気ままな短編集
comyou
少女は雪に考える
雪が降る。しんとする。静寂が耳を刺す。
冷たい空気は、寒いというより痛いと感じる。そこら中の、あちこちの空気に細い細い糸が張りつめていて、それを切りながら歩く感覚。
街灯の光を透かす、白い息。白は冷たい印象があるのに、空気よりも温かい。自然に反しているのでは?
反しているのは、私の思考だろうか。思想、というほど大それたものは持っていないけれど、いつも心にある疎外感。寂寥感。正しく世界を動かしていないという感覚を、冷たい空気が際立たせる。
曳く自転車は、薄っすらと染まる白い道路に轍をつける。きっとこれも、すぐに消えてしまうのだろう。
からからと、雪を巻き込みながら回る車輪。この車輪というのはだれが開発したのだろうか。千年や二千年じゃ、その歴史はきかないだろう。
人類の英知に乾杯! まぁ、雪が降ればこの通り、ただのお荷物でしかないわけだけど。でも、そもそも車輪がなければ、こんな鉄の塊も動かせないわけで。
ただの鉄の塊に成り下がった自転車も、平時には私を運ぶ大切なパートナーだ。中一のときに買ってもらって、割とずっと気に入っている。
この自転車という代物も、なかなか洗練されている。細く、削がれ、無駄がない。羨ましいわ。あやかりたい。
ハンドルの根本、鉄の部分に触ってみる。冷たい。自分の身体の熱を知る。手袋持ってくればよかった。
私という身体から、熱がどんどん奪われていく。私ひとりが生み出す熱では、夜の空気は変わらない。急に、自分が小さく見える。
街灯の灯りを雪の粒が通過する。あの粒も拡大すれば、綺麗な結晶となっている。自然が生み出す造形の極致。美しさは人に依らない。人の心が美しさに依るのだ。
なんてね。こんなこと、考えたところで栓のない。私は私の現実を生きるしかない。具体的には、模試の成績を上げなければ。
あぁ、やだやだ。学校の勉強に、なんの意味があるのだろう。お仕着せの教科書であれやこれやと、世界はこうなっていると説明されて、それで納得するものか。
いや、わかっているよ? 勉強は大事。いや、どうだろう。わかっているかな? 勉強が大事だって、みんな言う。親、先生、世の中がそう言う。別に反論はない。そうだと思う。
でも、勉強していて良かったとか、勉強していなくて後悔したとか、そんな経験、私にはないもの。理屈はわかっていても、実感が湧かない。
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ——あの言葉は嫌い。経験に学ぶ人はみんな愚かだ、みたいな口振り。経験に学んで生きる人もいるだろうに。
無知の罪、知らぬが仏、ほっとけい……馬鹿馬鹿しい。ああ可笑しい。こんなに可笑しいのに、誰にも共有できない空しさよ。こんなことを誰かに言っても、「はぁ、それで?」って感じ。逆の立場だったら私だってそうなる。
SNSで、つながることが当たり前になって。それでも私は、正しく世界につながっていない気がする。つながるには、つながりやすい形に変化しなければならない。これってなんだか、化学式みたいじゃない?
私たちはみんな原子で、つながったり離れたりするには、熱を加えたりなんだりして、外部から刺激を与えなければならない。
ああ、そうか。寒さが孤独を際立たせるのは。冷たい空気に張られた細い糸の正体は、構造式の結合の線だ。冷たく、もろくなったつながりの線をぽきぽきと折っているから、寒さは人を寂しくさせる。つながった。理屈が通った。大発見だ。私もノーベル、人類の英知に大貢献!
大きく、白い息を吐く。空に立ち昇る、小さな煙。すぐに消える。私の熱がまた奪われる。
夜空は灰色の雲に覆われていて、雪がちらちら降り続ける。こうして空を見上げていると、分厚い雲に吸い込まれていくみたい。私は私の煙を追い越して、この身体ごと空に昇る。灰色の雲と溶けて、混じり合って、オーロラの間を泳ごう。途中でサンタクロースを飲み込んじゃったりして。
なんとなく、ふいに、口を開けて舌を伸ばす。雪を上手くキャッチできれば——
「なにしてんの?」
急に声が聞こえて、私は肩が跳ね上がる。声の方を向くと、男子が家の二階から顔を出している。クラスメイトの佐々木くんだ。
私は頭が真っ白になって、固まってしまう。
「ここ、佐々木くんの家? すっごい偶然。私、いま、塾の帰り」
緊張で早口になり、声が裏返る。変なやつだ。恥ずかしい。
「そう。大変だね。俺、家庭教師だから」
佐々木くんは屈託なく笑う。悪意のない感じがちょっと可愛い。
「ていうか、寒くない? すごい薄着じゃん」
「朝、天気予報見なかったから。寝坊しちゃって」
なに余計なことを言ってんの、私。恥の上塗り、アホ、マヌケ。
「ふーん……ちょっと待ってて」
そう言って佐々木くんは家の中に引っ込む。待つ間、私の熱はどんどん上がる。冷たさを恥ずかしさが上回る。
「これ」
再び顔を出した佐々木君は、窓から手袋を放り投げた。放物線を描く手袋は寸分違わず私の手元にやってきて、私は慌ててキャッチする。
「使ってよ。明日、返してくれれば良いから」
「あ、ありがとう」
「雪は食わない方が良いよ。空気中の塵とか入って汚いから」
そう言って佐々木君は手を振り、窓を閉める。雪の中に取り残された私はちょっと呆然としながら、毛糸の男物の手袋を握りしめる。
手袋をはめると、徐々に熱が戻ってくる。けれども、私は、もう寒さどころの騒ぎではなかった。
私の心に静寂はなく、胸が熱く鼓動を鳴らす。馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しいほど簡単な理屈。
孤独も、人類の英知も、愚者と賢者を隔てる違いも、なにもかもが些末なことだ。
乙女の恋する心の前では。
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