恋するレイラは飛翔する

宵野暁未 Akimi Shouno

第1話 花も葉も無い桜の木の下で僕は君に出会った

 園児たちが遊具や砂場で賑やかに遊ぶ中、君は、フェンス脇のその木の下に佇み、木の根元をじっと見つめていた。

「何してるの?」

 声を掛けた僕を振り返った君。

 僕は息が止まりそうだった。君があまりに美しかったので。

 君の円らな瞳は、陽光の中で、右は茶色く、左は青みを帯びていた。オッドアイを見るのは初めてだった。


 国土の約7割が森林などの山地や丘陵地という日本。盆地の町から眺める空は広くはないけれど、四季折々に移ろう自然は美しい。

 そんな町で、僕は君に出会った。手伝いとして勤務することになった人手不足の幼稚園の、まだ花も葉も無い桜の木の下で。


「ここに、小鳥を埋めたの」

 君は、木の根元に視線を戻して答えた。

「小鳥を?」

 尋ねた僕に、こっくり頷く君。

「大掃除で窓がピカピカになって、小鳥は気付かなかったの。メジロはとても小さいから、ガラスにくちばしをぶつけて、頭までガンて響いて、すごく痛いの」


 まるで自分が嘴をぶつけたメジロであるかのように、君は、痛そうに顔を歪めた。

「土の中で息苦しいの。広い空を飛びたかったの」

 君なんだね。息苦しいのも、広い空を飛びたいのも。


「幼稚園先生、空はなぜ、こんなにせまいの?」

 ぽろぽろと涙を溢れさせ、手の甲で拭う君。

 まるで僕が泣かしたみたいだ。


「この町は山に囲まれているからね。山の上まで登れば、広い空を見られるよ」

「山の上……」

 君が項垂うなだれてしまった理由を、その時の僕は知らなかった。。


 カラコロと鐘が鳴った。

「皆さん、教室に戻る時間ですよ」

 園長先生の呼び声に、君は教室へと向かう。

 呼び止めて名前を聞くと、君は足を止めて振り返った。


「レイラ」


 虚ろな瞳でそれだけ答え、他の園児たちの後に続いて教室に向かう。まるで、背中に羽でもあるかのように、ふわふわと漂うように歩いて。


ほし先生、ほしわたる先生」

 園長先生が、大きな声で呼ぶのが聞こえた。

「……あ、はい」

「まだ慣れんですか? 先生と呼ばれるのは」

「すみません。自分が呼ばれている気が全然しなくて」

「さあ、星先生も中へ。年長さんは今からお掃除です。それから帰ります」

 園児達は、箒や雑巾を手に掃除を始めていた。バケツの水で雑巾を洗い、小さい手で一生懸命に絞る様子は、なかなか微笑ましい。

「みんな上手ですね」

「身の回りの清潔を習慣化する為に、年長さんは自分達でお掃除するんですよ」

 ふくよかな丸顔の園長先生は、にこにこと自慢げに語る。


「実は、僕、雑巾を絞ったことも殆ど無くて……」

「最近の若い人はそうかもしれんね。大丈夫、一緒に楽しくやればいいが」

「じゃあ、園児達に教わりながらやってみます」

「喜んで教えてくれるはずじゃが。私はちょっと年少さんの教室に行ってくるんで、年長さんを見ちょってね」


 園長先生の姿が見えなくなると、掃除に飽きたのか、数人の園児達が遊び始めた。雑巾を丸めて投げたり、箒をバット代わりにそれを打ったり、箒を刀代わりにアニメの真似を始めたり。やれやれ。


 ガシャ~ン!

 金属的な音に振り返ると、アニメごっこに夢中な男児の足元で、雑巾バケツがひっくり返っていた。すぐ横には、バケツの水を浴びてうずくまる園児。

 君だった。

 僕を見上げた君の、髪を濡らす水滴が、窓からの陽光に輝く。

 浴びたのが雑巾バケツの水だというのに、ルノワールが描きそうな美しさ。 


 だが、この季節、早く着替えなくては風邪をひくかもしれない。

 駆け寄ろうとすると、君は立ち上がった。

「大丈夫。一人で着替えられるから」

 壁際のロッカーから自分の手提げバッグを取り、教室の隅にある大きな段ボールハウスに、君は入った。


 転がった雑巾バケツと、びしょ濡れの床。園児達にやってもらおう。

「床のお水を綺麗に拭いてくれるお利口さんはいるかな?」

 はーい、はーい、と、元気な手が上がる。


 園児達が床の水を拭いている間に、僕は、段ボールハウスの中の君を気に掛けた。


「あ~、幼稚園先生のエッチ。お着替え のぞいてる!」

 目敏く女児が声を上げた。

「違う、違う。心配になっただけだよ」

「たえちゃん なら、心配いらんが」

「え? たえちゃん?」

 レイラと名乗ったと思ったが。

「たえちゃん はね、何でも自分でできるよ」

「名札をせんで、名無しさん て幼稚園先生に呼ばれたりするけんどね」

 そう言えば、君は名札を付けていなかった。他の園児達のスモッグの胸には、ピンク色の花の形をした名札があるけれど。


 君に声を掛けようとしたけれど、名前を何と呼ぶべきなのか。

 そして、僕は、見てしまった。

 段ボールハウスの中の、君の背中を。


 僕を見上げた君の、秘密を知られて怯えるような目。

「誰にも言わないで」

「何のことかな?」

「人に見られたら、もう羽は生えてこないって、お母様が」 

「何にも見てないよ」

「本当に?」

「ほんと、ほんと」

 君を安心させたくて、僕は歯をむき出して笑った。 

「変な顔」

 変な顔になるのは承知している。鏡を見ながら練習はするのだが、自然な笑顔とは程遠い。君が笑ってくれるならと思ったけれど、君は笑わなかった。


「先生、ずるい」

「先生だけ、お掃除しちょらん」

 僕は園児達を振り返った。

「ゴメン、ゴメン。先生、お掃除下手なんだ。でも、みんなのお陰で、教室はピカピカだね」

「ぼくがきれいにしたもん」

「そうか、エライな」

 僕は、その男児の頭を撫でた。

「ぼくも拭いたもん」

 バケツを蹴り倒してしまった男児も、僕に頭を向ける。

「よし、エライぞ」

「ずるいー。うちもー」

 女児も、僕に頭を向けてきた。

「エライ、エライ」

 園児達に囲まれた僕は、次々に差し出される頭を撫でた。

 背後に君の視線を感じながら。


 園長先生が戻ってきた。

「あら、すっかり仲良しじゃね」

「先生だけ掃除してないって責められて、ゴマすりみたいな……」

 園長先生は、笑いながら、机を正しい場所に戻した。

「皆さん、帰りの準備をして、お席に着きましょう」

 園児達は、それぞれの持ち物を持って席に着く。

「忘れ物は無いですね? あしたも元気で会いましょう。はい起立」

「先生、さようなら。みなさん、さようなら」

 元気に挨拶をして、園児達は通園バスに乗る。

 他の職員達と一緒に、僕も手を振って見送った。


 走り去った通園バスの向こうに、君がぽつんと立っていた。


「大変だ。乗り遅れたんですね?」

 慌てて駆け寄ろうとする僕を、園長先生が止めた。

「あの子はいいんですよ。バス酔いが酷くてね、お母さんの送り迎えだから」


 園長先生の言葉通り、通園バスと入れ違いに普通乗用車が入って来た。

 運転席のドアが開いて降りた女性は、園の玄関先にいる僕達に軽く頭を下げ、君を後部座席に乗せて帰っていった。

 和服の似合う、古風な感じの美しい母親。

 あの母親なのか、君の背中を隠そうと、偽りを教えたのは。


 僕は迷った。君の背中の事を、園長先生に確かめるべきかどうか。

「……園長先生、さっきの子って……」

 園長先生は、にこにこしている。

「ああ、神呂木 たえちゃんね。凄く可愛い子だから気になりますよね」

「いや、あの、名札をしたがらないと聞いたので、何故かなと……」

「他は何も問題の無い子だし、お家も、あの神呂木家じゃからね」


 園長先生によると、神呂木家は町内屈指の旧家で、現当主である妙ちゃんの祖父は神楽師として伝統の舞を伝え、町の発展にも貢献する人徳者であるという。

 君の秘密を、家族は皆知っているのだろうか。秘密を誤魔化す為の偽りを、君は本当に信じているのか。傷を割って羽が生えるなどという偽りを。

 それとも、偽りであると知りながら信じようとすることで、幼い心を守ろうとしているのか。


 教育者であるなら、見過ごすべきではないかもしれない。

 幸か不幸か、僕は、人手不足を補う単なる手伝い。

 だから、レイラ、僕は君の秘密を守ろう。園長先生にも、他の職員にも、背中の事は黙っておくよ。


 君には感染の疑いがある。発病は極めて稀ではあるけれど、もしかしたら、自己暗示によって、その確率は高まるかもしれない。

 それに、君は、広い空を小鳥のように飛びたいと願っている。


 もし君が飛翔したなら、きっと天使のように美しい。大人達が邪魔することの無いように、僕が大事に見守ろう。

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