第2話 君はチェスには向いていない(前編)

「男に二言はない」と世間ではよく言うけれど、出原伊織は女にだって二言を許したりはしなかった。


 彼は一枚の書類をひらひらと揺らし、


「これでついに、我らがチェス同好会は、学校に認められたわけだ」


 と、何となく悪魔みたいな微笑みを浮かべていた。


 千佳は賭けに負けた。だから伊織の要望を受け入れ、チェス同好会のメンバーになった。


 それでも不思議なのは、賭けに勝ったはずの伊織が、なぜかノートを貸してくれたことだ。まとめノートだけではない。分からないところは親身に教えてくれたし、あの不良の真岡真奈美を引き合わせたりしてくれた。真奈美は不良だし髪も金髪にしているし、ピアスはいっぱいだしタバコも吸っているようだけど、なぜか千佳とは馬が合った。今ではもう、『マオちゃん』『テンちゃん』と呼び合う仲だ。


「湯島って、何で『テンちゃん』なの?」


 チェス同好会の部室はもっぱら教室の隅っこだ。


「湯島だから。ほら、湯島天神」


 顧問は一応、担任の内倉先生。たぶん、伊織は内倉先生と取引したのだろうと千佳は思っている。千佳の不登校を治す。その代わり、チェス同好会の顧問を引き受けて。出原伊織はそういうことを平気で言う。そして実際、彼は賭けに勝った。


 チェス盤を間に差し向かう千佳と伊織。ふたりの真ん中で長い足を投げ出しているのが、チェス同好会の三人目の部員、木原和彦だ。


「なあなあ、俺も『テンちゃん』って呼んでいい?」


 木原は伊織と仲がいいらしいが、性格は真逆だ。チェス同好会に入ったのも伊織に付き合っているだけで、彼自身は先日やっと、すべての駒の動かし方を覚えたばかりだった。


「いいよ」

「やった」

「その代わり、賭けをしよう。木原くんが勝ったら、わたしのこと、テンちゃんって呼んでいい」


 盤上の向こう、伊織に考えを悟られないように、白いポーンを前進させて、


「でもわたしが勝ったら、パフェおごって」


 伊織相手では惨敗したが、少なくとも木原相手に負けることはまずあるまい。驕りではない。妥当な判断。

 舌を出して白目を剥く木原。その顔を見て、伊織は笑って黒のビショップを斜めに動かす。


「やめておきな、和彦。湯島は、君の勝てる相手じゃない」

「ちぇっ」


 木原は口笛を吹きながら、つまらなさそうにふたりの対局を見やる。素人の木原が見ても、千佳の劣勢は目に見えている。伊織の黒い軍が白の駒を追い詰めるたびに、千佳の眉間が少しずつ険しくなっていく。


 伊織はそんな千佳の顔を、ちょっと笑って見つめていて、


「湯島、賭けをしよう」


 勝てると分かっていながらも、賭けを持ち出すイヤな男。


「僕が勝ったら、君のこと、『千佳』って呼んでいい?」

「わたしが勝ったら?」

「僕のこと、好きに呼んでいい」

「ウンコとかチンコでもいいの?」

「君はもう少しまともな人間だと思っていたのに」


 となりで木原が爆笑し、伊織の駒が盤上を踊って、


「でも君は、僕には勝てない」

「……どうせ弱いですよ」

「そうは言っていない」


 口ではそう言っているのに、伊織の黒軍はますます千佳を追い詰める。


「湯島、チェスって、どういうゲームだと思う?」

「……互いの駒を取り合うゲーム」


 そんなの誰だって分かる。子どものころから触れてきたのに、自分は何にも分かっていないのだと千佳は思う。


 でも伊織は笑わない。


「そう、互いの駒を取り合うゲーム。じゃあ勝つためには、強くなるためには、どんなことが必要だと思う?」


 膨大は譜面。相手の心を読む観察力。相手の動きを、先の先まで見通す思考。


「基本的にね、チェスっていうのは、相手にとってイヤなことをするゲームなんだ」


 イヤなこと。


「自分がもし、相手の立場だったならどうするか」

「相手の、立場」

「そう。相手がしてほしくないことをするんだ。そうやって相手の駒を取って、相手に勝つ。自分がされたらイヤなことを、相手にするゲーム。チェスっていうのはそういうゲームなんだ」


 伊織のビショップが、千佳のクイーンを襲う。


「意地が悪くなきゃ、性格が悪くなきゃ、チェスは強くなれないんだ」

「じゃあ、出原くんは強いんだね」

「そうだよ。僕は性格が悪い、だから強い。そして湯島、君は優しい。優しいから、君はチェスには向いていない」


 チェックメイト。


「だから君は、僕には勝てない。君は優しいから、他人に意地悪したり、ひどいこと言ったり……。自分がされたらイヤなことを、他人にはできない。そういう人間だから」


 伊織はよく他人を見ているな、と千佳は思う。彼のおかげで、千佳への無視はなくなった。マオちゃんのおかげで、ひとりぼっちではなくなった。木原もよくしてくれている。いじめる側だった子たちのことをまだ許せてはいないけれど、でも彼女たちに、自分と同じ目にあって欲しいとは、どうしても思えないのだ。


 伊織は自軍のキングを取り上げ、両手の指で弄びながら、


「たとえ自分が苦しくても辛くても、相手がどれだけ憎くても……。君は耐えるよね?」

「……うん」

「だから君はチェスに向いていない」

「……じゃあなんで、わたしを誘ったの?」


 性格が悪い子の方が向いているならば。ルールさえ覚えれば、誰だってできるのに。


 伊織は駒を並べ直す。ルーク、ナイト、ビショップ、キング。


「チェス部で楽しい青春を。それが僕の夢だからだよ」

「まだ同好会だけどな」


 木原が入れたチャチに、伊織はジトっと目を細める。

 千佳は、


「べつに、わたしじゃなくたって良かったんじゃないの?」


 三人そろえば同好会、部への昇格には、五人の部員が必要で、


「そんなことないよ」


 君じゃなければダメだったんだ。

 伊織が口の中で飲み込んだ言葉。千佳の耳には届かない。


「さあ、今回は僕が勝った。二回戦と行こうか」

「まだやるの?」

「もちろん。僕に勝って、ウンコって呼びたいんだろう? 千佳」


 出原伊織は性格の悪いヤツだと思う。


 千佳はその後も一度も勝てず、心の中だけで彼を『ウンコ』と罵った。

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