いつものバス

崇期

いつものバス

 かつて炭鉱で栄えたことで有名な筑豊ちくほう。のどかな田舎町だ。


 町民にとって、そのバスはめずらしいところも何もない一般路線バスだった。交差点で重そうな体を揺すっては通りすぎていくのを誰もが見かけたことがあるだろう。要領が悪そうでかわいそうだから、という理由ではなく道を譲ってやるようにと自動車学校で言われただろう。そう、みんなのバス、いつものバスだ。Googleのストリート・ヴューにも頻繁に映り込んではいるけれど、今日はあなたの目の前を走っている。




 その日は平日だったので、Nきた病院行き31番バスには五人の客が乗っているだけだった。大きな交差点を右折すると、緩やかな坂をのぼって、溜め池の縁をのんびり回りはじめる。


 前から順番に、運転手側(進行方向右側)に五十代後半の女性。天神てんじん(福岡市の繁華街)に買い物にも行けそうなくらいきれいな格好をしているが、実際はN北病院に薬をもらいに行くために乗っている。

 反運転手側(左側)の一番前には耳にイヤフォンを突っ込んだ十代の少年が座っていた。幼そうに見えて十七歳で、気ままにアルバイトをしながら通信制の高校に通っている。今日は登校日でもアルバイトの日でもないので午前中から自由にバス旅ができるわけだ。髪を明るい茶色に染め、日がな一日気だるそうな顔で過ごすどこにでもいそうな若者だったが、実はおばあちゃん子で、今日もおばあちゃんから電話をもらい家に向かっているのだった。お昼ご飯を一緒に食べる約束をしている。好きなもんを何でん(何でも)作っちゃあばい、と言われたので、じゃあ、オムライスで、と答えた。


 あとは、中ほどの席に春用のコートに身を包み新聞紙にくるまれた花を持った四十代の女性と、一つ席をけた後ろにウエストポーチ一つだけという身軽な格好をした老人。一番後ろの席にいるのが四十代の男。男は喪服を着ている。失業中でここにいる。平日にひっそりり行われようとしている恩師の葬儀に嫌々向かっているところだった。両親から参列するように言われたのだ。仕事をしていないのだから出られるではないかと。仕事をしていないから香典こうでんが痛いとわからないのか。財布から紙幣を取りだすとき、チッ、と心で舌打ちした。この金でパチンコに行った方がよかったな、という思い。




 五人はバスとともに、それぞれの場所を胸に抱いて移動していく。時刻は十時半を回り、春なのに初夏を思わせるような熱気が射し込む車内。アスファルトの上にも嫌というほど光がこぼれ、どこを向いても目が痛い。次の行き先を告げる自動音声が流れ、やんだ後、運転士がマイクで告げた。


「毎度ご乗車ー、ありがとうございます。N北病院行き31番…………ただいまより、このバスは、わたくしがハイジャックー、いたします」


 ………………………。

 …………?


 聞き慣れない単語が含まれていたことにほとんどの客が気づいた。中央の席の四十代の女性が車内を見回す仕草をすると、つられてほぼ全員が互いの表情を確認する作業に入った。


「えっ?」

 

 ピンポ〜ン!


 降車ボタンを押したのは少年だった。だって、次の「Uのうち」は降りる予定の停留所だから。


 花柄の前掛けをつけた地蔵様以外誰も立っていない屋根付きの停留所が速足で去っていく。少年は「あっ」と言って立ち上がり、スピードが緩まることのない車内で体を大きく揺らした。


「ちょっと、なんで?」


「走行中は席を立たないでください、大変危険です」運転士が言った。


「運転手さん!」少年は責める声を発した。「押しましたけど、僕」


「…………」


 一番近くにいた五十代後半の女性に向けて、助けを求めるような少年の目。女性はもちろん同情を顔に浮かべていた。まだはっきりとあらわになっていない出来事の全貌のためにやや出損ないという感じであったので、十分に伝わるほどではなかったが。


「なんだよ、これ」一番後ろの喪服の男が大声でつぶやいた。


 そのときには、「Uの内」のみならずすべての停留所が放棄されたらしいことを全員が掴んでいた。あきらかに路線をはずれている。景色がそれを証明している。客のためではないような高揚したスピードに乗っていた。


「運転士さん?」五十代の女性が声を送った。「ちょっと?」


「……先ほどもお伝えしたとおり、バスは私がハイジャックー、いたしました。この先、どの停留所にも停まりません」


「ちょっと、嘘でしょう?」顔をこわばらせる四十代女性。


 少年は携帯電話の音楽アプリを閉じて、無料通話アプリを開くと、手早く母親にメッセージを送った。母親は生花販売センターで働いている。作業中もほとんど同僚とおしゃべりばかりしているそうだし、ほぼ自由にメールも電話もできる職場だった。



 <やばいんだけど。>

 <おれの乗ってるバス、

 ハイジャックされた>

 <しかも運転手に!>


            <は?>


 <いや、マジだって>

 <Uの内でも停まってく

 れなかったし、今も勝手

 に走り続けてる>



「なんだよ」と喪服の男が仏頂面のレベルを上げて再び言った。

「これ、どこ行ってるの?」四十代の女性も気が気ではなかった。友人を待たせているのに。


 バスは川沿いの黄色い菜の花が並ぶ道をひた走っていた。尋常ではないスピードで。誰かが気がついてくれればいいのだが、先ほどからすれ違う車の存在すらなくなっていた。遠くにボタ山の名残である、どこか人工的な稜線の小山が見えるだけだ。


「運転士さん、これ大問題ですよ。どうするつもり?」五十代女性がたまらず大声をあげた。


「どうするか今から考えます〜」


「ふざけないでよ!」四十代女性も怒った。


「ふざけておりません。真剣です」


「なんだよ、これ!」喪服の男が怒鳴る。




 <運転手さん、マジだって>

 <おれたち誘拐されるん?>

 <殺されんよね?>


         <あんた、本気で言い

          よる?>



 <本気だって、さっきから

 言ってるじゃん>

 <警察に電話して>

            

         <あんた、でも、携帯

          持っとるんやろ?>



 <そうだけど、連絡してる

 のばれたらやばいかもじゃん>

             

   

          <今私に連絡しよるやん>

          <ふざけとらんよね?>



 <母さんやめて、マジだって>

 <ばあちゃんにも連絡して>




「ねえ、やめてください、お願いします」四十代女性が懇願した。


「話しかけないでください。運転に集中できません」運転士はもうマイクを使わずに話していた。


「警察に連絡しますよ?」


「車内では携帯電話はご使用にならないでくださ〜」


「あなたの会社に連絡します! ◯◯バスに」


「どうかお客様、バスの中ではお静かに願います」



 五人は顔を見合わせた。それ以外なにをしたらよいのかわからなかった。


「△△ダムに行っとるんやないか?」と押し黙っていた老人がはじめて口を利いた。


 バスはたしかに、そのダムを目指しているように思えた。


「やばい。車ごとダムに飛び込む気かも」少年が蒼ざめた。


 四十代の女性が席を立って、運転士の真後ろに向かった。「運転士さん、車を停めてください。お願いです」


「席を立たないでください!」運転士は声を荒げた。「危険です」


「なにが目的なの?」


「今から考えますって言ってるでしょ」


「自殺する気やない?」と五十代の女性。「私たちも道連れ? だめよ、そんなん。あんたまだ若いやろ。早まったらいかんよ」


 四十代女性はどうしようもなくなって、元の席に戻ると、友人に渡すつもりだった花を包んだ新聞紙に、持っていたペンを取りだし自分の名前と携帯電話番号、バスの会社名、番号を書いた。「ハイジャックです。助けて」と殴り書きすると、窓を開け、花を放り投げた。



 全員固まって、誰一人電話しようとする者もいなかった。バスはいよいよ細長い橋梁きょうりょうを渡り、△△ダム展望台公園に到着した。誰もがもう営業していないと知っているレストランの看板が見え、社名の入ったステーション・ワゴンが一台停まっているだけの駐車場にバスも大きく体を揺らして乗り入れる。


 いとわしい揺れが完全に止まってしまうと、皆放心したように息を吐いた。とりあえず、まだ、どこにも飛び込んではいない。


 乗客が体を浮かせるのと同時に運転士は降車ドアを開け、外へ飛びだしていった。まるで忍者のようなすばやさだった。「逃げた!」と声を出した者もいたし、全員心の声としては同じだった。


「あの人、追いかけて!」五十代の女性が言った。


 少年は、女性が自分の方を見ていたので驚いて言った。「なんで僕が」


「ほっといたら、自殺するかもよ!」


「警察に連絡すればいいじゃないですか」


「間に合わないわ」四十代の女性が動いて外へ出た。


 五十代の女性も後へ続く。二人は走って運転士を追いかけはじめた。車内は男だけ取り残される形になった。


「なんだよ」喪服の男は、生命の危機はとりあえず脱したらしいことにほっとして、それでもムカムカを募らせながら言った。


「警察に電話して、この状況、信じてもらえるでしょうか……」少年が自分よりはだいぶ大人な二人を頼ってつぶやいた。




 運転士は、展望スペースの木製の手すりに肘を載せ、遠い景色を眺めていた。しかし、二人の乗客が追ってきていることを知ると、敏捷びんしょうにその場から離れた。


「来るな!」


「お願い、戻りましょう。バスに戻って」荒い息を吐きながら、コートを着た四十代女性が訴える。「私たちをバスで連れ帰ってください」


「そうよ、その方がいい」五十代女性も言った。「帰ってくれたら、私たちちゃんと料金も払うし、警察にも言わんから」


「バカですね!」運転士は言い放った。「路線からはずれてどの停留所にも着いていないんですから、もう会社にばれてますよ」 


 運転士はまた駆けだした。


「待ちなさいよ!」


「死んだら、だめ! やっぱり死ぬ気なんやろ?」二人は追いかける。


「来るなー! ほっといてくれ」


「待ちなさーい。待たんかー」


「自殺とかしたらいけんとよ!」



 再び車内。少年は、運転席に近づいて、中を覗いていた。


「これが運転席か。ふーん……、おもしろそうだな」


「運転してみたら?」と突然、にこやかに老人が言った。


「まさか」少年は振り返って言った。「できるわけないじゃないですか」


「動かすくらいどうってことないやろ」老人は変わらず軽やかだった。「できんと思わずに、なんでも挑戦する方がいいと、私は思う」


「ダムに突っ込んじゃいますよ」少年は言いながらも、笑った。「きっともうすぐ警察が来ます。捕まりたくないし」


「じゃあ、警察に捕まらんかったら、やるか?」という質問が投げられた。


「うーん……。できるなら、やってみたいような……」



 

 運転士はダムの周りをひたすら走っている。追っかけの女性を二人も連れて。

 この後の運転士と乗客の話をしよう。

 


         ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─



 あなたは、ハイジャック犯が運転士ではなく乗客のうちの一人で、ナイフが取りだされ、車内が恐怖に包まれて、警察が交渉をはじめ、どう転んでも痛々しい終焉を迎える、そんな物語であったら納得しただろうか。


 犯人にはいくらかの同情の余地があるというような背後世界があり、乗客一人ひとりに幾重にも家族や友人たちの姿が見え、バスがいつものバスでなくなり、やがてドラマで再現しなければ個々の思いがどうにも収まりきれないような、そんな物語であった方が、意味や価値が、あったと思うだろうか。


 残念ながら、これはそういうふうにはならない。なぜなら運転士は私(作者)であり、乗客はあなた(読者)だから。


 あなたがいつものバス(不条理小説)だと思いふらりと乗り込んで、ここまで降車しなかったのは、私があなたの身柄(時間)をハイジャックしてしまったから、したくてもできなかっただけなのかもしれない。


 あなたは東京にいて、あるいは北海道や大阪にいて、筑豊など行ったことも見たこともないけれど、好きなバスに自由に乗れ、気ままに旅ができるのならば、土地の名前はどうでもいいと思うかもしれない。でも、さすがに、「今日のバスには乗らなきゃよかった」と後悔することもあるのかも。「今度のバスは快適だったな」と爽快な気分になった過去があったなら、どういうバスだったかぜひとも教えてほしい。私も乗りたいから。

 

 私は、あなたをどこにも連れていかない──そんな約束しかできなかった。私の都合であなたを遠くまで運ぶだけ運んで、そのまま置き去りにすることもよくある。いいかげん無責任なことはやめるべきと思っていた。だけれども、何の目的もなければ走りだしてはだめなのか。とにかく春の野を、荒野を、空白の土地を、なんとなく走りだしたくなって、ただむやみにガソリンを消費することは、罪なの?


 ボタ山も△△ダム展望台公園も興味が持てなかったとしたら、それは謝るしかない。


 あの少年も、さっそくこういう日記(レビュー)を書いている。



 ☠☠☠ Very Bad!!!

 不愉快極まりない!──── 少年

 最悪。おれの時間を返せ。こんな不愉快極まりないバス旅ははじめてだ。

 もう絶対バスには乗らない。二度とおれの目の前を走らないでほしい。


 👍25 ・2021年4月20日 11:23



  登場人物紹介


 ・運転士 四十代働き盛り。二十年のベテランだが、うち六、七年はペーパードライバーだった時期があり、自分の路線に自信がなく、頻繁に迷走する。


 ・五十代女性 サスペンスが好きで、普段は推理小説しか読まない。森村誠一が好きだが、最近は宮部みゆきにはまりかけている。


 ・四十代コートの女性 マンガも海外小説もなんでも広く読む。不条理小説と言えばカフカが思い浮かぶ。カミュの『異邦人』は読んだ。


 ・喪服の男 新聞とビジネス書くらいしか読まない。不条理小説などおれの人生には不要、それが持論。


 ・少年 ライトノベルが好き。自分でも小説を書いてみたいとひそかに思ってはいるのだが、いまだ書いたことはない。今はボーカロイドの曲を聴くだけで満足している。


 ・老人 文章の読み書きに覚えがあり。若い頃から俳句を嗜み、ラジオにリクエスト投稿したり、新聞の読者投稿も積極的で、二度ほど採用されたことがある。若者には小説でもなんでも、自分の可能性を狭めることなく、どんどんチャレンジしてほしいと願っている。絵に描いたように善良な人生の先輩である。



         

              ── 完 ──




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