第2話 桜舞う季節に君の真実を僕は知った
担任の先生に抱えられた君を一目見て、僕には原因の察しがついた。
小学校の保健室。正規の女性養護教諭は今日は出張で不在。僕は、欠員補充でこの春から勤めている。
「休ませて様子を見ましょう。僕は医師免許も持っているから安心してください」
医師免許を持っているのは本当だ。この国で取得したものではないけれど。
6つ並んだベッドの一番奥に君を寝かせ、カーテンを引いて君を人目から隠す。
「それじゃあ、星先生、宜しくお願いしますね」
担任の先生が去り、僕は、カーテンを引いたベッドのそばに戻って君の上着を脱がせた。案の定、ブラウスの背中には血が滲んでいる。意識を失うまで、どれほど我慢したのか。
血の付いたブラウスを脱がせ、肌着をめくって、赤く腫れた傷を消毒した。下手な薬は自然治癒力の妨げになるが、痛みと炎症を鎮める薬は必要だろう。
その特別な薬をガーゼに塗って、君の背中に貼る。痛みもすぐに引くはずだ。こんな時の為に作っておいた薬だから。
血の付いたブラウスを手にその場を離れ、特製の薬剤をスプレーしてからベッドのそばに戻ると、真っ白になったブラウスを君の背中に掛ける。
君は、まだ目を覚まさない。肌着をめくり、薬を塗ったガーゼをはがすと、赤みは残っているが、腫れは引いていた。もう痛みも無くなった頃だろう。
僕は、ガーゼをはがし、君の肌着を整えると、抱き起こしてブラウスを着せ、再び寝かせて肌布団を掛けた。
痛みは体力を奪う。もうしばらく寝かせておいてあげよう。
けれど、君は、すぐに目を覚ました。
「星先生?」
君は、驚きの目で僕を見た。3月まで幼稚園先生だった僕が、4月には小学校の保健室の先生になっているのだから、驚いて当然だ。
だが、君が驚いた理由は、それだけではないようだった。
「わたし、どうして保健室に居るの?」
「朝礼中に倒れたと聞いたよ。覚えていない?」
記憶が曖昧な様子の君。激しい痛みによる一時的なものなのだろうか。
「君は、今までにも、同じような事があった?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「ちょっと気になっただけだよ」
「たまにはあるけど、別に大丈夫。それより星先生、わたしの背中、見たの?」
僕は、ドキリとした。正直に話すべきか、嘘をつくべきか、誤魔化すべきか。
嘘を言っても、君の聡明な瞳は、きっと見抜いてしまうのだろう。
「幼稚園の時、君は話していたね。背中を見られたら、羽が生えてこないって」
君は僕をじっと見た。探るように。
「先生、まだ覚えているんだ」
「僕は、昔、『辺縁見聞録』という旅行記を読んで、書かれていた『飛翔人』について知りたくなった。それで、色々調べたんだよ」
「飛翔人なんて、聞いたこと無いけれど?」
僕は声を落とし、囁くように話した。
「飛翔人は、公にはされていないけれど、本当に居るんだよ。色々な飛翔人が居るけれど、最も美しいのは『
「コウシ?」
「そう、光の
「薄馬鹿な下郎? 」
君は、きっと、本当はウスバカゲロウを知っていて、わざとそんなことを言ったのだろうね。
「星先生、誤魔化そうとしてそんな話しているんでしょ」
「正直に言うと、倒れた君が心配で背中は見た。本当は、幼稚園の時も見てしまった。ごめんね。でも、誤魔化しではないんだ。君の背中に生える羽は、きっと光翅だから、他人に背中を見られても問題ない。それを伝えたくてね」
僕は、棚から写真を持ってきて、君に見せた。
「ウスバカゲロウは、トンボに似ているけれど、もっと繊細な羽なんだ。光翅はこれに似ているけれど、背中を割って生えるわけではなくて、空に虹が立つようにして背中に浮かび上がる。君に似合う美しい羽だよ」
「それ、本当?」
「誓うよ。僕はもう絶対に君に嘘は言わない」
「そんな羽なら、とても素敵」
夢見るように、君は笑った。
僕は、カーテンを開け、窓を開けた。
窓の外の満開の桜が、春の日差しの中で舞い散る。君の零れる笑顔のように。
僕は、君の笑顔を守りたい。
「痛い時には、我慢せずに、いつでもおいで。痛くなくても、いつでもおいで」
「痛くなくても、来ていいの?」
「勿論だ。悲しい時や、辛い時や、一人になりたい時や、何か話したい時や、いつでも来ていいんだよ」
実際、保健室には色々な子が来る。怪我や頭痛や腹痛が無くても、保健室の女の先生とおしゃべりをしたくて来る子もいる。
そんな雑談は僕には無理だけれど、君の話なら、いつでも耳を傾けよう。
僕の薬は良く効くから、背中の傷はすぐに塞がって、やがて傷跡も消えるだろう。
新しい傷さえできなければ。
数週間後、君は再び担任の先生に抱えられ、保健室に連れて来られた。
僕は、すぐに君をベッドに寝かせ、カーテンを引いた。
「星先生、神呂木
「彼女はおそらくギフテッドでしょう。容姿に恵まれ、知性も精神性も同年代の児童に比べて突出している。けれど、その分、心も身体も繊細です。皆で温かく見守りましょう」
「そうなんですね。星先生が保健室の先生で良かった」
担任の先生は、ホッとしたように教室へと戻っていった。
カーテンを引いたベッドのそばに僕が戻ると、君は起き上がり、大人びた目で僕を見た。
「妙ちゃん? レイラ? いや、別の子かな?」
君は、少し笑った。
「先生は、違いが分かるんだ」
少年のような声だった。
「君をいつも見ているからね。名前を教えてくれるかな?」
少し迷ったような間があって、君は答えた。
「名前は
「別の用事で来たんだね」
司はゆっくりと頷き、僕に秘密を打ち明けた。
「話してくれてありがとう。お母さんは知っていて隠そうとしているのかな」
「あの人は、子供の頃に同じ思いをした。ボクは、あの人を責めようとは思わない」
「お母さんも同じ思いを……じゃあ、お祖父さんが……」
司は頷いた。
「神楽を継承する男の子が必要だったのに、彼には息子が生まれなかった。娘に婿養子を取ったけれど、孫も女の子だった。彼は、地域の名家で人望もあったから、怒りは弱い身内に向けられた」
「司は、妙を守る為に生まれたんだね」
「ボクは、妙だけではなく、あの人も守りたかった」
「お母さんは、苦しみから逃れる為に、背中の傷から羽が生えると偽ったんだね。そして、その想いを受けて、レイラが生まれたのか」
「ボクは男だから、神楽だって舞えると思った。けれど、祖父にはボクが女の子にしか見えないから、怒りを買うだけ。神楽殿は女が立ち入るのは禁忌の場所だから」
司は、静かに語る。
「司が僕に話す気になったのは、告発したいと思ったから?」
「違う」
「それでは、何か別の理由で」
司は、視線を落としたまま、ゆっくりと口を開いた。
「ボクの存在は知られてはいけないんだ。妙やレイラにも、他の誰にも。だから、ボクは、もう消えようと思っている」
まるで、もうテレビを消そうと思う、とでも言っているような口振りだった。
「消えるって、本気で?」
「もう少ししたら、弟が生まれる。祖父はとても喜んでいる。もうボクが居なくても大丈夫なんだ。ボクは消える。痛みや恐怖の記憶も一緒に。その方が、妙やレイラも幸せになれる」
「司は妙やレイラよりも年上で、年下の二人を守りたいんだね」
「妙は3歳で止まっていて、レイラは11歳、ボクは15歳だよ」
「司の為に、僕は何をしたら良いのだろうか」
司は、少しの間、迷うように黙っていた。
「ボクは、妙やレイラに幸せでいて欲しい。だけど、ボクも、本当は辛いんだ」
司の苦しみは、僕には推し量ることしかできない。
「全てを一人で抱えて、誰にも言えなかった。けれど、もう一人では無いだろう?」
「それでも、ボクは消えたほうがいいんだよ」
「消えてしまうのは、怖くはないのか?」
「分からない」
司はぽつりと答えた。
「でも、消えてしまう前に、レイラが見たがっていた広い空を、ボクも見たかったな。遮るものの無い、どこまでも広がる蒼天……」
見に行けばいい、そう言いかけて、僕は思い出した。
君は乗り物酔いが酷くてバスに乗れなかったね。バスや電車には乗れないだろうし、小学1年生が一人でタクシーにも乗れないだろう。
司は話す言葉も大人びている。大人達をじっと観察し、恐怖や孤独に耐えてきたゆえだろうか。
力になりたい。せめて、見たいと言う広がる蒼天を見せてあげたい。
俯く司の肩に手を置こうとして、僕はそれを止めた。おそらく司は、安易に触れられるのは嫌だろう。
「僕に考えがあるよ。君やレイラが広い空を見られて、その上、発展的合法的に家族から離れ、背中を打たれる心配も無くなる一石二鳥のアイデア」
僕が話したそのアイデアを、司は大いに気に入った。
「問題は、君の家族が許すかどうかだが」
「背中の傷は殆ど消えかけているし、反対はしないと思う。内心ホッとするんじゃないかな。閉鎖的で伝統的なこの町で、ボクは特異な存在だから」
「特異であることは、悪い事ではないよ。皆が君の素晴らしさに気付いていないだけなんだ」
司は、僕を見上げた。
「星先生に会えて、話が出来て、本当に良かった。レイラは星先生を信頼している。妙とレイラを頼むね」
寂しげにも見える司の笑顔。
「司のことも、僕は守るつもりだよ。僕に出来ることは何でも言って欲しい。僕は誰にも言わないから」
司の小さな肩が、僅かに震えていた。
「……ボクが消える時……そばに居てくれるかな……」
自分という意識が消える。怖くないはずが無い。司という意識の存在を知るのは、司自身以外には僕だけ。司の意識が消えるという事は、司が存在した証がこの世界から消え去ってしまうことだ。
「約束するよ。司が本当に消えたいと思った時、必ずそばに居る。けれど、僕は、もっと司と話をしたいよ」
司は、小さく微笑んだ。きっと、泣きたい気持ちを我慢して。
そして、司と僕は、実行の為の準備に取り掛かり、それが実現する前に、司は、消えてしまった。
どこまでも広がる蒼天を見ることなく、山に囲まれた盆地の狭い空しか知らないまま、僕の腕の中で。
けれど、僕は思う。レイラの中に、司は深く沈んでいるのかもしれない。妙とレイラを、僕はずっと見守る。もし、いつか、司が目覚めることがあったら、その時は、一緒に、広い空を眺めよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます