なりそこないの聖獣と邪妖の乙女

虫谷火見

第1話

「ぐぅおぉろろろろろ…」


神威が宿ると言われる聖なるヤハルの森の中、なりそこないの聖獣の咆哮がおぞましくも哀しく響いた。


鋼のように強靭で均整の取れた美しい体躯となるはずだったソレは、シュウシュウと白い煙と腐臭を放ち、為す術なく崩れた箇所からは赤く汚れた骨が突き出していた。


「ぐるぅる、ぐろろぁ…」


苦しげに唸る腐りかけの獣に、ひとりの少女が寄り添う。


「落ち着いて、お願い。落ち着いて…!」


少女、エレは必死だった。獣の姿を目の当たりにするまでは確かに希望だったのだが、こうなってしまえばもう希望と思うことはできない。


そして、どうしてこうなったのだろうと振り返ってみても、結局はこうなるしかなかったのだろうと諦観するしかない。


それならせめて、最善を尽くして聖獣を救うことが自分の使命なのではないかと思い始めていた。



 ※※※※※※※※


いにしえに神意を宿したと云われるヤハルの森と、森と共に暮らしてきたヤハルの民と呼ばれる人々は、ちょうど時代の移行期に差し掛かっていた。


それは外部からの新しい流れと、ヤハルの民たちの意識の変遷によるものだ。


平地で町を築いて暮らしていた遠い外域の人々がヤハルの民と関わりを持つことはこれまでほとんど無かったが、彼らは生活が豊かになったことで人口を増やし、ついにヤハルの森の近隣にも町を興し、森の人々と接触を試みた。


幸いにも土地を巡って争うことはなく、むしろ自分たちの文化や技術を広めたいという顕示欲のようなものから協力的で、共に土地を拓いていきたいという考えに落ち着いた。


しかしヤハルの人々は大いに揺れ、意見を分かち、新しい風はヤハルの従来の在り方を変えていくことになった。


ヤハルの森を神聖視する老人たちは、不便でも深い森での暮らしを大切にしたいと、新しい暮らしを求める者はほとんどいなかった。


しかし若い世代はそうではない。


外域の人々の進んだ技術力や栄えた街の様子を見聞きして目を輝かせ、これから先の長い生活に豊かな新しい暮らしを得て未来にも与えていきたいと、村を後にする者が続出した。


ヤハルの村は一気に寂しくなっていった。


それはヤハルを選んだエレにとって、思ったよりも身近に影響を及ぼすものだった。


「…ばいばい、エレ。」


この村でずっと一緒に育ち、共に遊んだ大切な親友が手を振り、寂しそうに言った。


「…ばいばい、アライラ。」


エレは手を振り返した。


夕陽の沈むヤハルの村で、「また明日」の無い別れは言い表せないくらい寂しかった。


友人は次の日の早朝、両親に手を引かれ村の外へと旅立った。


悲しんではいけない。むしろ門出を祝うべきである。友人は豊かな未来を手に入れるために村を出たのだから。


しかし、理性的に納得することと感情的に受け入れられるかは別ものである。


次の日から、エレは暗い気持ちでひとり森に入った。


野を駆け巡り、岩に駆け登っては飛び移り、澄んだ水を湛えた泉に顔をける。


風を切って森を行けば、余計なことを考えずにいられる気がした。


しかし、エレは見つけてしまった。


まるで岩と同化して忘れ去られた姿をさらす、聖獣の繭。


エレは急いで家に帰った。


幼い頃に両親を亡くしたエレの家に今居るのは、優しく物知りな祖母だけだ。


「ねえ、おばあちゃん、聖獣さまの繭を見つけたよ。」


勢い込んで伝えれば、祖母は動きを止めて驚いていた。


しかしすぐに平常を取り戻し、柔らかく微笑む。


「では、お前がお世話をしなければね。」


「うん」


エレはにっかりと笑った。


すぐにまた、森に戻る。


向かうのはカカルの実がなる木。


聖獣の繭は、ヤハルの森が神聖視される由縁であり、ヤハルの民の存在意義にも関わるもの。だが、今ではその役目を終えたために聖獣はもう森に現れないだろうといわれていた。


というのも、かつて未熟な大地を安定させるために天の神ヤハルが地上に遣わしたのが聖獣であり、今はもう、大地は聖獣がいなくても問題ないとされているからだ。


かつて、聖獣たちは森に数多く存在し、神の領域から繭を経てこの地に顕現した。


そして聖獣の孵化までは、見つけたヤハルの民がお世話をすることになっていた。


お世話と言っても、それほど困難なものではない。


聖獣が繭から孵るまでの間、この森の果実を供え、水を供え、祈りを捧げる。


そうすることで聖獣にこの地の様子が伝わり、滞りなく使命を果たせるのだという。


エレはカカルの実の群生地に至り、腕まくりをした。


カカルは蔓性の植物で、丸い拳大の実がたくさん成る。


果実は甘く瑞々しいがさっぱりとして、中には大きな種が一つある。


蔓性の植物のため単体で生息していることはほとんどなく、カカルは大樹に巻き付いた姿であることが多い。


目の前のカカルの蔓は、大きなハオの老木に複雑に絡んで一体化していた。


ハオは広葉樹で、緩やかな波型の縁の巨大な葉を生い茂らせ、枝葉を広く横に広げていた。


今はちょうど花の時期、枝葉の先から上部に向けて、厚みのある六枚の花弁の白い花が咲いていた。


蔓を伝ってすいすいとハオの太い枝を渡り、エレはたくさんのカカルを服の裾で抱えるようにして集めていく。


十分にカカルを集め終えると、木を加工した水筒に泉の水を汲み、エレは聖獣の繭の元へと走った。


木の根や土が盛り上がり一段高くなったような場所に、シダ植物や蔦に紛れ、一見して土に埋もれかかった岩にしか見えないものがある。


それこそが聖獣の繭だった。


見つけたのは本当にたまたまだった。


アライラが家族と共に村を去ってから、エレは気持ちを落ち着かせるために連日森を走り回っていた。


いつもそばに居たアライラがいないのは空虚で、普段楽しいと思えたことが全く楽しくない。


アライラが居たときは、森で駆けるのも、村の中で石を転がすことさえいつまでも飽きずにいられたのに。


ふと、疲れを感じて足を止めてしまえば、色々な考えが浮かんではエレに押し寄せた。


なぜ今までと同じではいられなかったのか、とか、簡単に崩れ去るヤハルの民の在り方だとか。


新しい暮らしを持ち込んだ外域の人々への恨みや、嫉妬。


新しい生活を求めて旅立った仲間たちへの、羨望や、軽蔑。


エレの心の中で渦巻く言葉にするつもりのないどうしようもない思考は、他でもないエレ自身の心を傷つけていった。


エレは静かに涙を零し、とぼとぼと歩いた。


それでもやがて、俯いていた顔を上げる。


人々が去り、ヤハルの誇りが忘れ去られていくのだとしても、かつて天の神が慈悲を託したヤハルは素晴らしい場所だ。


美しく深いヤハルの森の空気を大きく吸い込み、エレは気持ちを落ち着けた。


少し先の景色に目を向ければ、光を遮る木々の合間を縫って射し込む陽光が末広がりの帯状になって降り注いでいる。


苔むした森の景色に埋もれた大きな岩が、その光に神々しく照らされたのを見たとき、エレはその岩肌がとても温かそうに見えた。


そのまま吸い寄せられるように岩肌に手を置き、頬を寄せたところで、エレは驚きに目を見開いた。


何気なく当てた耳の下で、なんの変哲もないと思っていた岩がドクンと脈動を響かせた。


エレの脳裏に言い伝えの一節が思い浮かぶ。


―――ヤハルの森には神意が宿る。宿った神の意思はいのちの脈動を得て育ち、偉大なる姿を現すだろう。栄光なる聖獣たちを見よ。彼らは必ずや世界の礎とならん。


エレはぶるりと戦慄した。


そうこうしているうちにも脈動は低く大きく繰り返され、巨大な生命の存在を確かに感じさせた。


エレは期待と驚きに自分の呼吸が荒くなっているのに気づき、落ち着くために深呼吸する。


そして岩から身体を起こすと数歩下がり、地面に額づき、両手の平を天に向けて恭しく祈りを捧げた。


エレは祈りながら興奮気味に考えた。


衰退を迎えようとしているヤハルの地に、今、かつての役割を終えたはずの聖獣が生まれようとしている。そこにはどんな意味があるのだろうか。


それはまるで神の啓示のようで、このときのエレにはただ希望ばかりが見えていた。


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