第2話 君はチェスには向いていない(後編)
「男に二言はない」と世間ではよく言うけれど、伊織はやっぱり、千佳にも二言を許したりはしない。
ココアの缶で冷えた手を温めながら、千佳は、
「幼稚園の時ね、男の子が、チェスをしていたの」
教室の隅っこで、たったひとり、みんなの輪から外れたところで。
「わたしね、仲間はずれって嫌いなんだ。自分がされたらもちろんイヤだし……。でもね、、他の子が仲間はずれにされているのを見るのもイヤなの。なんかね、心がこう……、ジクジク痛くなるんだ」
自分の横顔に、伊織の視線が刺さってくすぐったい。伊織は缶コーヒーを傾けて、
「それで、その子と遊んだの?」
「うん。そう。チェス、教えてもらったの」
どこまで彼に習ったのか、千佳はよく覚えていない。ただよく覚えていない記憶の中で、それはすごく楽しい時間だったということだけは、しっかりと覚えている。
「駒の動きは、その子がぜんぶ教えてくれた。でもわたしにはちょっと難しくて……。結局、わたしが彼に付き合ったんじゃなくて、彼がわたしに付き合ってくれたの」
キングは王様、クイーンは女王さま、ナイトはお馬さん、ルークはお城の門。ビショップはえっと……。そうだな、王さまのイスの、後ろの柱!
「ポーンはお城で働く家来。わたしはお姫さまで、その男の子は王子さま。チェス盤の上は、わたしにとってお城だったの。ぜんぜん違う遊びなのに……。その男の子はイヤな顔しないで……。ううん、むしろ、笑ってそれに付き合ってくれた。わたしもね、みんなと遊んでいるより、その子と遊んでいる時が、いちばん楽しかったの」
千佳の思い出を聞いている間、伊織はずっと無言だった。完全に暮れた冬空の下、風が刃物のように冷たい。ココアで暖をとっている指先まで、感覚がなくなっている。
「はい。以上、わたしの初恋の話でした。今度は伊織くんの番だよ」
「僕の話は賭けの内容には入っていないよ」
その意地悪い笑顔はいつも通り。でもどこか、心の底では寂しそうで。
「ケチ」
「僕はケチです。性格も悪いし意地も悪いし、だからチェスはとても強い」
「その男の子はチェスも強かったけど、優しかったし、意地悪くなかったもん」
「そうですか、そうですか」
そう言いながら、伊織は残りのコーヒーを一気飲みした。千佳はその姿を、ベンチに座ったままぼんやり見上げて、
「伊織くんってさ、なんだかその子に似ている気がするの」
伊織の動きが止まった。
「でも、その子は優しかったんだろう?」
「うん、そうだよ。でもなんとなくさ、似ている気がするの。チェスが好きな子って、珍しいし」
「……」
「でも、違うよ。その子は伊織くんじゃない。……その子ね、高橋くんって名前だった。出原じゃなかった」
「その子、下の名前は?」
「下の名前? うーん、それが、忘れちゃったんだよね。わたしあの子のこと、なんて呼んでいたんだろう?」
遠い遠い、昔の話。
伊織は千佳に手を差し出した。
「帰ろう」
「うん」
帰り道を歩きながら、千佳は早くもホワイトデーのお返しに期待している。
「わたし、映画に行きたいな」
「千佳が僕に勝ったらね」
「じゃあ、伊織くんが勝ったら?」
「そうだな。じゃあ、千佳とチューしたい」
「最低っ!!」
そう叫んだ千佳の声は、住宅街に響き渡った。
伊織は家の近くまで、千佳を送っていってくれた。
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