第2話

エレはヤハルの森を駆け、聖獣の繭の元へと急いだ。


巨大なハオの葉を皿代わりに数種類の果実を供え、水を毎日新しいものに換える。


捧げる祈りには全身全霊をかけた。


示された天啓に迷いも疑いもなく邁進し、その先には救いの道があるという確信。エレはこの上なく幸せな境地だった。


エレの信じるヤハルの在り方は正しく、その証として神はヤハルの民の受難に救いをもたらそうとされている。


エレは感涙に滲む視界に聖獣の繭を納め、心からの感謝を捧げた。


そして、望んだ瞬間は思った以上に早く、前触れらしいものもなく訪れた。


突然、岩そのものだった硬質な見た目の繭は色褪せた皮膜のように強度をなくし、ぐにゃりと内包されたものに貼り付いた。


白っぽくなった薄い膜は数回蠢いた後、破裂して中身を地面に投げ出す。


エレの目の前で、あっけないほどに容易く聖獣の繭は孵化した。


しかし、そこに輝かしい聖獣の姿があると信じて疑っていなかったエレは、期待に輝く眼差しを瞬時に凍りつかせることとなった。


「…ぐぅ、るる……」


弱々しい唸り声と、ぜいぜいと繰り返される苦しげな呼吸。


赤黒い皮膚をした巨体には所々鱗に成る予定だったような異物があるが、鋭いそれは躰を守るどころか皮膚を刺し傷つけてしまっている。


もしかして時間を置けば回復するのではないかという淡い期待は待てば待つほど絶望的になり、ますますどす黒くなった聖獣の躰は所々から血を滲ませ始めた。


突然、獣は聞く者を不安にさせる悲鳴のような咆哮をあげ、狂ったようにもがき出した。


エレがまず思ったのは、聖獣のこんな姿を村の皆には見せられないということだった。


それからは必死で聖獣になるはずだった獣を撫でさすり、声を掛け、落ち着かせようと試みる。


そうする間にも状態は悪くなる一方で、白い煙と腐臭、溶けて崩れる傷口付近の肉、聖獣は見る間に死へと向かっていた。


「…森の奥へ行きましょう!」


エレは咄嗟に言い、崩れ落ちそうな大きな躰を小さな体で支えた。


疲れ果てたように大人しくなった聖獣は促されるままにのろのろと歩き出す。


ふと見れば、恐ろしい唸り声を確かめに来たのだろう、幾人もの人々が遠巻きに木々の合間にいるのが見えた。


そこにはヤハルの者どころか余所者の姿もあり、彼らは呆然と立ち竦んでいたり、口元を押さえて顔をしかめていたりする。


エレは悔しさに奥歯を噛みしめ、痛ましい聖獣を人々の目から隠すように草木の茂る道へと促した。


ヤハルの森の一角には薬草が自生し清らかな水の湧く清浄な場所がある。


エレはそこで一旦、聖獣の治療を試みることにした。


心地よい水音が響き緑が絨毯のように広がる聖域のような場所に辿り着くと、ぼろぼろの聖獣は倒れるようにして座り込んだ。


エレは手の施しようがないほど重症の獣の肌に少しずつ冷水を滲ませ何度か清めると、止血効果のある丸い葉の小さな薬草を食ませ、躰にも何枚も根気よく貼り付けた。


ハオの葉を包帯代わりに纏わせ地に落ちた木々の枝を添え木にして何とか治療を終えると、聖獣の姿はまるで緑の化物のようだった。


疲れ果てたような気分で聖獣を眺めていると、ふと、エレの優れた耳が不穏なざわめきを捉えた。


木々の奥、村の方角から、何人もの男たちの声がする。


所々聞き取れる声で「血をたどれ」「あっちだ」と呼応しながら、だんだんと近づいてくるようだった。


エレはまず自分の体にべったりとついた聖獣の血を眺め、次に自分たちが来た道を視線でたどった。


黒い土の上や地面に密集する雑草の上、低木の枝葉に、赤黒い血の跡があり、遠目に見ると道標になってしまっていることがよく分かる。


エレは焦り、狼狽えた。


「…もう行きましょう!」


聖獣を押し出すようにして先へ進む。とにかく、どこか身を隠せる場所を目指したかった。


治療を終えたことで聖獣から新しい血はまだ滴っていない。少しは時間が稼げるだろう。


確かな行き先が定まらぬままに草木を掻き分けて進み、やがて見えてきた景色を目にしたとき、エレは困惑した。


慣れ親しんだ森を進みエレが無意識に向かっていたのは『死の国へのうろ』。かつてヤハルの民が死を悟ったときに向かうとされていた洞窟だ。


今はもう、死期が近付けば洞窟を訪うというのは誰もやらないので、ここは廃れた風習のための遺跡のようなもの。


岩肌に空いた真っ黒な入口にぶら下がる数本の蔦は、エレ達の行く手を遮っているようにも、招いているようにも見えた。


心情的には抵抗があるが、隠れ場所としては悪くないように思えた。


迷った末に、エレは洞窟に踏み入る。


真っ暗な洞窟内に入った途端、濃い闇が容易くエレ達の輪郭を呑み込んだ。


隠れるためと思えばありがたいのだろうが、エレは恐怖に身を竦める。


エレは怯えた目で洞窟の入口に溢れる眩い日の光を確かめた。


そして、不安を拭うために腕を回した聖獣の大きな躰の、ハオの葉越しに伝わる温かさや、呼吸に合わせて上下する動きを確認し、エレはようやく微かな安堵の息を吐いた。


しかしすぐに、何度か頭を横に振って気を引き締める。


まだ何も解決していない。


ずっと隠れているわけにはいかないのだから、これからどうするかを考えなければならない。


聖獣のこの姿では、ヤハルに神の栄光をもたらすことなど出来ないだろうし、ヤハルを去る人々を引き留めるのも不可能だろう。


それは悲しいが、仕方がない。


それでもエレは、ヤハルの民の在り方として聖獣に精一杯尽くすべきと考える。


エレの脳裏にヤハルに残った人々の様々な表情が浮かんでは、消える。


ヤハルの村の老人たちは、聖獣の姿を最初は驚き嘆くだろうが、きっとエレの考えに賛同してくれる。


まだ少し、決意は揺れるが…。きっと、村へ戻るのが最善だろう。


静かに結論付け、エレは聖獣を優しく撫でた。


そして、聖獣を再び外へと連れ出そうとした時だった。


聖獣はエレの腕の中から抜け出し、思いもよらない行動に出た。


先程まで大人しくエレの導くままだった聖獣が、突然身を翻し洞窟の奥へと駆け出したのだ。


「…っ!だめ!待って!」


エレは慌てた。


ここは『死の国へのうろ』。先へ進めばもう戻って来れないかもしれない。


エレは急いで追いかけた。


しかし、洞窟内は真っ暗闇。目で追うことは出来ず、仕方なく壁伝いに聖獣のたどたどしい足音を追う。


やがて聖獣の足音は途絶えたが、音からしてそう遠くはないと判断し、エレは壁から手を離して暗闇を探った。


エレの指先がハオの葉をかすめ、聖獣の位置を捉えた。


聖獣は地に寝そべり、先程よりも穏やかな呼吸を繰り返している。


エレが手探りで聖獣に寄り添ったとほぼ当時に、ぽっと音を立てて辺りに数個の青白い火の玉が点った。


辺りはぼんやりと青白く照らされ、まさに死者の領域といった様相。


「ひっ…!」


エレは短く悲鳴を上げ、ぎゅっと目を瞑って聖獣を抱きしめた。


しかし、ここで諦めるわけにはいかない。


「まだ、連れて行かないでください!」


青白い火の玉に向かい、エレは闇雲に懇願する。


火の玉は不確かな動きでゆらゆらと揺れ、エレの様子を窺っているようだった。


「お願いします!まだ生まれたばかりなんです!叶うならもう少しだけ、一緒にいさせてください!」


答えは返らず、ただエレの声だけが洞窟内で反響する。


エレは火の玉の様子を見ようと、瞑っていた目を恐る恐る開いた。


すると目の前の地面に、火の玉と同じように青白く淡い光を放つ大きな獣の前足があるのが見えた。


突然の見知らぬ存在に戸惑いながらも視線を上げていくと、獣は大きな猫の様な姿で、頭部から頬にかけて、それから肩、背中、脛の辺りに、美しく均整の取れた鱗を鎧のように纏っていた。


エレは気付いた。


もしも腕の中の聖獣がしっかり姿を保てていたなら、目の前の獣と同じような姿をしていたのだろうと。


目の前の、青白い獣がふと目を細めた。


「その同胞はまだ肉体を失っていないが、我らはもう失っている。」


その声は淡々として感情をあまり感じさせない。


その神聖さに恐縮しながら、エレは話に耳を傾けた。


「―――我らは天の意思の具現。すなわち天の意思そのものである。」


にわかに、周囲に見知らぬ土地の景色が広がった。


洞窟にいることを忘れそうになるくらいの、広大な大地。


燃えるような赤い空に立ち込める黒雲、閃光を放ち迸る雷電。


地面のほとんどはひび割れた荒野で、所々に黒っぽい木が生えている。


地面は揺れ、遠くに見える荒々しい岩肌の山からは赤く燃える溶岩が吹き出し、灰や礫が空から雨のように降っていた。


しかしどこか幻想的で、その見知らぬ土地に実際に立っているのではなく、映し出された光景を見ているのだという実感がある。


しばらくすると場面が切り替わり、身を寄せ合う沢山の人の姿が現れる。


彼らは代表らしき初老の男性を先頭に集まり、天に向けて両手を向けて跪き、祈りを捧げているようだった。


いつの間にか隣に立っていた青白い獣が淡々と言う。


「この頃、天の意思はまだ曖昧だった。あの者らは天に向けてヤハルと呼びかけ、祈った。」


「そして天の意思の力は凝縮し、彼らの神ヤハルとなった。」


獣は祈りを捧げる人々をじっと見ている。


エレは獣の話を静かに聞きながら、内心で驚いていた。


見せられている光景がかつてのヤハルの姿だということも、もちろんだが…


ヤハルとは、神の名だったのかと。


いつの間にか神の名は真の意味を忘れ去られ、土地や人々を表す言葉になっていた。そして神はただ神と呼ばれていたのだ。


「ヤハルは彼らの願いを聞き届け、地上を安全に平定するために自らの力を送り続けた。」


「そして、我ら聖獣が生まれた。」


直後、天から雷光とは違う白い光の矢が幾筋も降り注いだ。


祈りを捧げていた数人がそれに気付き、光の矢が落ちた地に駆けつける。


「我らは元々天に在ったもの。彼らの願いに沿うためには一度地に根差し、生まれ直さねばならなかった。そうして、手を差し伸べた者に、我らは力を与えた。」


いたる所で、駆けつけた人々が手を触れた途端に繭は破れ、多くの聖獣が生まれた。


聖獣はすぐさま、人々が指し示す場所へと飛び立つ。


次々に、人を乗せたまま聖獣は跳躍し、火を吹く山や、雷を生む黒雲、揺れる地中にまでも立ち向かっていく。


飛び立った聖獣と人とは、その後生きて戻ることはなく、空からはばらばらとむくろが落ちる。


多くの聖獣と人とがいとも簡単に命を落とし、それが延々と繰り返される。


あまりの光景に、エレは両手で口元を覆い身体を震わせた。


「ヤハルは力が尽きるまで我らを地上に送り、我らはそれに応えた。」


「やがて、大地は静かになった。」


周囲の景色は急速に穏やかになり、空は青く晴れ渡り白い雲が細くたなびく。すっかり低くなった山や大地には瑞々しい緑が広がっていった。


映し出される景色が現在の森と同じようになった頃、辺りは急に暗転し元の青白い炎に照らされた洞窟内に戻る。


「地上のことなど地上に住む者たちの領分、我らには本来関係のないことだ。しかし、ヤハルにはここでしか得られないものがあった。」


「我らは聖も邪も正も誤もなくただ求めによって生じ、容易く消え、それでも束の間の歓びを得た。」


青白く光る聖獣が懐かしむように目を細めた。


すると聖獣の神々しく近寄り難い雰囲気が和らぎ、次に続く言葉も親しみやすい口調になっていた。


「我の繭は、凛々しい目をした青年に破られた。生まれ出た瞬間の、あの無常の歓びを、我が忘れることは決してない。」


柔らかい雰囲気のまま、青白い聖獣はハオの葉を巻き付けて寝そべる聖獣に目を向ける。


「その同胞は、かつて見つけられずに眠りについた者。ただ永い時は絶望であっただろう。」


その言葉には深い思いやりと同情の念があった。


青白く光る聖獣が寝そべる聖獣に近付き、頬を擦り寄せる。


「我らは個であり、同一の存在。―――この先の歓びは共に分かち合うことだろう。」


言い終わるがいなや、周囲におびただしい数の青白い火の玉が現れ、目を開けていられないほど眩い白い光が満ちる。


「その娘が言うように、お前はもう暫し生きよ。」


笑むような気配の後、聖獣の姿をとっていたものも火の玉へと崩れ、火の玉たちは皆一斉に寝そべる聖獣へと突進していった。


火花が散るように目で追えない速度の火の玉を次々に浴び、寝そべる聖獣の躰は次第に膨張するように青白く光る。


やがて、火の玉が全て吸い込まれると光は収束していった。


それは一瞬の出来事のようにも、長い時間の出来事のようにも思えた。


確かなのは、気付いた時にはエレとエレの聖獣しかいなくなっていたということ。


周囲に残ったのは暗闇と静寂だけであったが、エレはもう不安も恐怖も抱かなくなっていた。




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