しょうもない女の生き様・短編集

七山月子

バイブル

予言しよう。私は今から世界を変える。死が、そうさせてくれる。方法は誰かに殺されるように仕向けるというもの。

小さい自分にぴったりだ。臆病な私の逃げ方だ。終わりに殺人鬼が出来上がる。私の人生がそいつに移り込む。罪悪感の真ん中に私を思い出す。私を殺す殺人鬼は私の顔を忘れないような記憶力の良い奴がいい。真面目で、感情的で、本来は優しい人である必要がある。それでいい。それがいい。誰かの胸でそして私は生き続けるのだ。笑えるだろ?


路地裏の小さな呑み屋に居た。今日は土砂降りのいい天気だ。窓はすべて閉め切られて、肉と酒を喰らう男と女がお互いを見つけ出そうと必死に酔っぱらっている。ふと上の方を見れば青鬼と仲良くキスをしている女の子の人形が、蛍光灯の明かりに埃まみれでそのまま照らされている。油を含んだ煙が年がら年中包むせいで薄汚れた二人は、いつ頃に誰が作り上げたのだろう。棚の上に置かれたまま、この店を見守り続けている。悲しいな。それとも嬉しいのか。愛情が、あればきっと、もしかしたら。

願わくば神様が二人を祝福して、二人を愛し続けて更に欲を言えば私も愛してほしい。いいや、やっぱり無しだ。愛なんて、この世には一切合切、ない。あるのは知らず知らずに自分へ向かう自己愛だけ。つまらない。私は私が好きな自分が嫌いだ。


男か女か知らない誰かが笑っている。その横で誰かが泣いている。夜が深まっている証拠だろう、この中で私を殺す勇気のあるような奴がいないか、見まわす。

ウエイターの篠崎さんは泣いている客その一に何かしら声をかけて、肩を叩いた。優しそうな笑顔で何事かを耳打ちしている。客その一は頷いてまた泣き出したかと思えば笑いだす。それで篠崎さんがどうするのかと見続けていると、彼はやはり優しそうに笑いかけて奥へ引っ込んだ。



この人だ。


この人に殺されたい。


そう思った。


篠崎さんとはこれまで何度か言葉のやり取りをしたことが、ある。なんなら彼の下の名前も教えてもらった事もあった。確か、優斗。篠崎優斗。二十八歳。私より二つ上。私より頭一個分背が高い。私より鼻すじが通っていて、格好いい髪型をしている。艶のある生き様をしている。そんなの、どんなのか知らないけど。篠崎さんはグラスを拭く時に目をこする癖がある。毎度、だ。篠崎さんは笑った後に目が死ぬ。いつもだ。そこがいいなと思っていた。

篠崎さんは私のことを美波さん、と呼ぶ。美波果歩。みなみかほ。果歩、の名前に私は満足しているけれど、篠崎さんに呼ばれたことがないので残念だったりする。これは恋ではない。私を一生涯忘れることのない相手に対する、執着だ。恋に恋している場合じゃない。愛なんていらない。私を美波さんとだけ呼ぶまま終わらせない。

「美波さん」

篠崎さんが私を呼ぶ。銀色のトレイを片手にぶらさげて、暇があいたのか背の高いテーブルに肘をついて私をのぞきこむ。何故苗字なんてものが存在するのだろう、無くても支障がないのではないか? いますぐ美波という名前を捨ててやろうか。

「なんですか、篠崎さん。まだ、呑んでます」返すと、

「呑み過ぎなんじゃないですか?最近、浴びるように呑みますね。心配だなあ」

心配そうな表情をつくる。篠崎さんは酔っ払いにも親切だ。ウエイターだ、当たり前だけど。私にだけは笑わないで欲しいな。と今にして思った。今までこの人が私に笑いかけた回数、数百万回以上あるけれど私にだけは死んだ目を隠して笑わないで欲しいな、と思った。強く。強く。


その後もお酒をしこたま呑み干し、店仕舞いに駆けずり回る篠崎さんを見ていると、いつの間にか私服になった彼が目の前で腕組みをしていた。私自身は座敷の座布団で突っ伏して居た。身体中の血液が酒に犯されて世界が重たく回っている。

「美波さん、帰れますか?」

ああ、なんとか起きなければ。

「しょうがない人だなあ」

篠崎さん、殺してくださいね。ちゃんと。


暗がりで怯えて居たのは私だったか、それとも弟だったか忘れた。

父が母を殴って居たのか、それとも私が殴られていたのか、はたまた私が殴って居たのかもしれない。

遠い昔のことだ。

ずっと、忘れていた。いつもなら思い出すのは教会の椅子に座って、聖書を開いて読んでいた子供の頃のこと。父が嬉しそうにギターを弾いて聖歌を歌う日曜日。母と弟がそれに合わせて笑う。笑う。


気づくとシーツの中で蠢くように這われていた。篠崎さんが懸命な顔で私を弄っている。中に侵入しようとする寸前、私に気づいた彼は、

「あれ、起きたの」

と笑った。

「笑わないでよ」

私も笑いながらそう返す。

「次笑ったら殺すよ」

私が笑いながらそう云う。

篠崎さんは、ふうんと鼻を鳴らして私に入ってくる。揺れる身体の上で彼が欲望を目に写している。こんなものかもしれない。

私は彼の腕に自分の手をすべらせてそのまま手招きした。彼もそうされるがまま手を握りしめ、そして私の首に手をかけた。

そういうのが好きなの、と苦しそうに歪んだ頬に、唾を吐いた。

すると彼は獣になって私の首をその腕で括ったのだ。

そうだ。それでいい。


生きているって、わからない。

私なんて誰にも愛されない、って思ってきた。実際、そうなのかもしれない。

人は孤独にできている。世の中に、私を愛してくれる人、なんていない。でも愛されたい。私の全てを丸のみされたい。馬鹿か。こんなことでは愛なんて語れない。クソったれの、まるで子供だ。私なんか死んでしまえ。いなくなってしまえば誰かが幸せになるような気さえする。死んでしまえ。死ね。死んでしまえ。

できるだけ迷惑かけて、死のう。でも誰の命も奪わない。でも忘れられないよう。覚えていて欲しい。生きてたって。私はここにいるぞ、って。認めてくれよって。なんだそれ。結局死んだら知らないままじゃないか、誰が私を忘れて誰が私を知っていて誰が私を、覚えていてくれるかなんて。くだらない。そうだ、くだらない。逃げたいだけじゃないのか、私は。そうか、死にたいと書いて逃げたいのだ。ハッピーだな。


私はこの人のこんな顔が見たかったのだ。せっかくの作り笑いも台無しなこんな顔が見たかったのだ。そして、死ぬ。そして、彼の中に生きるのだ。


目の前はぼやけて霞んだまま帰ってこなかった。

今、死んでいる。この語り部は私だったか、貴方だったか。私も貴方も誰だったかわからない。死んでいる。今、死んでいる。泣きたいような、幸せ、のような気持ち。私は、誰だったか。宇宙の何処かから、土に投げ込まれたような、心地。白い。白く、なっていく。白い。これが、死か。すべて、白。


しかしそれは長く続かなかった。

どうやら気を失っていただけだった。


セックスでやり逃げするような男だとは思わなかった。篠崎さんの姿が見当たらない。

なんだか泣けてくるのは、生きていたからだろうか。

布団の中は確かに暖かくて、私はえんえん泣いた。

聖書が言っていた。人を殺すな。だけど、こうも言っていた。試練を与えるのは乗り越えられると神が信じているからだ。ふざけんな! 人は聖人君主じゃない。私も、篠崎さんも、この世にいる全ての人々はただ生きている。ただ、生きている。うまく生きられる人も、そうでない人も、生きている。植物だって虫だって、私だって生きている。悪いか。人を殺したくなったって、いいじゃないか。死にたくなったって、いいじゃないか。ちょっと、悪ふざけしたくなっただけだ。悪いか。悪くなんかないだろう?笑えよ。お前が笑わないなら、私が笑ってやる。愛情込めて、笑ってやる。馬鹿野郎。


夜は今にも明けようとしている。それが意思のあることのように、毎日を生きている空。


でもドアが、開いた。

「美波さん、ごめん、俺」

ビニール袋を引っ提げて、震えて立っている。私は自分の顔を彼に向けた。

途端に、彼は私を抱きしめた。

「よかった、生きていて」

篠崎さんは、あたたかいね。

「君だって、あったかいよ」

何を買ってきたの。

「水、しか思いつかなかった、なんでだろ」

水。

「水、のんでよ」



生きるために、私は水を飲む。飲み干した後に罵声と暴力が未だ蔓延る世界にまた、身を投じることも承知したまま。水を飲む。水を、飲む。美味しい水を。

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