五百キロメートル先の君へ

有機喧騒

プロローグ

 東京の高層ビル群を濡らす雨は、一向に降りやむ気配を見せない。僕は左手に提げた紙袋の中を見て、僕の半歩先の地面に次々と落下してくる水滴たちを恨めしく思う。この紙袋の中身――大量の本――を守りながら、どうやって自宅までの道のりを乗り越えるか。僕は溜息をつく。仕方なく僕は、さっき通り抜けたばかりの改札機をもう一度通り、大勢の人が縦横無尽に通行する東京駅の構内に足を踏み入れる。

 僕はあてもなくただ駅の中央通路を歩く。人々の熱気が、十二月の冷たい空気をかき消している。この通路を歩く者たちは皆、明確な目的を持っていた。山手線に乗る。新幹線に乗り換える。駅ビルで買い物をする。皆一様に、駅を使うにあたって然るべき目的を持っている。きっとこの駅を歩く人間の中で、明確な目的を持っていないのは僕だけだろう。そう思えてしまうほど、大量に貼られた広告や駅ナカのテナントに一切の目線もくれず、皆が一直線に歩いている。僕はまるで酔っ払いのように、足取りはふらふらとしていて、そして目に付くもの全てに視線を向けているから、余計にそう思えてしまう。

 だからだろうか。そんな明確な目的を持った人々の群れの中で、僕と同じく目的がないまま歩く君を見つけることができたのは。

 より正確にいうなら、君は目的が「ない」のではなく、目的を達成するための道のりを「なくしていた」。

 もっと簡単にいうなら、君は「迷子」だった。

 その小さな体躯に似つかわしくない大きなスーツケースを引いて、人混みの中を右往左往している君の姿は、ある意味滑稽でもあった。大した目的もなく、ただ時間を浪費するように通路を歩いていた僕は、なんとなく君を助けようと思い、君に声をかけた。そこには、真剣にこの由々しき事態をどうにかしようと奮闘していた君を、少しばかり笑ってしまったことに対する罪滅ぼし的な意味合いもあったのかもしれない。

「何か探していますか、僕でよければお手伝いしますよ」

 僕は愛想のいい笑顔を作るのがあまり得意ではなかったが、なんとか人に見せられる程度の笑顔を意識する。

 しかし、君の反応は僕の予想を真っ向から裏切ってきた。

「それ、笑顔のつもりですか」

 さっきまでうっすらと涙を浮かべていたはずの瞳はすっかり元通りになり、口を若干いびつな形にして、肩を小刻みに揺らしている。君は笑いを堪えていた。

 どうやら僕の笑顔は相当滑稽だったらしい。

 それはさっきの仔りすのような君の姿よりも滑稽だったのだろうか。僕は考える。ついでに滑稽であろう笑顔もやめた。

「僕の笑顔、そんなにおもしろいですか」

 僕は尋ねる。

「ごめんなさい、でも、ちょっといびつでぎこちなかったのでつい」

 そう言って、君はもう一度肩を震わせる。

「そんなに」

「はい、そんなに」

 僕はもう一度笑顔をつくる。

 君はとうとう堪えきれなくなったのか、声をあげて笑い出す。

「じゃあ、後は一人で頑張ってください。それじゃ……」

「すいませんでした。」

 僕の言葉を遮って、君は謝罪の言葉を口にする。どうやら自分が迷子であることを思い出したらしい。

 僕は思わず噴き出した。

「あ、普通に笑えるじゃないですか」

 君は感心したように声を漏らす。

「じゃあ、そういうことで」

 僕はそそくさと踵を返して歩き出す。

「あの」

 君の声が構内にこだまする。驚いた幾人かの通行人が君に視線を向けた。

「すみませんでした。助けてください。お願いします。」

 もう一度僕が君のいる方へと振り返ると、君は深々と頭を下げていた。顔は見えなかったが、君はきっと焦りに焦った表情を浮かべていたのだろう。初めから君を助けるつもりでいたとはいえ、相も変わらない自分の性格の悪さを再確認した。そこまでして、僕はようやく言葉を返す。

「仕方ないですね。どこまで案内すればいいでしょうか」

 僕の言葉を聞いた途端、君の表情からどんよりとした雲が晴れていく。

 くるくると表情の変わる子供だと、僕はのんきに考えていた。

 思えば、この時から僕は、君に惹かれだしていたのかもしれない。

「えっと、あの、丸の内線の乗り場までお願いしたいです」

「わかりました。それじゃあ、ご案内しましょう」

 お互いの名前すら知らない二人が、同じ場所を目指して歩く。当然といえば当然なのだが、僕はそんな状況に僅かな楽しさを感じていた。それは、君が目に付くものにいちいち驚きの声をあげて、くるくると表情を変えていたからだろうか。それは、地下鉄の乗り場に向かうだけだというのに、君がまるで遊園地にやってきた子供のようにはしゃいでいたからだろうか。それとも。

 今となっては、あの時の自分が胸の奥で抱いていた感情など、曖昧になってわからなくなってしまった。

 一通りはしゃいだ君は、隣に僕がいたことを思い出したのか、僅かに申し訳なさそうな表情を浮かべて、僕に言葉を投げる。

「私、初めて東京に来ました。それも一人で。両親には、十六で一人旅なんて早いって猛反対されたんましたけど。何とか押し切って。それでなんだかはしゃいじゃって。子供みたいで恥ずかしいところを見られちゃいました」

 僕は思わず足を止める。

「東京ってすごいですね。大きなビルがたくさん……あれ、どうしたんですか」

 僕より少し前を歩いていた君が、足を止めてこちらを向く。

「今なんて言いました」

 僕は君に尋ねる。

「東京は大きなビルがたくさん」

「じゃなくて、その前」

「はしゃいじゃって恥ずかしい」

「もっと前です」

「十六で一人旅は……」

「そうそれ」

 僕は相当に滑稽な顔をしていたのだろう。君は怪訝そうな表情を浮かべる。

「君、十六なの」

「十六ですよ」

「本当に」

「本当です」

 少しの間が空く。

「ちなみに身長はおいくつですか」

「百四十九センチです」

 自分の身長を言ってから、僕が何を考えているのか察したのか、君は若干不機嫌そうに言う。

「私子供じゃないですよ」

「すいませんでした。」

 僕は頭を下げる。どうやら先ほどとは力関係が反対になったらしい。

「大丈夫です。怒ってないですよ」

 僕が頭を上げると、君はニタニタと笑顔を浮かべている。

「笑顔が怖いんですが」

「子供扱いはひどいです。お詫びとしてその紙袋の中に入っているものの話をしてください」

「紙袋の中身?ああ、本の話ですか」

「そうです」

 僕の左手に提げられた紙袋。そこからは大量の本が見え隠れしていた。特段隠すほどのものでもなかったので、紙袋の口から飛び出しているのを放置していたのだ。といっても、彼女の身長なら本が飛び出していなくても、口から中身が見えてしまいそうなものだが。僕の思考を見透かしたかのように、君はまたむすっとした表情になる。僕は慌てて話を始める。

「本、好きなんですか」

「はい、大好きです」

「じゃあ、仲間ですね。」

「はい、仲間です。本っていいですよね。なんだか自分をいろいろな世界に連れていってくれるみたいで」

「あ、わかりますよそれ。未来にも、過去にも、異世界にだって行けてしまいますからね」

 僕も君も、今まで以上に会話を楽しんでいた。

「君はどんな……いや、君、じゃなんだか変ですね。」

「たしかにそうですね。名前、教えちゃいましょうか。なんというか、その」

 君がまだ知りもしない僕の名前を呼ぼうとしていることに気づいて、僕はすかさず自分の名前を言葉にした。

「僕は宮崎枢みやざきかなめっていいます。変な名前でしょう」

 僕はそう言って、少し笑ってみせた。

「宮崎さんはなんだか信頼できる気がします。」

「いい名前ですね、かなめって。なんだか憧れちゃいます」

「私の名前は由良川陽菜ゆらかわひなです。宮崎さんと比べると退屈な名前ですね」

 きっと君は、僕の軽い自虐にフォローをいれてくれたのだろう。そのあからさま過ぎる饒舌っぷりに、僕は思わず笑みを溢す。

「宮崎さんは、どんな本を読むんですか?」

「僕は基本雑食なんでなんでも読みますよ。あ、でも、最近はSFが多いですね。あとは、かっこつけて文豪の作品を齧ったりとか。由良川さんはどんな本を?」

「私は恋愛小説ですかね。べたべたであまあまな」

「あはは、いいですね。僕も好きですよ、恋愛小説」

 僕は確実に、陽菜との会話を楽しみ、彼女と並んで歩いていることを素直に嬉しく思った。しかし、どんなことにも終わりが存在する。僕たちはもう間もなく目的地である丸の内線のホームの近くまで歩いてきていた。そのことを彼女も察知したのか、徐々に口数が減っていく。少しの間が空いた。陽菜がようやくのことで口を開く。

「私の周りに本を読む人がいないので、こういう風に話ができる人、初めてで……あの、その。」

 それだけ言って押し黙る。陽菜の顔は、耳まで紅く染まっていた。もう一度間が空く。それから少しの時間をおいて。

「よかったら、私の連絡先、受け取ってくれませんか」

 陽菜の声はこれ以上ない程震えていた。

「いいですよ。もっと由良川さんと話したいと思ってました。僕からも、連絡先、受け取ってください」

 僕は若干喰い気味に応える。

 僕の言葉と同時に、陽菜の顔に笑顔が咲いた。

 それから僕は、陽菜と連絡先を交換して、丸ノ内線の改札を潜る彼女を見送った。

「また会えたらいいですね」

 そう言った陽菜の笑顔は、それまでで一番嬉しそうで、花のように温かく咲いていた。




























 片道五百キロメートルの恋は、ここから始まった。

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