蒼貌の月
安良巻祐介
干し烏賊を齧りながら午後の薄い月を眺めていると、階下でチャイムが鳴った。
今日は特に人の訪ねてくる予定も物の届く予定もない。
何だろうと思いつつ部屋を出、玄関へ降りて行ってドアを開けてみたところ、青白い顔をした地縛霊が立っている。
しばし見つめあったのち、何用かと尋ねると、開口一番、それがわからないのだと氷を握りしめたような声で呟いた。
どうやらその身分になって間もないらしく、気づけばその辺りにぼんやりしていた次第だそうである。
わからない、わからない、を繰り返しながら、とりあえず手の届く範囲にあったチャイムを鳴らしてみたのだと、地縛霊は言った。
迷惑な話もあったものだ。せっかくの休日を、出来立ての幽霊との問答に費やさねばならなくなるとは。くわえたままの干し烏賊の味が妙に渋く感ぜられてくる。
地縛霊は戸口に立ったまま、青い顔でわあわあと泣き真似だか文句だかわからない声を上げ続けている。
ともかく上がるように勧めると、案外静かに玄関へ入ってきて、後ろ手に扉を閉めた。
ここでハテ、と思ったことには、地縛霊と言えば場所に縛られて泣くと相場が決まっておる。
それがどうだ、この幽霊はどこに縛られるでもなくやけにあっさりと、敷居を跨ぎ、人の家という異境へと入室してきたではないか。
見れば、この幽霊はどうやら女、それも年端のいかぬ娘であるらしい。幽霊というやつはとかくうすらのっぺりとしていて男だか女だか年寄りだか赤ん坊だか判然としない代物だが、目元のあたりや口の小ささ、声の感じから見るに若い娘で間違いないように思われる。
そうと決まると頭の中へ、幽霊の詐欺、という言葉がふわりと浮かんできた。
この間の公序良俗啓蒙法の改正で詐欺商売というやつにも容赦なく鉈が振るわれ、これまでナアナアで許されたり見逃されたりしてきた数多の怪しげな仕掛けがこれまで通りには行かなくなり、渡世人がほうぼうで悲鳴を上げたと聞く。
とすればなりふり構わず法の抜け目を潜れるやりようを探し、新たな悪巧みが成されるのは自然の道理であって、殊にそれらの悩ましいややこしい商売で儲けて来た手合いのこと、使えるものは猫でも使えとばかりに四方八方に手を伸ばすだろうのは想像に難くない。
それこそ使えるのならばその辺の道端や電柱の陰などに特に意味もなくわらわらと溜まっていたり引っ掛かっていたりするこういう幽霊連中にも手がかかり声がかかるのは有りうることで、つまるところ我が万年休日を脅かす此度の珍客は、その方面の連中のニュー・ビジネスの試験運行第一番あたりと見て間違いあるまい。
冗談ではない。こちらとしてはなるべく波風を起こさぬよう、ひっそりと隠れて日々を暮らしてきたのである。
そんなわけのわからない新事業のテストモデルになって、有閑のよろこびをむざむざ駄目にされてなるものか。
頭に血の上った勢いで、ドカンと扉を蹴り開けるなり、上がりがまち辺りに立ち尽くし壁にかかった茄子の絵など呑気に眺めておる自称地縛霊を、エイヤッという気合いの一声と共に室外へと巴投げした。
キャッという幽霊の悲鳴を聞くか聞かぬかのうち、扉を閉め、鍵をかけ鎖をかけて、チャイムの電源を引っこ抜いて階段を駆け上がり、布団へと取って返す。この間実に僅か数秒。我ながら感心な決断力と機敏さなり。
こうしてしまえば幽霊のこと、我が耳を悩ますことあたわず、せいぜいコトコトと戸を叩くくらいであろう。
間一髪で詐欺にかかる危機を免れた安心感で、干し烏賊を玄関に忘れたまま、そろそろ掠れ始めた午後の月の残像を眺めつつ、布団の上でまた、無為の時を過ごし出したのだったが、何やら怒ったような音が外でし始めたので、どうもこれで話は終わらなそうな予感もする。……
蒼貌の月 安良巻祐介 @aramaki88
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