春と死に際

春の夜に死のうと思った。

それに、特に意味はなかった。


ただ、死ぬ人と死なない人にどうやら大した違いはなくって、薄皮一枚の頼りない境界で遮られているだけだということを、春の夜風に吹かれて知った。


知ってしまったから、そんな頼りない隔たりを、僕も越えてしまったのだ。


実際、春に死ぬ人は多いという。


春という季節は、昼の陽気に反して夜の風がひやりと冷たい。冬の張り詰める寒さではなく、秋の寂しい風でもなく、心地よさの中に何か隠したような冷たさ。


陽気で浮き立つ高揚や狂騒、焦燥や葛藤といった心の熱量の隙間を縫って、風が瞬く間に吹き抜ける。その急激な温度の落差に、人はやられてしまうのだ。自分の心が中身のない空っぽなものであったと、気づかされてしまうのだ。


優しく撫でる柔らかい手に、突き飛ばされてしまう感覚。春は、心地よさと残酷さを併せ持つ。


僕はスマホも財布も鍵も持たずに、着の身着のままで家を出た。昼間は開かずの踏切と化す遮断器も今時分は開きっぱなしで、僕は拒まれることなくすんなりと線路を渡る。


国道をしばらく下り、警察署の手前にある橋のたもとに立つと、川の下流に線路の架線が見える。橋の下を流れる川は、この先で二つの街を縫うように流れ、より大きな川に合流し、やがて海へと出るだろう。


しかし、やけに静かだ。夜間とはいえ多少は車の往来もあるはずだが、今夜は一台も通らない。


辺りに人の気配というものが感じられず、しかして街灯は夜の闇を照らしている。これらの灯りがまるで導くようにぽつり、ぽつりと連なる様子は、はっきりいって異様に見えた。


橋から川の上流へ右岸に入ると、すぐそばにあずまやがある。簡素ながらテーブルとベンチが並べられ、近隣の高齢者が休憩したり、缶チューハイ片手に歓談したりしているのをよく見かける。


人の気配がなかったことと、そもそもこんな夜中にあずまやで休む人なんかいないと思っていた僕は、屋根の下の暗がりを見て背筋が凍った。


黒いローブを身にまとい、フードを目深に被った人物が闇の中に、溶け込むように座っていたのだ。


「君はどこへ行く?」


ローブの人物は人形みたく静止したままだったが、確かに僕に向かって尋ねた。その声にも抑揚がなくて、感情を全く感じられない。


「特に、決めてはいないのです」


「まあ、座りたまえ」


こちらの答えを予想していたのか、あるいはどんな答えでも最初からどうでもよかったのか、淡々と着座を勧めてくる。断るという選択肢が頭に浮かぶ前に、僕はベンチに座っていた。


「君は、死にたいと思っているね?」


どきりとした。


「なぜ、わかるのです?」


「そういう人にのみ見えるからね、私は」


ローブの人物は足元から、身の丈ほどもある大きな鎌を取り出した。暗闇の中にあって、鈍色の刃の輪郭がはっきりとわかる。


「いわゆる、死神というやつさ」


薄々わかってはいたが、それにしても安直というか、いかにもな見た目だった。


「安直だが、わかりやすいだろう?」


まるで、心でも読まれているようで気味が悪い。ただ、死神という異質で異常な存在を、僕はすでに受け入れはじめていた。


「僕を迎えに来たのでしょうか?」


「いいや。担当が違うから」


「担当?」


死神は鎌を再び足元に置くと、居住まいを最初と寸分たがわぬ姿勢に直した。


「私は天寿を迎えるものが担当だ。予め決められた寿命を全うしたものだけ連れていく。天寿を迎えず死ぬものは、それ担当の死神が来る」


死神の口調は相変わらず事務的だったが、冷たいとは思わなかった。むしろ、ただ事実のみを語る態度に、僕は少し好感を抱いた。


「何か違いはあるのですか? その、自殺する人と、天寿を全うする人で、死後の違いのようなものが」


自殺はどの宗教でも否定的に捉えられる。死神の担当者が違うのも、そういった理由からだろうか。


「死後の世界のことは、まだ生きている人にはいえないよ」


「今更ではないですか?」


「違うのだよ、全く違う。ただ、担当が違うのに特別な意味はないよ。単純に業務上の問題さ。君の求める答えはこれで充分だろう?」


核心ではないが、その答えで納得することにした。


「それと、天寿と死因は関係ないよ。自殺や事故死でも予め決められている場合があるし、そうでない時もある。確実に寿命といえるのは、老いて肉体が限界を迎える時くらいじゃないかな」


「でも、僕は天寿ではないのですよね? なぜ、僕の前に現れたのですか?」


「たまたまさ。ここらでもうすぐ、寿命が尽きる。まちつついたら、君の方からやってきた」


たまたま死神が見えるなんてこと、あるのだろうか。そんな疑問が浮かんだが、死神はすぐに答えてくれた。


「時折りあるのさ、こういうことが。死に近づいて、こちらの世界に触れるものがいる。もちろん、全員じゃないがね。普通は死ぬ瞬間まで、我々は見えないものさ」


死神は真っ直ぐに立ち上がり、鎌を取り上げた。


「来るかい? そろそろだ」


僕は死神と一緒に、堤の上の遊歩道を上流に向かって歩いた。死神の引きずるローブの裾を踏まないように、少しゆっくりめについていく。


「ノルマみたいなのものはあるのですか? どれだけ命を狩れるのか、みたいな」


「別に競争じゃないからね。いわれた通りにやるだけさ」


「では、天寿は誰が決めるのですか?」


「知らないね。私とは関わりないことさ」


川の両岸には住宅街が広がっている。民家の塀で寝そべる猫が、光る目をこちらに向ける。金色の瞳が、試すように僕を睨む。


「死神としては、いや、あなた個人としては、天寿を全うせず自殺する人をどう思いますか?」


僕の問いかけに、こちらを振り向く――と思ったら、川べりに続く階段を降りるだけだった。こんな所に階段なんてあっただろうか。


「繁忙期に死なれては迷惑かな。余計な仕事が増えるから」


「でも、担当は違うのでしょう?」


「しわ寄せが来る」


死神の社会も、人のそれと変わらないらしい。ならば、死後の世界も今と大差ないのではないか。そんなことを考えながら川べりの土を踏む。


「見えてきた」


死神の声に、僕は顔をあげる。そして、目の前に映る光景に息を呑んだ。


川の両岸に、満開の桜が見渡す限り並んでいた。薄い桃色があらん限りの力で激しく咲き狂い、花びらを散らして夜の闇に舞っている。


奇怪な点は二つある。光源もないのに桜の姿がはっきり見えるのと、満開の時期はとっくに過ぎているということだ。


この川の桜並木は、毎年満開のころにライトアップされる。地元のイベントとして、桜が満開になるたった一晩だけ、夜の闇に桜が灯る。


僕も一度、近くに住むのでせっかくだからと照らされる夜桜を見に来たことがある。淡く光る桜の叢がりはいたく幻想的であったが、幅員三メートル程度の、普段は地元民しか通らないような道が人でごった返しており、とても落ち着いて見られなかった。


それが、どうだ。今、この場にいるのは僕と死神の二人だけだ。それに、枝ぶりも花の量も本来の比ではない。両岸の堤防からアーチを作って川べりに垂らした枝が、めまいがするほど無数の花びらを誇らしげに咲かせている。


「夢のような世界ですね」


「言い得て妙だね。夢はあの世の隣だから」


死神は川の中に入っていく。僕は少しためらってから、追従して川の中に踏み入った。水面を割って起こる波紋は、白く光って揺らめいている。


「どこに向かっているのですか?」


川の中に、これから死ぬ人がいるのだろうか。しかし、この川の水深で入水は無理だ。誤って転んでも、死んでしまうほどの深さはない。


「ここだね」


死神は川の中央、馬鹿みたいに大きく映る水面の月の前に立ち、大鎌を持ち上げて柄を川底に突き立てた。


すると、舞い散る桜が渦巻いて、世界の全てを覆っていった。狂った画家が余白に恐怖するかのごとく、視界の隙間を一分も残さず桜の壁がせまってくる。


突然のことに僕は身体をすくめ、とっさに腕で顔を守る。その時、視界の端で、花びらの波間を泳ぐ着物の袖を見た。


花びらのひとひらひとひらが手のひらほどの童に変わる。くすくすと笑い合って空を舞い、蝶のように遊びながら僕の鼻先をかすめていく。


そして、死神の正面に映る水面の月には、豪奢な振り袖に身を包んだ美しい女性が佇んでいた。


「春の終わりさ。迎えに来た」


死神の言葉を無視して、女性は夜空を仰いでいる。


「もう少し、このままいては駄目でしょうか」


か細く、弱い声だった。まるで独り言であるかのように。


「それを決めるのは私じゃないよ。お前もわかっているだろう?」


女性が疎んずるような顔をこちらに向けると、目を剥き、驚いた様子を見せた。彼女が両手を差し出すと同時に、僕の周囲の童たちが、僕を掴んで浮かばせる。


無重力状態から引き寄せられて、僕の頬は彼女の両手に収まった。


「まあ、まあ、まあ、まあ」


彼女は笑う。ほころびながらも、目も唇もきりりと細く弧を描き、この女性もまた人外であるのが窺える。


「あぁ、最後にお人様に会えるとは。なんと喜ばしいことか」


彼女の手のひらは冷たく、それゆえに自分の頬が熱い。


「どうでしたか、今年の花ぶりは? 一年、たんと拵えた装いです。昨年にも一昨年にもまさか負けてはいないでしょう? あぁ、だけど今際の際に立ち会えてもらえるのは、それはなかなかないことです。どうでしょうか、今年の花は。見劣りなどしないでしょうか? 自分で比べることはできないもので、不安で不安でたまりません。喜んで頂けたなら良いのですが。どうでしょうか、今年の花は?」


彼女の勢いに気圧されつつも、僕は偽りなく答えた。


「とても、とても綺麗でした」


僕が言うと、彼女は笑ったまま涙を流した。僕も一緒に泣きたくなったが、それはきっと正しくない。


彼女はゆっくりと僕を下ろし、僕の足は再び川に着水した。波紋の揺らめきが、水面に映る月をぼやかす。


「気が済んだかね」


「ええ、私の祭りは終わりました」


死神の問いに、彼女は晴れやかな笑顔で答える。


「終わったら、この人に。よろしいでしょうか」


「いいよ。君、手を」


死神に促されて、僕は手のひらを上に向ける。彼女は静かに目をつむる。


「また、来年も楽しみに」


死神が鎌を振るう。刹那、周りに浮かぶ童たちは花びらに還り、滝のような桜の花が世界を覆う。


景色が戻った後、僕の手のひらには小さな一輪の桜の花が転がっていた。首を落としたように、綺麗な形を保ったまま。


「さて、仕事上がりだ」


死神は淡々と、川べりへと上がっていく。僕は手のひらの桜を潰さないように優しく包む。


「僕の気持ちは、薄っぺらいものですね。もっと真剣に生きないと」


死のうと思った気持ちが、いかに軽薄であるか思い知らされた気分であった。


しかし、死神が「それは違うね」と反駁する。


「死なないからといって、死にたい気持ちは嘘ではないさ。ただ、死ぬものと死なないものに違いはなくて、死んだものと死んでいないものが違うだけ」


「しかし、それだとやはり、死ぬまではきちんと生きろということでしょう?」


「私は死神だ、生前の世界には口を挟めないさ。ただ、あえていうなら、仕事が暇ならそれに越したことはないね。上は知らんが、現場としては」


「……誰かの役に立てるのなら、生きる価値はあるかもしれません」


「みんな、そういうの好きだね」


死神の真意はともかく、都合の良いように取ることにした。たしかに、誰も彼も意味にすがる。それがどんな形であれ、人一人を生かすのならばそれで良い。


東の空から、薄く藍色を帯びていく。木々の緑が風にそよぐ。


散った花びらが川を流れていくのを見た。

また、この景色を見ようと思った。

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