5.プラグマティズム

佐瀬紫苑さぜしおんは疲れていた。

大体いつも疲れているが、今は肉体的に疲れていた。


本当はこんな病院の簡易ベッドなんかではなく、自室のセミダブルのベッドに寝転びたいし、それが出来ないならせめて行きつけの喫茶店でコーヒーを飲ませて欲しい。


しかし今の時間は深夜0時を過ぎた所だった。


佐瀬はそこそこ大きな病院で主に入院主治医として働いている。医者のなかではまだまだ若手なので、手術など執刀をさせてもらうことは少ないが、助手として携わることもある。


まさに今そうだ。

若いうちは体力勝負、分かってはいるがすり減るのは体力だけではない。やはり手術したあとは気力が大分消耗する。

手術は無事終わったけれども予定時間を大幅に越える長丁場だった。


ベテランの執刀医は汗もかいてて「いやあ大変だったね」とは言っていたが全然大変そうじゃなかった。やはり年季が違う。


簡易ベッドに倒れ込み、ぎしりと安っぽい音がなる。

長らく放っておいた携帯を手に取り、スッスッとメッセージアプリを確認する。


ほぼ商業用のアカウントで通知は埋め尽くされてたが、何故か喫茶店のアルバイトから嫌がらせのようにスタンプが何個も送られてきていた。なんでアイツ知ってるんだ…。


"友達かも?"という欄に環とあの新卒の女もいた。あぁやってしまった。そういえばあの女に電話をかけたことがあった。電話番号で登録されたんだろう。

友達ではねぇよ、と心のなかで突っ込み、ミハルに対しては既読スルーした。


こないだあの女絡みで面倒なことに巻き込まれてからまだ1週間ほどしか経ってないというのに、全く懲りちゃいない。

あの日環共々正座で反省させた筈なのに。


はぁ、と深くため息をついて目を閉じた。何かあればすぐに起きなければならないが、佐瀬は気を失うように寝た。



▲▽▲▽▲▽



あの日手術したのは19歳の青年だった。入院主治医である佐瀬のことをよく慕ってくれていた。

佐瀬に手術をして欲しかったというが、大がかりなものだったので助手としてつくだけで精一杯だった。


全身にかけた麻酔の効き目がやっと取れてきた術後2日目、様子を見に行った佐瀬をみて青年は身体を起こそうとした。


慌ててそれを止める。ベッドのリモコンを取って上半身を起こした。

まだ少しだけ口を開くのが辛そうだった。


「せんせ…ありがとう」


青年は決して心が強い方じゃなかった。難しい病気のために外に出ることもあまり出来ず、友達にも会えなかった。

今回の手術で彼の病気の全てが終わるわけじゃないとわかってはいたが、不安なものは不安だったのだろう。

手術前には少し泣いているところを佐瀬に見つかって話をしていた。


「俺は大したことしてない。…時間が長引いたにも関わらず頑張ったのはお前の身体だ。」


途中で患者の体力が無くなってたら終わっていた。

やっと実感が湧いてきたのか、青年はポロポロとまた大きな粒を目から溢した。


「…よく泣くな。」


佐瀬はキャビネットにおいてあったティッシュを呆れたようにとり、青年の目にあてがった。


「今度は悲しくて泣いてるわけじゃないよ。」


手術が始まる前泣いてる青年に佐瀬はこう言った。

『悲しいから泣いてるんじゃなくて、泣くから悲しいんだ』


下手に励ますような言葉も思い浮かばなかったし、うわべだけの言葉なんて言ってもしょうがないと思ったからだ。

だからどっかの店主がいつか誰かに言ってた言葉をそのまま口に出した。


それでもいつも笑ってろとか、泣くなとかは言えなかったけども。


「泣いてると悲しくなるかもしれないぞ。」


勿論青年の涙はどうみても安堵や嬉しさから来る涙だと分かっていたが、佐瀬も気を抜いて冗談をいいたくなるほどにはいい回復傾向だった。


佐瀬にとって医者という職業は、大変ではあるがとても尊い仕事だった。人を助ける知識をもっていること、そしてその知識をもって行動出来るのが医者だ。長い勉強の末やっとなった医者、これからもっと自分の手で人を救いたい。


目の前にいる青年のように、泣いてるばかりの人生を少しでも普通にしたい。泣いたり、笑ったり、怒ったり、そんなことが普通に出来るような人生を送って欲しい。


回診を終えて自分の執務室に戻る。たんまり溜まった書類の山を無責任に崩したくなるがそんな気力もないのでやめておく。

今また新しい書類をそそくさと看護師がもってきて早口で頼んでいった。


看護師や同僚に自分がよく思われてないことは知ってる。理由は愛想がないからということも。影であの医者ウザいとか言われてるのも、だ。

黙認してるわけではないが、否定する理由もない。仲良くした方がいいに越したことはないが、ハナから自分の事を理解しようとしないやつに対しては何言っても無駄だと思っている。勿論、そんな人間ばかりではないことは知ってるが。


以前環に、「佐瀬くんはそういうのサボってるだけでしょ」といわれたことがあるがまさに的を射ていた。図星過ぎて何も言えなかった思い出がある。


店主の淹れたコーヒーが入ってるタンブラーに口をつけて、また書類の山にとりかかる。あの店にいけるのもあと何日後になるだろうか。



▲▽▲▽▲▽



一週間経って、青年はよく笑うようになった。泣いたら悲しくなるという佐瀬の言葉を信じ、笑っていれば楽しくなると信じてるといっていた。

しかし、そんな青年の気持ちとは裏腹に、病状は思ったほど良くならなかった。術後すぐには良くなっているように見えたが、一定数値まできては足踏みしていた。


退院したら何しようかなど話す無邪気な青年に対して、佐瀬は焦っていた。点滴の量を変えてみても変化はない。ちゃんと効果が出るように処方してるはずなのに、効果がでない理由もわからなかった。

治療というものにマニュアルはなく、一人一人その時の状態によって対処が違う。絶対この薬が効くなんて事もないのは重々承知しているが、問題が分からない限り退院させることも出来ない。


手術から日数は経っているのに退院の話が出てこないことに、青年は次第におかしいと思うようになった。そして事件は起きた。


ちょうど佐瀬が日勤を終えて帰る準備をしたところだった。ナースコールが鳴り響き、看護師が慌てて帰りかけた佐瀬を捕まえた。


私服のまま青年の部屋に走り、到着すると今までの元気な姿はなく、ひどく顔を歪ませ、腹を抑えて痛みに耐えていた。


「CT用意しろ!」


看護師に青年を仰向けにさせて触診する。手術した患部とは少し離れていた場所だ。そのまま検査室に向かい、手術を担当した先輩と検査結果を見る。


端的に言うと、手術をしたことによって他の部分がダメージを受けた。そんな感じだった。

痛み止めを処方し、それを修復する薬も飲み始めた。

これで今まで止まっていた数値も良くなればいいが──。


しかし佐瀬の期待はかなわず、それでも病状は変わらなかった。むしろ、術前よりも悪化している。


青年から笑顔は失くなった。泣くことも失くなったが、代わりに無表情でいることが多くなった。


諦めないでくれと、言いたかった。でもなんの解決策も出しえない今の自分に言えた言葉ではなかった。



▲▽▲▽▲▽


「顔色、すごく悪いよ。寝れてる?」

「…寝れてない。」



いつぶりかの日勤を終え、何週間かぶりの喫茶店に行った。

自分以外の客はおらず、お人好しの店主は奥から膝掛け用のブランケットをもってきて俺の肩に掛けた。


本当はベットに入った方がいいに違いない。でも寝転がったら色々考えてしまうのだ。

環はそれを見越していたのか、ソファー席で寝ろというでもなかった。


「……環。」

「うん?」

「いくら知識なんてあっても、それを正しく使えなきゃ意味ないんだよな…。」


正解が見つからない。見つからないままでも明日を生きなければいけない。

佐瀬は腕を枕にして、突っ伏したまま瞼を閉じた。

泥の中に沈んでいくように、意識を手放した。



「こーんばんわー…うわ。」

「いらっしゃい、琥珀くん。」


由野琥珀よしのこはくが仕事がえりに立ち寄った。

最近鉢合わせなかった佐瀬の姿を見て顔をしかめるも、寝ている姿をみると毒を吐く気も失せた。環もそんな琥珀に苦笑いした。


「大丈夫なんですか?」


佐瀬のことを指差し、そおっと自分の定位置に座る。起こさないように配慮して気持ちいつもより声が抑え目だ。


「うーん、今回は随分と参ってるみたいだね。」



琥珀は知っていた。言葉遣いが悪いことは置いといて、今までの佐瀬の言動をみていて、佐瀬が真面目なのは分かっていた。そして以前自分の案件で巻き込んでしまったこともあり、なんだかんだここの店主と同じくらいお人好しであることも身をもって知っている。


佐瀬はあまり自分のことを喋らない。だから抱えてる闇も見えづらい。助けを求めることもしない。そういう人間なのだろう。

言わないけど助けてくれなんていう人よりも幾分かいいのかもしれない。と以前どこかのカップルが此処で揉めていた時のことをボーッと思い出していた。


「僕ちょっと中で仕事してるから、佐瀬くんのこと宜しくね。」


環はカウンター内の片付け作業を終わらせて奥の事務所の中に入っていった。営業終了時間まであと一時間弱ほどあるが、今日は早く閉めるのかもしれない。


空調が程よく暖まっていて淡くBGMが流れる店内は確かに眠気を誘う。


「んん…」


佐瀬が身動ぎして顔を横に向ける。いつも皺が寄ってる眉間には机に突っ伏していたセーターの袖のあとがついており、思わず笑いそうになった。

琥珀はそっとカメラを起動させ、そろりとレンズを近付ける。


パシャリ、と小気味良い音が鳴った。


(やばっ…!)


綺麗に取れていたが流石にその音で佐瀬は目を覚ました。ズルリと肩から落ちそうになったブランケットをかけ直す。


「…オイ」


琥珀は慌てて、今の今まで佐瀬がしていたようにカウンターに腕を置き、顔を突っ伏した。


「起きてんだろ。」

「………」


琥珀は返事をしなかった。出来なかった。佐瀬の声が怖すぎて。


「寝たふりしてんじゃねぇよ、今パシャッて聞こえたぞ。」


グイグイと腕を揺すられ、頑なに顔をあげまいと力を入れる。それ自体が確実に起きてる証拠だが。

フッと揺すられる手がなくなり、琥珀は遂に諦めたかと一瞬安堵する。


「ひゃぁああ!?」


しかし腕を広げてたが為に大きく開いていた脇に容赦なく手を突っ込まれ、擽ったさに飛び起きた。あやうく手のひらから落ちそうになったスマホを握りしめる。


ギッと佐瀬を睨み付けると得意気な顔をしていた。しかし眉間にはまだセーターの跡がくっきりついている。


「何撮ったんだよ、貸せ。」

「え、です。」

「嫌じゃねぇよ。」


他人に自分のスマホを触らせるなんてしたくない。必死に佐瀬の反対側にスマホを遠ざけるが、佐瀬も佐瀬で自分を撮られたということが分かってるためその腕のリーチを生かして追いかけてくる。


「あれ、佐瀬くん起きた…の…あらら。」


環が事務所から出てきたが2人の様子をみて口に上品に手を当てた。

佐瀬が琥珀に覆い被さり琥珀が仰け反ってるように見えなくもない。


「…僕もうちょっと仕事あるから」

「環、ちげぇ。環!んなわけあるか!こんなちんちくりんと!!」


佐瀬がそそくさと退場しようとする環に向かって必死に吠えてる。琥珀は誰がちんちくりんだ!と思いながらも佐瀬が環の方を向いてるうちにさっきの画像を環と佐瀬宛に送信した。


環のエプロンの中でピロリンと、カウンターに出してた佐瀬のスマホがバイブレーション鳴ったのは同時で二人が確認した。


「………消せ!」

「ミハルちゃんにも送っていいですか?」

「ダメに決まってんだろ!消せ!」

「あはは、よく撮れてる。これアイコンにしたら友達増えるんじゃない?」

「確かに!佐瀬さん携帯貸してください、大丈夫ですちゃんとボカシいれるので。」

「余計なお世話だ!…ったく…。」


佐瀬は諦めたのか、悪態をつきながらも自席に戻っていった。こういうところなんだかんだ甘いよなと琥珀は思う。


「佐瀬くん、大分スッキリした顔になったんじゃない?」

「あぁー…よく寝たからな。それに大声出したからな。」


環は顔色がよくなった佐瀬をみて微笑んだ。琥珀はそういうつもりがなかったにせよ、大声を出させたのは佐瀬にとって発散になったのだろう。

いまだに揉めている2人をみて、まるで猫が喧嘩してるみたいだったし、なんだかんだお似合いだと思ってまた笑えた。



▲▽▲▽▲▽



終わりの見えない闘病生活は苦しい。今日も変わらず回診に行くが、いつもデスクに置いたままのスマホを白衣のポケットに入れてきた。


「調子はどうだ?」

「…別に、普通だよ。」


青年はやはり無表情だった。いつもは診察をして終わりだが、今日はベッドの隣の丸イスに腰を落とした。


「ちょっと聞きたいんだが、」

「なに?」

「俺は友達がいないように見えるか?」

「……え!?な、何急に。どうしたの先生。」



佐瀬が深刻そうな表情で聞いたため、青年は身構えていた。病状のことで何か言われるのかと待っていたらまさかの質問で目を見開いた。


「いや…知りあいに見抜かれてて…。」

「う、うーん…まぁ確かに、友達が多そうなイメージはないかなぁ。」

「……そうか。」


やはり年下からもそう見られるのか。佐瀬は意外と環と琥珀が言っていた事を気にしていた。友達が少ないのは事実だがなぜそれがわかる、と。あの場では墓穴を掘りたくなかったので言わなかったが。


「じゃあ、これ見たら友達増えると思うか?」


白衣のポケットからスマホを取り出し、青年に琥珀が撮った写真を見せる。


「あははは!なにこれ、先生!?ウケる!これは見せたら増えるわ!」


あまりに衝撃画像だったのか、青年は吹き出してしばらく笑った。そんなに笑えるのかとびっくりした佐瀬だが、その様子を見てつられて笑った。



「薬を変えてみようと思う。」



青年は唐突に言われたそれが自分の治療に対することだと認識した。笑いは終わり、佐瀬の真剣な顔を見る。


「今のよりも少し強い薬だ。若いし、身体が出来上がってないと考慮して使ってこなかったが、君はあの手術に耐えられた。勿論少しずつ量を増やしていくつもりだ。…効果は出るか保証は出来ないが。」


青年は静かに佐瀬の話を聞いていた。こないだの佐瀬のようにどこかスッキリした顔だった。


「うん、分かった。俺もうちょっと頑張るよ。」


佐瀬は頷いた青年の頭を撫でた。

医者が使えるものは医療知識だけじゃない。誰かの後押しが出来るなら、こんな画像でも立派な道具だ。


「先生、それ撮ったのってもしかして彼女?」

「…ありえん。」


青年の言葉に佐瀬は思いっきり顔をしかめた。

その様子をみて青年はまたケラケラと笑った。

【補足】


近代のアメリカの哲学者、チャールズ・サンダースパースが提唱きたプラグマティズムはその後同じアメリカ哲学者のウィリアム・ジェイムズ、ジョン・デューイが展開していきます。


ウィリアム・ジェイムズは知識を元に行動した結果それが役に立つものであれば真理である(例えば誰かが神を信じて幸せなら、神が存在するという考え方は真理)といい、デューイはそこから、知識自体に価値はなく、それは人間にとって役立つ道具じゃないといけない。と言ってます。


ちなみに「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ。」の一節はウィリアム・ジェイムズの言葉。

心理的感情より生理学的反応の方が先に起こるということです。


知識をもつだけでなく行動すること、知識を道具としてつかうこと、知識を役立たせること。役立つことが真理という考え方、プラグマティズム難しいです…。

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