チェスゲーム

山南こはる

第1話 賭けをしよう(前編)

 

 中学の勉強は待ってくれない、と、六年生の時の担任はそう言っていた。


 仲良しの子たちは全員、違うクラスになってしまった。彼女たち四人は示し合わせたように吹奏楽部に籍を置き、そして千佳はひとりぼっちになってしまった。千佳は音楽があまり得意ではない。リコーダーを吹くのすら苦痛なのだから、三年間、四六時中笛と向き合わなければならないなんて、まっぴらごめんだった。


 SNSをチェックする。最後に見たのは七分前。誰も更新していない。当たり前だ。今日は平日の昼間。みんな学校に行っているのだから、携帯電話なんて誰もいじってはいないのだ。


 カーテンの隙間から、曇り空がのぞいている。曇り空ですら、今の千佳にとってはまぶしい。柱の日めくりカレンダーは六月一日の火曜日になっているけれど、学校を休んでから約二十日、千佳は一度もカレンダーをめくっていない。

 SNSチェック。最後に見たのは二分前。誰も更新していない。千佳はため息をつきながら、ゲームのアプリを起動する。課金するような流行りのゲームではない。白と黒の市松模様。同じく白と黒の駒。

 チェスである。

 こんな地味なゲーム、クラスでやっている子はたぶん、ひとりもいないと千佳は思う。小学校の時、つまんないとか陰気臭いとか言われたので、千佳も知り合った子たちに敢えては言わない。だから千佳はひとりぼっち。体育のペアも英語のふたり組にもなれない。しゃべる相手もいない。


 NPCと対戦。千佳が白。先手、ビショップを動かしやすいように、斜め前のポーンを前へと動かす。


 事の発端は三週間くらい前。休み時間、教室でチェスの問題集を読んでいたら、ひそひそ悪口を言われた。聞こえていないフリをしたけれど、手は震えたし、冷や汗をかいていた。心臓の音がすごくうるさかったはずなのに、その子たちの声だけはとても大きく聞こえて、心が痛かった。自分を仲間はずれにしたLINEのグループがあることを知ったのは、それから数日後。

 その日を境に、千佳は学校に行けなくなった。


 ちょっと仲間はずれにされたくらいで。

 べつにいじめられたわけではないのに。


 親にそう言われたし、実際、その通りなのだろうと千佳は思う。担任の内倉先生も口には出して言わないが、そう思っているのだろうことはよく分かる。内倉先生は明るくて、若いし美人だ。絵に描いたような人気者の先生。学校に行けなくなった千佳の気持ちなんて、ちょっとチェスができるだけの千佳の気持ちなんて、分かるはずがないのだ。


 ぐるぐると回る嫌な考えに足を取られる。堂々巡りの悪循環に、簡単にはまり込んでしまう。目も耳も、悪い世界に閉じ込められる。耳鳴りがひどい。だから外の雨の音も、玄関のチャイムの音も、家中に響いていたはずの母の声も、何ひとつ聞こえはしなかった。


「千佳〜!」


 母の声。無視。


「クラスの出原くんが来てくれたんだけど〜っ!」


 イズハラ?

 聞き覚えはある。知っている。出原伊織。同じクラスの男の子。小学校は違うし、班だって一緒になったことはない。千佳が覚えているかぎり、彼とは一度も話したことがない。


 耳を澄ませる。扉に顔を押しつける。静かだったはずの心臓が、ドッドッドッと音を立てるのが聞こえる。階段を上がってくる音。ふたり分の足音。ひとつは母のスリッパの音。真新しい来客用のスリッパを履いた、母より身軽なふたつ目の足音。


 間。


「わざわざ来てくれたのに、ごめんなさいね」という母の猫なで声。「いいえ、ぜんぜん構いません。こちらこそ急に、申し訳ないです」という声がたぶん、出原伊織の声なのだろう。出原伊織がどんな声をしているのか、千佳は知らない。聞いたことはあるはずなのだが、どうしても思い出せない。


 声、ふたつ。足音ふたつ、部屋の前。


「千佳! 出ていらっしゃい!」


 扉を叩き割るようなノックに、千佳は顔を殴られる。ガタンガタンと揺れる扉。たぶん出ていかなければ、母は扉を叩き破るだろう。母は外面がいい。母の中ではきっと、優しい母親像と娘を出さなくてはいけない責任感がぐらぐらとせめぎ合っているはずだ。


「……」


 出原伊織が何で来たのか、千佳は知らない。

 通りがかりに寄ったのではない。小学校が違うのだから、家の方向もぜんぜん違うのに。


「ちょっと、待ってて」


 二十日ぶりに出した声は、のどにつっかえて上手く響かない。

 母の安堵のため息が、扉の向こうから聞こえてきた。


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