第35話 5

 「……カントク、あずきの言葉の意味、分かるかい?」



 ミゲルは、床に落ちた台本を手に持って尋ねる。



 「分からない。俺は、エリーの才能ならそれくらい難無くこなせると思っていた。それに、ミゲルを嫌っているだなんてとても思えん」



 言って、珍しく落ち込みため息を吐く。スタジオの中をグルリと大きく一周すると、元の場所に戻って足を止めた。しかし、表情の曇りは晴れていない。それどころか、更に深く理由を探して、思考は空回りしてしまっている。



 「……その台本、貸してくれ」



 彼からノートを受け取ると、赤いペンでそのページに大きなバツ印を書いた。こんがらがった頭でも、それだけは分かったようだ。



 「カントク、どうする?」



 ウォズは、頭に巻いていた手ぬぐいを外し、立ち尽くして問いかける。



 「どうもこうもあるか。他の方法を考えるしかあるまい」



 「そうじゃなくてさ」



 何故彼女がここから立ち去ったのか、その理由を真剣に考えるべきだと。その時が来てしまったのだと、ウォズの目が訴えている。



 「……今日は解散だ。各自、代案を考えておいてくれ」



 言って、スタジオを閉める準備を始める勘九郎。一人にしてくれと言われたのが分かって、だからウォズとミゲルも外へと向かった。



 言葉もないままに、二人は階段を下りていく。宿直室へは向かわず、そのまま校舎から出ると、地面に残った足跡を頼りにエリーたちを追った。



 「大丈夫?」



 エリーは、膝を抱いて顔を埋め、下を向いていた。ミアは相変わらずキレていて、クロエも珍しくご立腹の様子。サラはその状況を整理して関係を推測して、手に持っていたメモ帳を胸のポケットにしまった。



 「大丈夫なわけないでしょ?あんな物みたいに扱う言い方、あんまりよ」



 「それに、今日のカントクは少し変だったよ。そもそもシナリオを私たちに任せるなんて、それって理想から一番遠い方法だと思うもの」



 しかし、今心配なのはエリーだ。傷心中の彼女からは、いつもの明るさが欠片も感じられない。



 「エリー、今回はやめる?」



 「やりたいよ、でも……」



 それは、誰が聞いても予想外の答えであった。てっきり答えを保留するか、何なら断るまであり得てもおかしくない筈だが、それにも関わらず彼女はやりたいと言う。



 「なにか、あったんですか?」



 聞かれ、おもむろに顔を上げる。その目からは、まだ涙が流れている。



 「私、見ちゃったんだ」



 「見たって、何を?」



 問いただされ、エリーは目を擦る。そして首を振って息を整えると、前を向いて口を開いた。



 「昨日、ミアたちと別れた後学校に行ったの。理由は特になかったんだけどね、まだカントクが仕事してるなら、ちょっかいかけに行こっかなって思って。多分、七時前くらいだったと思う」



 一瞬の沈黙、葉の落ちる音。



 「カントクはね、帰る途中だった。遠くの方からこっちに向かってくるのが見えたからさ、手を振って挨拶しようと思ったの。でも、その時映研の人たちが来て……」



 そして、思わず物陰に隠れて見ていた一部始終を、エリーは語った。



 「恐くて、一歩も動けなかった。多分、相手は5人、もっと多かったかもしれないけど、そこまで覚えてない。カントクは、笑ってた。口から血を吐いて、ボロボロなのに笑ってたの」



 当然、彼女は教師に相談する事を第一に考えた。しかし、会議の前に勘九郎に真相を問うと。



 ――あれは事故だ、気にするな。



 「どうして、あんなに優しい声で言うんだろう」



 撫でられた感触を確かめるように、髪を掴む。あの温かい声に隠された強い芯を無下にする事は出来なくて、だから彼女はひたすらに迷っている。



 それを秘密にする理由は、たった一つ。勘九郎には、分かっているのだ。不祥事が起きれば、犠牲になるのは妄想ディレクションだと。暴力とは、時に法すら捻じ曲げるのだと。



 「決着って言ってた。それに、私たちを侮辱したとも。だとしたら、カントクをあんな目に遭わせたのは……」



 その言葉を、クロエが止めた。言ってしまえば、必ず傷になるから。



 「私、本当は助けてあげたい。でも……」



 ……あの頃のエリーは、孤独と不安を感じていた。

 それから逃れる為に演技を始め、笑顔を振りまくようになりたくさんの人に囲まれても、知らない言葉で交わされる会話が、自分を嫌う会話なんじゃないかと。それを心配し、摩耗していく心が擦り切れる明日は、すぐそこにあるんじゃないかと。そんな不安で満たされ、毎日が苦しくて仕方がなかった。

 だから一層、嫌われないように、人から離れないように、泣かないように、ただひたすらに嘘を付き続けた。嘘を一つ重ねると、一つ心が冷たくなって、でも自分を温めたる為に出来る事は、やっぱり嘘をつくことだけだった。



 そんな時に、勘九郎と出会った。いつものように、誰かが一人で寂しそうだから近付いて、何気ないフリで触れてみた。しかし彼は、寂しさなどおくびにも出さない。それどころか、人に好かれようとは考えず、出来る事を探してただ努力を続けていた。

 何故そんな事が出来るのか理解できず、だから彼女は、それを知る為に再びあの扉の前に立ったのだ。



 自分のやりたい事に真っ直ぐで、ないものはないと割り切るその姿が、エリーには気高く、そして輝いて見えた。最初に抱いた感情は、憧れに近かった筈だ。

 しかし、勘九郎は嘘を何度も肯定してくれた。自分を偽る事が、悪い事でないと教えてくれた。何より、あれだけ嫌いだった自分を、必要としてくれた。



 十六年の孤独に耐え、ようやく見つけた自分の居場所。しかし、それは一人の犠牲の上に成り立っていると知って。



 遂に、言葉が溢れ出した。



 「……好き。私、カントクのことが大好き。必要だって言うなら、他のどんなことだって出来る。でも、どうしても、どうしてもこの気持ちにだけは嘘つけない。好きって気持ちだけは、他の人にあげたくない」



 膝に置く手に、頬をつたって涙が一粒だけ落ちる。



 「どうすればいいか、わからない。わからないよ……」



 呟き、スカートを掴んで下を向いた。クロエは彼女の肩に手を置き、優しくさすって慰める。それ以外に言葉を口にすることが、誰の為にもならないと悟ったからだ。



 ……幾ばくかの後、彼らは宿直室へ戻ったが、そこには勘九郎の姿は無かった。代わりに、テーブルの上には鍵の束だけが置かれているだけであった。

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