弱者の笑顔
悪い言葉を探してた。死ぬとか。もうどこか遠くへ行きたいとか。
無視、されたって生きてるんだぞって訴えたくて、椅子を壊した。
殴りつける風の中にいた。真冬の一月。死んじまいそうな夜。
でもどうせ死ねはしない。私は死ねないから生きている。
言い聞かせる。死ねないんだから生きろ。生きろ。
生きたくって生きた方が、きっと楽だ。楽なんてもの、わからないけど。
誰かに愛されさえすれば、楽なのか。それともそれはつらいのか。
空想癖がある。この世の中のどれほどの人が空想癖があるのか。
統計でもとってほしい。精神科医は笑っていた。
「あってないようなものが好きなんだね」
私はそれに何事もなく笑い返す。
「そうですね」そうですね。そうですね。そうなんですよ。
否定するなと聖書が言っていた。正確には父か母か忘れた。
牧師だったかもしれない。預言者だったかも、しれない。
笑え。笑え、苦しくても死んじまいそうな夜でも笑え。
そうやって育った。悪いことは思ってはいけない。
人を憎しむ力をもたない、弱者であれ、と父は言った。
それは神様だったかもしれない。ヨセフだったかもしれない。
マリアだったかもしれない。誰でもいい。くそが。
強くあるために、あるんじゃないかと思った。
強くあるために、生まれて来たんじゃないかなんて考えた。
今ここに、私がいるのに。通り過ぎる男も女もそれ以外も、みんな見て見ぬふりだ。
笑っていこうか。笑ってあいつをナイフで刺してやろうか。
空想の中の登場人物に名前をつける空しさ。無駄なこと。無益なこと。
歩いているだけでも苦しいのにもっと我慢しろって言う、現実。
私のことを愛してくれるあの人の名前は、純という。素敵な響きだ。
だけどこの世に存在なんてしない。妄想か? いいや、医者が空想って言うんだ。空想だ。
この世のどこを探しても居ない彼と待ち合わせをした。
今日も、明日も、明後日も、ずっとそうやって生きていくのだろうか。
見つめてみたい何かはそこにあるのだろうか。私は、逃げているのだろうか。
何から?
寒さが刺す。缶ビールを掴んだ手に痛みが走って、私は泣きそうになる、
そのたびに泣くなと誰かが言う、泣かないでいることが美徳にすら感じる、
私は誰だ。一体、誰なんだ。
夜は深まる。ベンチの周りには鳩がいる。居眠りもできそうにない寒い夜。
公園の影、月の下。私だけが照らされているように感じていた。
月が綺麗だな、って言ったら死んだっていいわと答える、そういう空想だか妄想だかを
ずっとしている。クソだ。
コートが薄くて苦労する。缶ビールがいつの間にか空だ。
長い脛をした男が、呻いている。これは妄想か?現実か?空想か?夢か?わからない。
うう、うう、と呻いている。風の吹く音くらいの小ささだった。
「俺なんか」
伝わるか伝わらないか程の声だった。現実か、あってないようなものか。
私は声をかけてしまう。たぶん、現実だ。笑え。
「どうしたっていうんですか」
彼は一呼吸、置いてから私を見た。私を見て、不思議そうに、
「なんで笑ってんの?」
と言う。
「泣いてるので、あなたが」とってつけたような笑顔になっている気がする。
「余計なお世話です」横を向いてしまう彼。r
じゃあ、目の前で泣かないで欲しい。そんなことを思って、私はそれでも笑っている。
滑稽だな。笑っている女と、泣いている男。夜の寂しい靴のつま先が痛くなるような、
月の綺麗なこんな寒い場所で。
男はそれから、私の座っているベンチの横に座って、やっぱり泣いた。
「なんで、泣いてるんですか」
私は笑っている。笑い続ける。そうしないと、生きていけないから。この男に嫌われるのが
怖いのかもしれなかった。恐ろしいことだ。男は黙りこんでこちらを睨んでいる。
真面目な表情が月明かりに照らされた。
「お前、なんで笑ってるの」
もう二回目の質問をぶつけてくる。私がなんで笑っているのかって?
しょうもない人間だからだよ。しょうもない人間だから、笑うしかないんだろう。
聖書が言っていた。父が言っていた。母が言っていた。ヨセフが、マリアが、牧師が言っていた。
弱者であれ、と。
「あなたは、なんで泣いてるの」
私はもう、笑いたくなんかなかった。でも、この男と話している間なら空想が妄想が、消えそうだなと思った。
たった一瞬だ。たった一瞬、少しだけ彼が笑った。それで、私は泣きたくなった。
すごくなんだか幸せだなって思った。くだらないかな。くだらなくてもいいか。
「ありがとう」
彼が言った。ただの勘違いだよ。そんなの。なにもしていない。優しくなんかしてないよ。
急激に手にあまっているビールが軽く感じた。手を放して、投げつけたくなる。
私なんてそのくらいにはしょうもない。
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