あなた

夕陽の落ちそうな海辺で潮風に吹かれて居た。砂浜に足指をうずめながら、なんとか立って居た。

もう一歩踏み出せば、痛いほど冷たい海に吸い込まれて世界が歪むだろう。

歪んでその先は、どこか遠くだろうか。

私はその一歩を踏み出せない。疲れている。

疲弊した身体と心。そのくせ、まだ気持ちばかり通り過ぎる魂を持ち歩いている。

「あぁ」

抜け殻になりそうで、言葉を発した。涙なんか出るものでもないんだな。

こういう時、防衛本能だろうか、笑いが出るほど面白い。しょうもないな。

私の人生なんかしょうもない。居なくたって良いだろ。

でも、最後の一歩が踏み出せなかった。

どうせ、生きたい。

あなたが追ってくるような気さえしなかった。もう終わっている二人の関係を考えるには、冬の海辺は寂しくて、厳しい。


恋は成就した。だからなんだと言うのだ。

あなたは私を閉じ込めて居る。

この閉塞感。籠の中には小鳥が囀って出せ出してくれと喚いて居るのに、誰かは笑ってこう言う。

「ねえ、素敵な声ね」

それでいいのか。

良いわけがない。

恋は成就した。だからなんだと言うのだ。


学生の頃輝いて見えたあなたはいつの間にか大人になってしまっていた。あなたが私を妻にしてからというもの、あなたが振るう言葉の暴力に抗うだけの人生を送っている今。

傷は痛む。その癖、見て見ぬ振りが上手くなっていく。それに加えてあなたの機嫌を伺うことも日常。私の人生は消えたようなものだ。

あなたの口から出る暴力。当たるたびに絶望する。それも、日常。


新婚時代に鳥を飼おうと言い出したのは私だった。チロリは白い羽を持つ嘴の赤い桜文鳥だ。

籠がいつしか檻に見えるようになったのはここ数年の事。いつまでもこのままこの鳥は衰えて老い、やがて死ぬのだろう。

名前なんてつけなければよかった。その名前が鎖になって居はしないだろうか。チロリは私を恨んでいるだろうか。


あなたが帰ってくるまでの時間。部屋を片付け始めてようやく気づく空腹。適当な物を食べ終われば、少しの自由。それは、自由であって不満足な自由。私には友人がいない。昔は居たように思う。果たして、友人だったのかどうかすら怪しい彼等のことはもう久しく思い出せない。

そんな不満足な自由の中、唯一の楽しみを見つけていた。

風間さんに会うことだ。

近くの喫茶店に、1時間と決めて本を携え向かう習慣をつけていた。家は息苦しく、死んでしまいそうだから。


風間さんは丁寧になでつけた綺麗な白髪を、若々しいシュシュで結ってこちらを丁寧に向いてお辞儀する。

ブレンドを嗜む私と風間さんはほどなくしてどちらからともなく、沈黙になる。

沈黙の間中、私はここぞとばかりに幸せになれる。風間さんはただそこに居るだけの私をただ、隣りでみとめてくれる。

それから二言目に私は風間さんの家、お邪魔していいですかといつも通り尋ねる。風間さんは用事がない日はいいわよと頷くし、用事があればごめんなさいねと微笑むから、それも心地が良かった。

こんな関係を二年ほど続けている。あなたは知らない私の世界。一つくらいは持っているんだよ。あなたにはきっと、全然わからない。そんな関係。ざまあみろ。


風間さんの家はいつでも暖かい。丸いレトロなストーブが燃えている。パッチワークの炬燵布団と、乗せてあるみかん。畳は長い間の日々を物語るように変色して久しいようだ。おまけに猫のユルリはその名前の通りユルリと座椅子にだらしなく白いお腹をさらけ出し寝そべっている。

風間さんが日本酒はいいわねえと小さい目にしわを寄せてさらに小さく細めながら、ちまちまとやる。

私もご相伴に預かろうとちまちまと真似をやる。

「むかーしむかしの話でもしようかい」

風間さんはちまちまを止めずままみかんを剥き始める。


むかーしむかしねえ。あたしにも夫が居たんだよ。それはもう、仕事もしないような遊び人だったよ。仕方ないからあたしが働いて口塞いでたもんでね、いつのまにか夫は女作って逃げ出したけど。その時、夫は......怯えた顔でこんなこと言った。「お前に俺のなにがわかるんだ」怯えていながら怒っても居た。そういう顔だったねえ。あたしはそれでも奴が好きだと思ったよ。居なくなってからもずっと好きだと思ってたよ。勿論、逃げた奴に憎しみだって湧いていたけれど。でもある日、なんだか不思議と、奴もあたしを好きで、でも上手くはやれない二人だったんだ、あたしにも奴にも問題があったんだ、って腑に落ちた。好きだけじゃ、上手くは行かないものさ。そういうものさ。


日本酒が身体に回って、暖かい部屋の中、私はいつのまにか眠って居た。気づけば別室の布団の上で転がって居たので、酔いが回り過ぎ記憶が断片的なだけのようだった。

いつも通り、布団をあげて窓を開けると冬の風が頬を冷ます。息が白い。朝焼けは海辺の街を澄んだ冬を彩る。群生の雲が動き出す。気怠い身体と頭には速すぎるくらいに。もう少し、待ってくれないかな。そんなことを思ってみる。無慈悲に雲は無関係だとばかりに動いていく。


あなたが好きだと確信したのはいつのことで、どんな時だったか思い出せない。

そういえばカーテンの薄い部屋の片隅で私が泣いて居たこと、あなたは知らないままだ。知ったって知らないふりをするんだろう。知っている。あなたが私を知っていると豪語するたびに、私も同様に私を愛して居ないあなたのことを知っていった。


「チロリを自由にしよう」


そう思い立ったのは朝焼けが随分美しいからだったかもしれないし、夢と現を飛び交うくらい酒の抜けない重たい瞼のせいだったかもしれないし、正体は不明の思いつきがどうやら輝く一筋の希望の光に見えたので、あなたが居ない時間を見計らって家へたどり着きチロリを大空に放つにはそう気力も体力も必要と感じなかった。


翼を広げたチロリは私を振り向くことだってしなかった。青い空に白い彼女が羽ばたいてそれは、綺麗。眩い光を背負いながら遠く、遠く、飛んでいく。もう帰りはしない籠の扉。こんなものはもう、必要がない。

突然、視界が開けた気がした。青い海の水面がやけに輝いている。つま先に当たる砂浜の感触が心地良いとか。潮風の匂いが澄み切る冬に弱くて好きだなとか。纏わりついていたのは、私がそうした過去だろうか。あなたじゃなくて。私だろうか。

ああ、生きよう。

私の人生を、生きよう。


私は良いと好いが二つ並んでいれば好い方向へ歩いていきたい。

あなたが私で私はあなたなんてそんな籠はぶち壊して構わない。

でも私はあなたを確かに好きだったんだ。それが問題でそれが愛情でそれが何かの病であったとしても、それだけは唯一無二の私の気持ちの正体だったこと、あなたに伝わればいいのに。











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しょうもない女の生き様・短編集 七山月子 @ru_1235789

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