第29話 9
「カントクって、子供の頃どんな奴だったんですか?」
勘九郎は、止めも話もしなかった。
「暗くてジメジメした奴だったよ。何しててもつまらなそうだし、それに……」
言い淀んだ間には、言葉を変える素振りがあった。
「とにかく、どこにでもいる陰気な男の子って感じだったよ。でもね、ある日うちにたくさんの映画が届いたんだ。それからかな、カンちゃんの性格が今みたいに変わったのは。なんか変な喋り方になったし」
勘九郎は、子供の頃から今のような少し偉そうな話し方をするようだ。
「ある日たくさんの映画って、またアバウトな話ですね」
「少し複雑なんだ。ね、カンちゃん」
言われて、肩をすくめる。ちょうどその時、そろそろ腹が空いたのか四人がパラソルへと集まってきた。
「あ、茉莉さん」
ぼそっと呟く。
「はい。エリー、これあげるよ。そこの海の家のクーポン!さっきちょっと意地悪しちゃったから、そのお詫び!」
そう言って、ショートパンツのポケットから何枚かのチケットを手渡す。「ありがとう」を言い終わる前にエリーの胸を指で突くと、挨拶をして旅館に戻っていってしまった。
「何話してたの?」
「茉莉さんの話とか、カントクの子供の頃の話とか」
ふぅん、と勘九郎を見て呟く。珍しく、カメラも構えずにエリーを見ていたから、ばっちりと目が合ってしまった。
「……なんでそんなに見るの」
「いいや、特に理由はない」
何を否定したのかは、本人にも分かっていない。雰囲気に甘酸っぱさに、見ている側は胸やけしそうだ。
「せっかく貰ったんだ。少し遅いが昼飯にしよう」
立ち上がり、チノパンに着いた砂を払う。そして全員にタオルを渡すと、一足先に海の家へ向かったのだった。
× × ×
翌日の早朝から、妄想ディレクションの撮影は始まった。ふとした違和感から悲劇は始まり、嫉妬が憎悪に変化した狂った主人公の元彼女が、一人、また一人と彼の周りの人間を呪い殺していく。毎日の撮影は順調に進み、遂には恐怖に耐えられなくなった主人公が自殺をする事で悲劇は幕を閉じた。
……かのように思われた。しかし、この物語にはまだ続きがあったのだ。
==========
「……っ。こ、ここは、病院?」
切り裂いたはずの手首には、何の傷もついていなかった。それを不思議に思って頭を抱えたが、思考能力が追い付かず、すぐに考える事を止めた。
ここは夢か現か、彼の頭にその判断はつかない。何故なら、彼は重度のモルヒネ中毒者であり、脳みそが一日中鎮静化してしまっているからだ。ぼんやりとした意識とこの上ない多好感では、目の前にある物を正常に見る事が出来ない。
「また蟲だ。むし、ムシ蟲むしムし虫ムシ」
手に纏わりつく虫の姿。それを払いもせず、血管の上を蠢く感触を確かめる。
嘗て医学生だった彼は、モルヒネの無断使用によって大学を退学になった。しかしクスリを止める事は出来ず、今では街で売っている混ぜ物まみれの粗悪品を常用している。幻覚症状は、そのせいだ。
「薬を、早く」
ポケットの中から透明のパッケージを取る。瞬間、ぽつりと幾つかの小さな灯りがあるだけの廊下の向こうに、立ち尽くす白い服の女。その姿を見ると、彼はその場にへたり込んでしまった。
「く、来るな……っ!」
一瞬、光が消える。すると、もう一つ手前の光の下へ。もう一度、光が瞬いてまた先へ。それを繰り返して近づいてくる女の姿に、彼は震えて薬を飲む手の震えが治まらない。心臓が跳ねる度に、記憶が蘇る。そうだ、彼は
「そ、そうか。これは幻覚なんだ。虫と同じ、幻覚。そう、だからイヒ。飲めば消えイヒヒヒヒ」
光の感覚は短くなり、女はすぐそこにまで来ている。一度床に落ちてしまった錠剤を何とか拾って口に入れると、頭にあるはずの脳の感覚がフッと消え、同時にガス灯の低い音が消えた。
「……え?」
彼が驚いたのは、先ほどまで見ていた景色が消え失せていたからだ。幻覚は、思ったよりも酷いらしい。夜の病院は一瞬で廃墟と化し、背後には崩れた床と底の見えない奈落が広がっていた。
それなのに。
「どうして、お前だけが」
髪の毛に覆われた顔は、見ることが出来ない。しかし、その白い服は終わりの始まった日に見た、彼の恋人の物であった。
「どうしてなんだよ!」
もう一度クスリを飲むが、その姿が消える事は無い。不自然に曲がった首は、マンションの下で見た形をしている。螺旋階段を飛び降りて、全身の骨を折りながら死んだ筈の彼女の形。
彼は、心の底から恐怖した。もしここで殺されたとして、また同じように目覚めたらどうすればいいのか。死が終わりをくれないのなら、この恐怖からどうやって逃げればいいのかと。醒めない夢の中で、一体何度夢から覚めればいいのだろうか。それを考えると、歯を鳴らす震えを止められない。
「来るなァー!」
……付き合っていた頃、彼らは性交渉の度に大量の薬を摂取していた。しかし、彼女の体は混ぜ物だらけの粗悪品に耐えられなかった。幸せの中で何度も嘔吐を繰り返したが、幻覚と蠢く感触が消えず、禁断症状を抑える為に何度も身を切り裂いて、その度に彼を恨んだ。最後には、切り裂く場所の無くなった体に痛みを与える為に、螺旋階段に体を打ち付けながら死ぬことを選んだのだ。
しかし、それは叶わなかった。彼女の体は、全身の骨が砕けようとも脳みそが緊急信号を発せず、人の限界を超えて生命活動を維持してしまったのだ。
つまり、彼女は……。
男は、奈落に一縷の願いを託して飛び込んだ。しかし、当然目覚める事も死ぬことも、奈落に落ちる事もない。病院の床に張り付いて、感覚だけが落下を感じている。そんな彼の脚を掴むと、女は引きずってどこかへ連れ去った。
その後、彼らがどうなったのかは、誰も知らない。
==========
「カット!二人とも最高だったぞ!」
「……あたし、これ絶対見ないから」
「私も」
現在は、この町に来てから9日目の夜。天気にも恵まれた事で、予定よりも早く撮影が終わったのだ。夜の廃病院には不釣り合いな、機嫌のいい声が響く。山の上の忘れられた場所には、地元の不良ですら寄り付かない。
「ねえ、早く帰ろ?」
パソコンを弄るウォズと、クロエにタオルと水を手渡す勘九郎。ビビリの二人は、互いに手を取って部屋の隅で震えている。
「まあ、もう用事はないからな。撤収するとしよう。ミゲル、疲れただろう。お前は手伝わなくていいぞ」
「大丈夫。荷物持ちくらい出来るさ」
そう言って、小道具と化粧箱を持って歩くミゲル。そんな彼を追ってエリーとミアは立ち上がり、暗い廊下を歩いていく。
「……どうしたの?」
列の最後尾で、突然立ち止まった勘九郎。クロエは少しだけ戻って勘九郎の視線の先を覗いたが、そこにはただの病室があるだけだ。
「何かあったの?」
「あぁ。ここに、親父がいたんだ」
なんの緊張も無しに、さも世間話をするように、あっけらかんと口にしたその言葉を聞いて、全員が足を止めた。
一様に後ろを振り向くと、勘九郎は部屋の中へ入っていく。布団の剥がされたパイプベッドの残骸に腰を掛けると、天井を向いて目を閉じた。
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