に女性が腰を下ろしている。

 ちらりと横目でうかがえば美人だ。腰まで届きそうな栗毛色の髪が間接照明に艶やかに照らされて色っぽい。肩から胸までを隠すようにした銀色のショールの下ではカクテルドレスのジョーゼットが襞をつくっている。場違いに華やかな装いをしているが、結婚式の二次会にでも出席したあとなのだろうか。


 和葉の視線に気づくと、彼女はふわりと不敵な微笑を向ける。朱色の唇が三日月を結び、西洋絵画に描かれた女神でもここまでキレイに笑うことはないと思えた。肌がぞくりと粟立つ。


 駄目だと自制しようとしたところで、とっくに卑屈な自分がうめき声をあげていた。脳内では勝手に品評会がはじまる。鼻筋が通った顔面はまるで一級の芸術品だ。彼女の方が色白だし頬も額も肌理細かい。化粧も上手くて二重まぶたを彩るアイシャドウの塗り方も上品。毛先まで手入れの行き届いたストレートヘアーは和葉の猫っ毛とは大違い。ドレスに合わせた小物だってセンスがいい。


 彼女――今、もっとも出会いたくないタイプだ。


「ねえ。さっきのって本気?」


 目を離せずにいると、おもむろに相手が口を開いたので驚いた。魔性の美少女は和葉のまなざしを気には留めず、マスターに声をかけさっそくサイドカーを頼んでいる。

 和葉がとっさに反応できずにいると、煮え切らない態度に呆れたのか彼女は口を尖らせた。


「そこのあなたに話しかけてるんだけど。死にたがりのお姉さん」


 よくできたマネキンみたいにくりりとした瞳が、和葉を覗き込んでいる。


「急になに?」

「本当に死んでみたいのかなぁって。途中から聴いてたけど人生おつかれって感じだし。冗談っぽく言ってたわりにガチな哀愁漂ってたよ」

「それはべつにただ言ってみただけっていうか……」


 会話を割るようにして、マスターが逆三角形のグラスを差し入れる。サイドカー。ブランデーとキュラソーが混ざり合った琥珀色のショートカクテル。グラスを手に彼女は「飲もうよ」と言って有無を言わさず距離を詰めてくる。


 そして一方的に打ち明けてきた。

 桐生藍佳という名前であること。知り合いから誘いを受けてコンサートに出席した帰りであること。友人たちとの打ち上げの後、飲み足りなくてバーまでひとりでやってきたこと。


 彼女――藍佳は「退屈だったから話し相手が欲しかったの」と無邪気に笑ってみせた。お互いこんな場末のバーに身を寄せる性分なのだと知れると、どことなく共感を抱いてしまう。和葉が緊張を緩めたのを見逃さず、藍佳は矢継ぎ早に質問をくり出してくるので相当な手練れだ。警戒心は何処へやら、ミックスナッツをツマミに貪るうちにいつの間にか談笑していた。


「二股男かぁ。ろくでもないの。和葉、モテるんだ?」

「ちがう、どっちかっていうと免疫ないの。元彼とも付き合えたのが嬉しくて舞い上がって、今思えば貢ぎすぎてた。バカでしょ」

「けど、和葉が投資してきたのってべつに相手の男だけじゃないでしょ。服とか化粧とか、かなり研究してるのわかるよ」


 和葉はそっと横髪を掻き上げた。今日はハーフアップにした後髪にバレッタをつけてきたからか、指先には手応えがある。

 毎朝、ヘアアレンジを考えて髪を結い上げるのはとっくに習慣化している。


「そこは……当たりまえの努力はしてきたから」

 藍佳みたいに素材がよければ苦労もすくないだろうが、和葉は自分の市場価値くらいは薄々わかっている。


 かわいいは正義。キレイは義務。

 女子であるだけでこなすべき課題は山ほどあって、見目麗しくなければ誰も振り向いてはくれない。慣れてしまって苦痛というほどではないが、元彼との一件で、これまで費やしてきた自分磨きのすべてに徒労を感じているのもたしかだった。


 かわいくあろうとしたのに選ばれなくて、生まれもったものだけでは不足ばかり。生きれば生きるほどにみじめだ。

 恋をして愛を手にしたって酷い別れ方をしてしまえば、焼け野が原にひとりとり残されて、思い出は色褪せた死骸として散らばっている。


「ふぅん。和葉にとっては当たりまえだったんだ」

「そういうものでしょ。好きとか嫌いとかで撥ねのけられるものじゃない」


 藍佳はわずかに目を伏せた。グラスに残った液体をこくりと飲み干すと、彼女は急に席を立って首をまわしてみせる。


「なーんか、動きたくなってきちゃった。最近運動不足なんだよね」


 おあつらえ向きに、店内にはダーツマシンが設置されている。藍佳が筐体を指さすその瞬間を、和葉はずっと待っていた。


「和葉、あれやったことある?」

「言っとくけど強いよ。仲間うちでは負けなしだったし」

「へえ。それならお手並み拝見させてよ。アタシもまあまあ投げるほうなの」


 後悔しないでよ。和葉が売り言葉を投げかけると、藍佳は買って出た。当然。ていうかそっちこそうかうかしないでね。これは負けられないなと思うと腕が鳴った。


 二人でダーツマシンの正面に並ぶ。

 放射状の線で区切られたボード上には三重の円が描かれており、盤上に狙うべき的まとを示していた。円の外周には1から20までの数値がランダムに並び、点数計算の目安となっている。

 どのようなルールで遊ぶにしても、手に持って投擲した矢が得点エリアに刺さればプレイヤーの点数となるのだ。的に向けて飛ばす矢は備えつけのハウスダーツを借りることにした。


「どうせなら賭けない? 絶対に負けられないようなスリリングな勝負にしたいの」


 軽くストレッチをしながら弾むような声で藍佳が呼びかけてくる。和葉の答えは決まっていた。


「いいよ。どうする? 負けたほうが奢るとか?」

「じゃあ、命」


 聞き間違いかな。尋ねかえすと、藍佳は傲然と言い放った。


「命がけの勝負にしようよ。ここで負けたら死んでみせて」

「……いいじゃん。そういうの面白そう」


 胃のそこではアルコールが燃えている。普段ならためらう大胆な言葉の応酬も、こんなにも軽い。


 和葉はとっくに藍佳とのやりとりが楽しくてたまらなくなっていた。

 こんなふうに、馬鹿みたいな冗談を言い合ってムキになって勝負するのなんて、まるで大学時代に戻ったみたいだ。

 就職をして少しずつ連絡をとる頻度が減って、友達よりも彼氏との時間ばかり優先するようになっていた。学生時代はサークルやバイト仲間との遊びに明け暮れていたが、いつの間にか将来を見越した選択をするようになって、享楽的に騒ぐことはなくなった。それが大人として正しいのだとは理解しつつも心はまだ虚ろで寂しい。


 それが、命がけの勝負だなんて!

 おかしくてたまらない。腹の底から湧き上がってくる笑いを堪えきれず、バレルを持つ手が震えてしまう。


「セロワンにしよっか。501でいいよね?」


 和葉が了承すると藍佳はスローラインに立ち矢を構えた。

 ゼロワンはダーツでは定番の対戦ゲームだ。末尾が01の持ち点から的にヒットさせた得点を減らしていき、ぴったり0点に持ち込むとフィニッシュ。

 勝利の条件は持ち点をゼロにすることのみに限られるため、マイナスになった場合はバーストとして無効になる。


 今回は双方501点からのスタートだ。話し合いの末、先行は藍佳がつとめることになった。


「……それっ!」


 可愛らしいかけ声に反して狙いは正確だった。

 一投目からブル――ど真ん中を叩きだした。「まあまあ」なんてのは明らかに謙遜で、藍佳はいきなり最高得点に近い50点を獲得したことになる。

 二投目、5のシングル。

 三投目、ふたたびのブル。


「105点かぁ、イマイチかも」


 不満そうな口振りから察するにこれでもベストスコアには至らないらしい。

 油断は出来ない。和葉の背を冷や汗がつたっていく。

 藍佳と立ち位置を入れ替わりダーツボードから2メートル以上離れた場所から狙いを定める。力まずに、腕を引き、紙飛行機を飛ばす動作をイメージして矢を放つ。

 伸ばした手が地面と並行になるようにまっすぐに。指先をぴんと伸ばして。セットアップから流れるようなリリースへ。


 一投目、19のシングル。狙いがぶれた。

 二投目、20のトリプル。60点。いい調子だ。

 三投目、ブル。……よし、これなら。


「129点ね」

「和葉、つよーい! 手加減してよね」


 第一ラウンドは制した。誰かに勝負を挑まれるのは久しぶりだったが、腕は落ちていないようで安堵する。


 続く第二ラウンドで和葉はブルを二度射抜き、藍佳に41点の差をつけてリードした。しかし第三ラウンドから第四ラウンドにかけて大きく調子を崩し、合計点を20点以上抜かれてしまった。焦りを感じながら挑んだ第五ラウンドではなんとか持ち直し、和葉の持ち点は残り84点となった。

 対する藍佳は残り98点。どちらもフィニッシュを狙える値だ。


 第六ラウンド、先攻の藍佳はたたみかけてきた。

 一投目から20のシングルを射抜き、どう転ぶかとギヤヒヤしていたら二投目はミスをした。飛距離が足りず的から外れたのだ。三投目は順当に19のダブル。


「残念、ミスしちゃったな」


 後攻、和葉が構える番だった。


 一投目からブルを射抜くことに成功すると、ボード上では17のダブルのエリアが蛍光グリーンに発光する。残り34点。ここで狙いどおりに的中することができれば見事完全勝利だ。慎重にいこうと心に決めたはずが。リリースの直前、ぐらりと姿勢を崩した。

 和葉が放った矢が射抜いたのはブルだった。


 バースト。このラウンドでの点数は無効。愕然とする和葉を慰めるように肩に手をおいて、藍佳はとろけそうなほど優しい声で呼びかける。


「ごめんね、手加減できなくて」


 ダーツマシンに備えつけられた液晶パネルを見れば、藍佳の持ち点は残り40点。


 ――しまった。


 トン、と小気味の良い音を立てて20のダブルに矢が刺さる。

 軸ブレのない鮮やかなスローイングだった。


 「これでアタシの勝ち」


 勝ち誇るようにして振り返った藍佳は、冥界から這い出てきた悪魔のような微笑みを浮かべていた。

 負けた。負けたらどうするんだっけ。きっと冗談だろうと冷笑しながらも、和葉の頭の中では最悪の想像がいくつも駆けめぐる。マシンのスピーカーからは気の抜けた電子音が流れ、能天気に勝者だけを祝福していた。



 ▲ ▲ ▲



 目的地を秘密にしたままの二次会で連れていかれたのはビルの屋上だった。


 春先の夜風に肩を震わせる和葉に向けて、藍佳は白い歯をチラつかせながらきらきらと笑いかけてくる。彼女がたのしそうに鼻歌を口ずさむので、行き先で愉快なことでも起こるのだろうかと期待してしまう。

 が、錯覚だった。


「じゃあ、飛んでみよっか」


 和葉は耳を疑った。

 言葉の意図を探りあてることができずにいると、あろうことか藍佳は柵の上に乗って手招きする。和葉の胸元をすこしだけ上回るほどの高さの柵は、幅広く頑丈なコンクリートで固められていた。足をかけて乗り上げるのは簡単だ。ふたりぶんの体重をかけたところでびくともしないだろう。けれど。


「あれ? 怖気づいちゃった? さっきはむこうみずに命賭けてくれたのに」


 煽られてはいけない。と理性がいさめるのに、藍佳のハスキーな声でけしかけられると思考がざらついて正気を保てない。

 思い返せばバーでもそうだった。苛立ちが喉元までせり上がってきて、内側から皮膚を焼くような衝動が湧き上がった。手を伸ばし片足を振り上げる。気がつけば和葉は柵の上に立っていた。


 眼下には底のない都会の夜が広がっている。

 二十四時間消えることのないビル明かり。ピンク色のネオンに照らされた野外広告。街路樹のあいだを埋めるようにして等間隔にならぶ淡い街灯。ヘッドライトを明滅させながら走り去る乗用車。うつろな足どりで夜歩く人々。

 八階建てのビルの屋上から眺める景色は壮観だった。ここでもし遮るもののない視界に一歩踏み込めば、和葉の身体は重力に従って落下し、そのまま地面にたたきつけられるのだ。


 想像できる――グシャグシャにつぶれた醜い女の死体が。


「いいんだよ、落ちて。死んじゃったほうが楽なんでしょう」


 そう言いつつも、藍佳は和葉の手首をつかんで離さない。

 上品な仕草でダーツを投げていた手は意外にも大きく、朱色のネイルで綺麗に彩られた爪先が食い込んでくるのが痛かった。


 負けたら死ぬ。命を賭ける。そうだ。和葉が自ら選んだのだ。なにもかも自業自得だ。

 そもそもこれ以上生きていたところで希望なんてない。彼氏に振られ、バーで孤独に飲んだくれるようなつまらない女が、これから訪れる未来に真新しい喜びに貫かれるような奇跡と出遭えるのか。

 ここで飛び降りたとしたら平凡な人生の幕引きにしては劇的なラストシーンになるんじゃないか。


 意を決して、藍佳の手を振り払った。


「できるはずがないでしょっ……!」


 和葉は叫ぶ。グズついた夜空には月も星も見えず、暗闇の中で吠える獣の気分だった。

 泣き出せるものなら泣いてしまいたかった。

 死にたいなんて言っておきながら、結局はそんな度胸もない。


 和葉がその場にへたりこむと、丸めた背に温かな手のひらが寄り添った。藍佳だ。一足先に柵の上から降りた彼女は、ビルの天井に足をつけて和葉が引き返すのを待っていた。


「あのね、和葉。ここで死ねないってことは、和葉の絶望はきっと笑い飛ばせるくらいの軽さなんだよ。哀しみに浸ってもいいし、べつに泣いてもいい。けど、インスタントな痛みに身をまかせて、自分を捨てようとしないで」


 そうしてゆっくりと諭すように言葉を選びながら、肩にショールをかけてくれた。和葉はふと、夜闇のなかに現れた出た藍佳の上半身をまじまじと眺める。


 二の腕は太く、肩幅はがっしりとしている。

 問いかけておく必要があった。


「藍佳……って、おとこのひと?」

「どうなのかな。そのあたり曖昧にしておきたいし、あんまり男や女って分類で考えるのも好きじゃない」


 まなざしはブレない。給水塔に視線を送ったまま、藍佳は言い放つ。


「でも、ハッキリしてる。自分が好きでいたいから、こういう格好するって決めた。アタシ……ううん、おれにとって必然なんだ」


 藍佳は背後で手を組んで、階段に向けて歩いていく。

 その背を見つめながら、和葉は気づく。出会ってからここまで、その存在感にこんなにも揺さぶられつづけた理由がわかった。藍佳は綺麗なのだ。

 見てくれがいいとか、整っているとか、それだけではない。

 美しさの裏に凄絶な覚悟ある。哲学に裏打ちされた美のすべてを自分自身の納得のために注いで生きている。そんな鮮烈な存在を前にしたら、我が身が空虚に思えて仕方がなかった。


 鏡を見るたび、そこにはいない誰かが納得してくれるかを考えて、相手との釣り合いばかりを気にしていた。かわいくない。美人でもない。なにひとつ敵わないし誇れるものなんかない。ならせめてと焦れば焦るほどに遠ざかっていく。

 何から? なりたかったはずの、憧れの――。


 和葉の髪を西風が煽る。風をはらんで舞い上がるおくれ毛がいまは重い。首元に触れると、結い上げた髪を留めていたバレッタが落ちてきた。衝動的に、このまま階下に放り投げてしまいたくなった。


「それ、捨てるの? 高そうなのに」


 見られていた。鳶色の瞳が和葉の挙動を目ざとく捉える。


 バレッタはまだ、手のひらに収まっている。

 憧れだったブランドが大々的に告知して売り出したアクセサリーだった。持っているだけで、さりげなく価値を示せて気分がよかった。これをつけていれば満たされるような気がしていたのだ。

 和葉の髪色とは合わないし、好みではないけれど。


「……なんか、わかった。たぶんわたし、単に誰かに承認されたかったんだ」

「あ、そ。捨てるくらいならもらってあげる」


 藍佳はまるでダンスにでも誘うように手を伸べる。和葉が差し出したバレッタを受けとると、自身の前髪にとめた。


「どう? 似合う?」


 藍佳がにぃと口もとをゆるめて洒脱に笑うので。

 和葉も釣られて吐息を漏らす。


 ――似合ってるよ、なんて言ってやらない。


 自分はこんなにもがんばっている。認められて当然だ。愛されるべきなんだ。そうやってまじないをかけながら、怪物のようにうめき声を上げる心を納得させてきた。そういう自分を許せるかはまだわからない。


 それでも、明日からは髪を下ろそう。ほんのすこしでも自分を好きになるために。義務にも正義にも寄りかかれない世界で、今度こそわたしらしくいるために。


 ビルの屋上から頭上を仰ぐと、夜空では雲の切れ目に小さな星が浮かんでいた。曇天に目を凝らせども春の星座の行方は知れない。それでもいい。地上を歩いていく和葉の道は、夜が明ければ太陽が教えてくれる。


 叶うならまぼろしのような夢を忘れたくはないと思うのは感傷だろうか、と思いをめぐらせながら、和葉は大きくあくびをするのだった。



<完>

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腑抜けた夜を嗤えばいい 穂波 @harumahil

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