第3話 大っ嫌い!!(前編)

「賭けをしよう」


 その言葉を口にしてから、二年が経った。

 夢のような二年間だった、と伊織は思う。


 まるで映画みたいな、絵に描いたような模範的な青春の日々だった。自分と千佳と木原、三人で毎日遅くまで、教室に残ってチェス盤を見つめ合った。西日の色が濃くなる教室の片隅で、オレンジと黒に縁取られた風景を見るのが好きだった。開け放たれた窓に、白いカーテンが揺れていたのが懐かしい。雨、落雷。蛍光灯の白い光と、吹奏楽部のラッパの音。運動部の掛け声に合わせて駒を動かし、厳格な教師の授業のように、譜面を解いていった日々。


 永遠に続くわけじゃないことくらい、分かっていた。

 それでももう少し、あと数ヶ月くらいは、まだ続けられると信じていたのに。



 出原伊織にとって、その知らせは晴天の霹靂だった。


 一学期の終業式の日。夜のリビング。深刻な顔をしてダイニングテーブルにかける両親の顔。立ち上るお茶の香り。伊織は自分のマグカップの中に、茶柱が立っているのを見た。ペンダントライトの下、食卓の灯りに切り取られた世界。愛する両親の顔はいつになく曇っていて、伊織は言いようもない緊張を覚える。自軍のすべてを失って角地に追い詰められたキングみたいな気分になった。


「伊織――」


 口を開いたのは父。目を見開いて黙りこくった伊織を、母は痛ましそうに見つめて、唇を噛んでいる。


 広島、という地名だけが、耳の上を流れて消えていった。

 夏休み明け、という言葉が、心の上を引っかいていった。




 転校。


 伊織とて、引っ越しの経験がないわけではない。事実、彼は幼稚園のころ、一度、転園を経験している。でもあれはあれ、これはこれだ。幼稚園の転園なんて、中学三年生の夏休み明けという中途半端時期のな転校とは、ワケが違うのだ。


 父の仕事の都合。済まないと、父は言った。


 自室に帰った。後ろ手に扉を閉めて、伊織は深いため息をついた。口がカラカラに渇いている。真夏だというのに、部屋は適温になっているのに、ものすごく寒く感じる。机の下、つけっぱなしのライトの光の中で、夏休みの宿題のプリントが山になっている。明日、千佳と木原と三人で、図書館で片づけようと約束していたのに。ふたりと一緒に問題を解いても、あのプリントの山を提出する機会はもう、自分には訪れないというのに。


「……」


 イスを引いた。落ちるように座った。イスが軋む音がする。体から力が抜ける。


 耳の上をすべっていった父の言葉が、今になって心の中にぶり返してくる。父と母は家族だ。千佳と木原は友人だ。どちらを優先するべきかなんて、分かりきったことなのに。それでも心の奥で、千佳と木原と離れたくないと、もうひとりの自分が叫んでいる。


 賭けをしよう。あのひと言から、すべてをはじめた。千佳は伊織と同じ高校を志望した。彼女の学力だと、確実に安全圏とは言いかねるが、それでも千佳は一生懸命勉強している。


 伊織はプリントの山の上、携帯用のチェス盤を手に取った。スポンジの枠の中に押し込められ、並べられた駒たち。二年前を思い出す。テスト対策まとめノート。伸ばした千佳の手は真っ白で、あの駒を持った指には、元気も明るさも積極性も、何ひとつ残されてはいなかったのに。


 賭けをしよう。その言葉で、千佳を救ったのだと思っていた。

 賭けをしよう。その言葉で生まれた日々を、いちばん愛していたのは自分自身だったのに。


「……僕は」


 ふたりと離れたくない。


 木原とゲラゲラ笑っていたかった。ふたりと放課後の教室で、いつまでもチェス盤に差し向かっていたかった。千佳の率いる白軍を、淡々と着実に追い詰めていきたかった。千佳が口を尖らせる顔が好きだった。怒る千佳はかわいかった。むくれる千佳のほっぺを突くのが楽しかった。


 千佳!


 賭けをしよう。その言葉で、伊織は千佳を部屋から引きずり出した。元はと言えば、伊織がはじめたのだ。このチェス同好会を、チェス盤の上の、楽しい青春を。十五歳の自分にとって、学校は社会のすべてだった。ひとりのちっぽけな少年にとって、あのチェス盤の向こうにいる少女は、世界のすべてだった。


「……」


 チェス盤を置く。スマートフォンを手にする。冷や汗で手が冷たい。機械がなかなか、指紋を読み取ってくれない。割れたガラスシートの尖った先が、右手の親指にチクリと刺さって痛い。


 親指に血がにじんで、LINEを開いて、


「……」


 千佳に話す勇気がない。同じ高校に行きたいと、一生懸命がんばるからと、そう言ってくれた千佳の笑顔が、目からこぼれてくる何かに溶けて、ズボンにシミを作る。


 『木原和彦』の欄を選んで、電話をかける。

 数秒後、電話に出た木原を相手に、伊織は泣いた。


  ※


「明日、千佳にちゃんと言えよ」と、木原に言われた。


そんなこと、分かっている。朝、そう覚悟を決めたのに、図書館のテーブルに座って待っている彼女を見た瞬間、決意はあっさり折れて消えた。


「伊織くん、おはよ」

「……おはよう」

「どうしたの? 具合、悪いの?」

「ううん、なんでもない。……ちょっと、よく眠れなくて」


 木原は遅れると行っていた。たぶん、千佳とふたりきりになれるように、気を遣ってくれたのだと思う。


 木原の厚意は無駄になった。プリントを広げ、分からないところを訊いてくる千佳に、一生懸命、苦手な数式に取り組んでいる千佳に、何を言えばいいというのだ。ごめん、僕、転校することになった。広島。同じ学校には行けない。チェス同好会も、もう終わり。


「……大丈夫?」

「あ、うん。ごめん。大丈夫だよ。続けて」

「……そう?」


 伊織は千佳の手元をのぞき込む。消しゴムをかけまくった紙がたわんでいる。間違ったところを何度も計算しなおした努力がそこに残っている。賭けをしようと持ちかけたのは自分なのに。チェス同好会で、三年間みっちりと、一緒にチェスをやろうと、そう持ちかけたのは、自分なのに。


「伊織くん? やっぱり、調子悪いんじゃないの?」


 そこで素直に、そうなんだ、と言えればいいのに。

 でもやっぱり、千佳にはそんなこと、世界中で千佳だけには、そんなこと、言えなくて、


「ううん、大丈夫だよ」

「悩みごと?」

「なんでもないよ」

「お腹痛いの? ウン」

「君も女子なんだ。もう、その言葉はやめること。いいね?」

「はい、伊織先生」


 お互いしばらく数式に向かい合った後、木原が遅れてやってきた。


「ちゃんと言ったんだろうな?」と目線で訊いてくる木原に、伊織はついと目を逸らした。

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