第2話 君はチェスには向いていない(中編)

「はいチェック」

「はい、チェックメイト」

「はい、千佳の負け」


 伊織は相変わらず性格の悪いヤツで、千佳は一度も彼に勝てなくて、木原も一向に強くならなくて。


 チェス同好会は毎日活動した。晴れの日も雨の日も。テストの前以外、教室の隅っこで。授業が終わって日が暮れるまで。テスト前には一緒に勉強し、休みの日にはマオちゃんも誘って、四人でいろんなところへ遊びに行った。海、花火、買いもの、映画、夏祭り。


『湯島』ではなく『千佳』が定着して、木原もいつの間にか『テンちゃん』と呼ぶようになって。賭けには勝っていないのに、それでも千佳は伊織を『出原』とは呼ばなくなっていた。内心で彼を『ウンコ』と罵ることも、気づいたらなくなっていた。


 春が夏になって秋になって冬になって、一年過ぎて二年生になって。秋の文化祭では、千佳は伊織とともに実行委員に手を挙げた。委員会なんて、自分から引き受けたことは一度もなかったのに。上手くいかないこと、責められたこと、泣いたこと。辛かったことは、たくさんある。それでも一生懸命がんばって、人見知りも引っ込み思案も少しずつ治っていった。他のクラスの子とも、先輩たちともいっぱい話した。千佳は笑った。笑って怒って、たまには泣いた。引きこもっていたことがウソみたいに、世界は色にあふれていた。


 春には新入生を歓迎し、結局誰も入って来なくって『部』には昇格できず『同好会』のままで、梅雨の日は雨が上がるまで、教室の隅っこでチェス盤に向き合った。夏は学校の水道でホースで水を掛け合い、夕立が上がるまでまたチェス盤の上で語らった。


 秋には体育祭、冬には雪合戦。駒が動く。同好会の活動場所は、教室の隅だったり図書室だったり千佳の家だったりもした。木原の家のこたつで、みかんを剥きながら駒を動かしたこともあった。


 千佳はマオちゃんと一緒に、生まれてはじめてチョコを作った。そして生まれてはじめて、それを男の子にあげた。


 木原にももちろんあげたのだけど、それが義理だということを、彼自身、ちゃんと分かっている。いざ本命を渡しに行く千佳の背中を、木原は笑って送り出してくれた。


 伊織の家の近所の公園で、千佳は伊織にチョコをあげた。


「ウンコじゃないよ」

「まだそんなこと言っているのか」


 千佳は笑って、伊織も笑った。


「一緒に食べよう」

「え、わたしはいいよ」

「いいから」


 伊織は千佳の手を引いて、ベンチに座らせた。冬の日が暮れるのは早い。良い子の音楽が鳴った後の公園はがらんとしていて、敷地を覆う並木が深い森みたいに見える。


 伊織の長い指が、リボンをほどき、包装紙を剥がしはじめる。一時間かかった包装が、みるみるうちに開かれていく。


 彼の手によって剥がされていくチョコの箱が、心を開かれた自分の姿に重なって、


「わあ、すごい」


 伊織の横顔が、かがやいた。


「これ、千佳が作ったの?」

「……うん。マオちゃんにも、お母さんにも、手伝ってもらったけど」


 ただチョコを湯煎して、ハートの形に入れたものに、アラザンだのカラースプレーだのを散らしただけのチョコ。


「ありがとう、嬉しい」


 伊織はモテる。きっと先輩からも後輩からも、クラスメイトからも、いっぱいチョコをもらっているはずなのだ。事実、荷物の少ない彼のカバンは、いつもよりも膨らんでいる。


 意地が悪くなきゃ、性格が悪くなきゃ、チェスは強くなれないんだ、と彼は言った。


 でもこの笑顔を見ていると、ほんとうにそうなのかと疑問に思う。

 千佳は携帯用のチェス盤を取り出した。風が吹き、真冬の空気が寒さの底を打つ。


「ねえ、伊織くん。賭けをしよう」

「……ここで?」

「うん。伊織くんが勝ったら、わたしの初恋の話、してあげる」


 初恋の話。


「じゃあ、千佳が勝ったら?」

「ココアおごって」


 千佳は笑って、すぐ近くの自販機を指さした。

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