第1話 賭けをしよう(後編)


「賭けをしよう」


 お菓子とジュースを持ってきた母が出て行ってから三秒後、ローテーブルの対岸で、出原伊織はそう言った。


「……なに?」


 二十日間の引きこもり生活は、声だけでなく聴覚も退化させたらしい。


 母がカーテンを開けていったので、部屋の中は明るかった。曇り空、窓には雨粒が垂れてきているのに、曇り空は妙に明るい。久しぶりの空は目に痛いくらい眩しい。眩しい視界の中で、出原伊織は姿勢を崩さずに、ものすごく真剣な顔をしたまま、ジッとこちらを見ている。


 彼の手がスッと、ノートの束を差し出して、


「テスト対策のまとめノート。後は、休んでいた間のプリント。提出物も、返却された分は、もちろん、ぜんぶ見せてあげる」


 千佳はようやく満足に、出原伊織の声を聞いた。まだ完全に声変わりをしたわけではないけれど、女の子のような甲高さはもう、そこにはない。


 ボーイソプラノ、という言葉を、ぼんやりと思い出す。


「貸してくれるの?」


 何で彼がそんなことをしてくれるのか、千佳には分からない。千佳が知るかぎり、出原伊織と話したことはただの一度もなかったし、小学校だって違ったし、同じ班になったこともない。出席番号が近いわけでもない。席がとなりになったわけでもない。湯島千佳にとって出原伊織は対岸の存在だった。交わりもしなければ、羨望もしたことがない。そんなクラスメイトでしかなかった。


 そしてそれは、彼にとっても同じはずで、


「うん、貸すよ」


 そんな虫のいい話なんてあるはずない、と思う。

 千佳の手に触れる前に、彼はノートをスッと取って、


「ただし、条件がある」


 どうせそんなことだろうと思った。


「……条件って?」

「賭けをしよう」


 賭け。


 千佳の心に小さな穴が開く。シュルシュルと何かが漏れる音がする。テーブルの上に置かれたノートは、千佳にとっての希望だった。テスト対策まとめノート。そんな天から降ってきたようなものを持ってきてくれた出原伊織は、ほんの一瞬、千佳にとっての神さまになったはずだったのに。


「……賭ける? 何で勝負するの?」


 まさか、じゃんけん、なんてことはあるまい。


「これだよ」


 出原伊織はカバンを開ける。テーブルの上、お菓子もジュースも手つけずで、来客用のグラスに入ったカルピスの色は、普段用よりちょっと濃い。ちょっと濃いカルピスの中で、氷が少しずつ溶けていくのを、千佳は他人事みたいに眺めている。


 出原伊織は筆箱くらいの大きさの何かを取り出し、テーブルの上で開く。市松模様の外見。中に入っている白と黒の駒。箱は開くと盤になった。まるっきり同じとはいかなくても、千佳の机の引き出しにも、これと似たようなものが入っている。


 携帯用の、チェス盤。

 チェスゲーム。


「賭けをしよう。君が勝ったら、僕は君にノートを貸す。分からないところはぜんぶ教える」


 魅力的だった。中学の勉強は待ってはくれない。千佳の成績はまあまあ良かったけれど、二週間以上休んだ分を、そう簡単に取り返せるとは思っていない。


 出原伊織は盤上に駒を並べて、


「足りないなら、君が学校に来やすいように、配慮もする。……うちのクラスに真岡っているだろ?」


 真岡真奈美のことなら、もちろん知っている。札つきのワル。クラスの女の子たちだって、みんな彼女のことを怖がっている。実際、千佳だって彼女のことは怖い。


「真岡に、女の子たちのこと、ちょっと脅かしてもらう」

「脅かしてもらうって、そんな」

「なに、べつに暴力振るおうとか、そんなんじゃないさ。ちょっとにらみを利かせてもらう」

「……でもそんなこと」

「頼めるよ。真岡には貸しがある」


 きっと真岡真奈美もまとめノートのお世話になっているのだと千佳は思う。


「……無視とか悪口とかがなくなれば、君は学校にまた来られる。どうだい、悪い条件じゃないだろう?」


 返事も待たずに、彼は駒のセットを終える。千佳が白。彼が黒。いつもより濃いカルピスのグラスが、汗をかきはじめる。


 いい話には、かならず裏があるのだ。

 千佳は、


「じゃあわたしは、何をすればいいの?」


 都合のいい話なんて、そうそう転がっているわけはないのだ。

 出原伊織は黒のキングをつまんで、


「僕と一緒に、チェス部に入ってもらいたい」

「チェス部?」


 そんな部、なかったと思う。


「これから作るんだ。でも部員が集まらない。僕と、友だちの木原。そして君。これで三人。……厳密には『部』じゃなくて、『同好会』なんだけど」


 心が揺れる。出原伊織がチェスをやるだなんて今日まで知らなかった。彼は勉強ができそうだし、実際優秀なのだろう。だがこれはこれ、それはそれ、だ。対人相手でプレイしたことはあまりないけれど、趣味程度に嗜んでいる中学生相手なら、千佳には勝つ自信があった。


「部……。いや、同好会の設立って、名前貸すだけでいいの?」

「ダメだよ。ちゃんと活動してもらう。僕と木原と君と三人、毎日放課後、チェスを指す。三年間、みっちりと」


 それは面倒くさい。


「真岡さんは?」

「秒で断られた。だから今、こうして君に話している」

「ふーん……」


 簡単な話だ。要するに勝てばいい。千佳にとって、お目当ては彼のテスト対策まとめノートだけなのだ。勉強さえ追いついていれば、学校に行けなくとも道はいくらでもある。


「どうだい? 悪くないだろう?」


 チェス盤を挟んだ対岸で、出原伊織は意地の悪い笑みを浮かべた。そんな意地悪い笑みを見やって、千佳はほんの少し逡巡し、

 そして、


「……うん、悪くない」


 大丈夫、かならず勝つ。ノートは借りる、同好会には入らない。


 白が先制、黒が後攻、相手のキングを落とせば勝ち。

 千佳の手が、一番手、白のポーンを前進させる。


 結果、千佳は伊織に惨敗した。

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