最終話 ドラゴン、旅に出る

 目を開くとそこは見慣れぬ森林であった。

 いや、見慣れぬところではない。竹子はここを幾度となく見たことがある。

 ドラゴンとともに空をかけ、通り抜ける道中で何度か見下ろしたことがある。


 シュゴドラ村の周囲、それを取り囲む山々…その間に現れる窪地じみた空白地帯。

 山に囲まれお盆のようにぽっかりとへこんだその土地に、竹子はいつの間にか立っていた。


「みどりいろ…」


 竹子の体の周りで緑色の魔素が淡く光ってはじけ、消えた。

 見慣れたエフェクトだ。ドラゴンが自分に対して魔法をかけてくれるときは、いつもこの暖かい緑色の光が包んでいた。


「ドラゴンさん…?でもさっきまでわたし、アレクさんの家に」


 ドラゴンの魔法が届くはずがない。いかにドラゴンといえど、見えもしない相手に向かって魔法をかけることはできないだろう。


 じゃあいったい誰が魔法を使ったのか。アレク…は魔法を使えないし、自分だってもちろん。


『一回、というのは言い過ぎかもしれませんね。ただせいぜいがあと一、二回が限度じゃないでしょうか。』


 唐突にユーステスの言葉が蘇った。

 思わず竹子は自分の胸を押さえた。


 自分の中にあるという魔力の玉。

 今までは必死すぎて気にしたことがなかった。魔力の残滓が、どうしてドラゴンと同じ色を放っている―?


 背後で爆発音が響いた。


「ひ…!?」


 続けて二度、三度。アレクの家で聞いたものとは比べものにならないほどの大音響。

 地を揺るがす地鳴りと空気が揺れる振動、衝撃。


 思わず竹子はその場に伏せた。

 それほど大きく衝撃的な大音響が、どうしてか鳴り響いている。


「な、なに!?この音…」


 途中で竹子ははっとした。自分が何を見たのか。そして何を願ったのか。

 爆発音の発生源。そこから見えた緑の光。自分がこの世界に来てきっと一番慣れ親しんだ色。


 ドラゴンのところへいかなければ。


 竹子はそう願って、気がつけばこの場に飛ばされていたのだ。


 竹子は立ち上がった。

 地を勢いよく蹴り上げて、音の発生源に近づいていく。窪地の中に繁茂する樹木、その間を分け入って、音の鳴るほうへと近づいていく…。


 そして、竹子はついに音の発生源へとたどり着いた。

 唐突に視界が開けた。窪地の森の中でも木々の生えていない開けた場所。竹子は一心不乱にそこに進み出て―。


「え」


 思わず口から声が出た。

 目の前に飛び込んできたのはドラゴンの顔だった。


 地面にべったりと頭を投げ出して、目を閉じている。顔の周りに広がる何かの液体。

 違う。何かじゃない。赤い。自分の靴がそれを踏みしめている。べちゃりと粘つく感覚。


 これは血だ。


「な、お前はあのときの…!?なんでここに!?どこから現れた!」


 声が聞こえる。ドラゴンの目の前。竹子が現れた側とは別方向でドラゴンと相対している一団。


 王立軍。


 突如として林から現れた竹子を見て、集団の中から焦った声が聞こえた。


「危ない!離れろ!手負いとはいえ人間なんかひとたまりもないぞ!」


 竹子の目の前でドラゴンのまぶたが開いた。

 きれいな瞳だ。薄闇の中でもらんらんと光って、なんだか星か月が増えたかとすら思う。


 王立軍が色めき立つ。目覚めるぞ、警戒しろ、魔法攻撃準備…。

 竹子の耳はそれらすべての音を素通りした。ただ、目の前の口が紡ぐ音だけを聞いていた。


「お前、なんでここにいるんだよ…」


 帰れ、とドラゴンの口が言葉を紡いだ。

 竹子はようやく硬直から復帰した。

 それまで、ドラゴンの顔を見てから今の今に至るまで、息すら忘れて硬直していたことに今気づいた。


「僕、ひどいこと言っただろ。ありえないぐらいの八つ当たりだ。さっさと逃げて村に帰れ。お前はこんなところに居るべきじゃない…」


 竹子は目を見開いた。ぺたん、とその場に膝をついて、地面に倒れ伏すドラゴンの顔に手をついた。


 王立軍が色めき立つ。やめろ、刺激するな、殺されるぞ。これは警告だ。即刻離れなさい…。


「帰りません…。なんで、なんでそんなにボロボロなんですか、ドラゴンさん。逃げれたでしょう。ひとりで、なりふり構わなかったら、あなたなら逃げれたでしょう。それなのになんで…」


 竹子は王立軍を見た。よくよく見ると、彼らは負傷していなかった。全員無事だ。

 鎧や着衣の端々が焦げている人もいるが、致命傷を負っているものは一人も見当たらない。


 傷を負ったものは即座に下げた、だけでは説明がつかないほどに、彼らの損傷具合は少なかった。

 これじゃあまるで、ドラゴンがろくに抵抗していなかったようじゃないか。


 竹子は喉が引き攣る感覚を覚えた。なんだか喉が渇く。声が出にくい。それでも何とか喉の奥から絞り出した。


「このまま自分一人で倒される気ですか。村とも私とも無関係の残忍で恐ろしい魔物だって、そうやって全部抱えて死ぬ気ですか」


「違う」


 断固とした声だった。竹子は目を瞠る。

 ドラゴンの金色の瞳がぎょろりとうごめいて、竹子を見た。


「そんなかっこいい理由があるもんか。僕は人間が嫌いだよ。攻撃するのも殺すのも造作もない。そうだよ。そうなはずなんだ。なのに」


「あいつら、お前に似てたから、うまく攻撃できなくて…」


 王立軍の警告の声がいよいよ激しさを増した。


 最終通告である。これは最早警告ではない。即刻その場から退去せよ。退去せぬ場合、巻き込まれても文句はないものと判断する…。


「ちらつくんだよ。お前の馬鹿みたいに明るい笑顔が、消えてくれないんだ。そうしたらもう、どうしてか…あいつらも、攻撃、できなくて」


 王立軍の方がやにわに騒がしい。いよいよもって攻撃の準備に入っている。

 竹子もろとも、今ここでこの大魔を討伐せんと、全員が意気強く攻撃の意思を高めている。


 全部全部、どうでもよかった。


「ドラゴンさん、今度視力検査しましょう」


「…お前さあ。相変わらず突拍子もないこと言うよなぁ」


 呆れた口調と共にドラゴンが少しだけ笑って、その拍子に血が又吹き出た。

 竹子の手がまた大きく震えて、ゆっくりとドラゴンの顔をなで下ろす。


「必要ですよ!だってよく見てくださいこの顔を!ぜったい、絶対そんな奴らより私の方が美少女です!可愛いです、女神です、比べものになりません!そんな奴らと私を似てると言うなんてドラゴンさんの視力には大いに問題があります!」


「どさくさに紛れてとんでもないこと言ってるよ」


「そりゃ言いますとも。そんな奴らと似てるなんて言われて黙ってられるもんですか!全然似てません、ちっとも似てません、何一つ似てません!だって、だって」


 竹子の言葉が不自然に途切れた。ドラゴンの瞳は未だ竹子のことを静かに見つめている。


 竹子は唇を噛みしめている。ともすればそのまま噛み切ってしまうのではないかと強さで、ドラゴンは思わず止めようと口を開きかけた。


「私があなたを傷つけるわけないじゃないですか…」


 ドラゴンはそのまま口を閉じた。何も言えなかった。


 竹子はやがてドラゴンから手を離した。

 俯いた顔にかかる暗い影が、表情を窺わせることを強く拒んでいた。

 手を強く握りこみ、もう一度唇を噛みしめて、そしてようやく前を向いた。


「私が間違ってたんですね…」


「違う。お前は別に間違ってなんかいない」


「いいえ。私が間違ってました。だから待っててドラゴンさん。すぐ、すぐに終わらせてきますから」


 竹子はそう言って立ち上がった。王立軍は最早、詠唱を完成させ、歩兵たちは武器を構え…臨戦態勢が完全に整っていた。


 そんな集団相手にも関わらず、竹子はまっすぐに進んでいく。


「やめろ」


 ドラゴンの声が響く。それでも竹子は止まらない。一歩一歩、ゆっくりながらしっかりと、前に向かって進んでいく。


「やめろ…やめろ、お前、何する気だ。もういい。もういいから。早く逃げろ。お前の体の中の魔力、残ってるんだろ」


「ええ。そうです。だから大丈夫。ドラゴンさんの傷も、今のこの状況も、それからあなたの未来も。全部救う方法があります」


 その時。竹子の身体が緑色に輝いた。ドラゴンが目を瞠る。今まで見た中でもいっとう強い光のきらめきで、すさまじい量の魔素が辺りに飛び交った。


 何を。いったい何をしようとしている。


「やめて…」


 小さく呟くドラゴンの声に、竹子はそっと振り向いた。

 漆黒の瞳が、世闇の中でわずかな光を集めて輝いている。

 きゅうと目が細められて、柔らかく微笑んだ。


「大丈夫ですよ、ドラゴンさん。ずっと一緒にいますから」



 快晴だ。ずいぶんと日が高い。ほのかな、しかし確かに暖かい冬の日差しの中から、刺すような寒気が忍び寄ってくる。

 ずいぶんと高い青空を前に、アレクはぼんやりと上空を見上げていた。


 いい天気だ。絶好の畑日和で、働くにはちょうどいい。

 秋物の作物の収穫はほぼ終わった。これからの仕事は冬にも育つ作物の種付けと収穫した野菜の加工、それらの売買…山ほどある。


 そう。何せちょうど、自分たちを何くれなく手伝ってくれたあの一組がいなくなってしまったのだから、どれだけ働いても足りないぐらいなのだ。


「…ドラ坊も嬢ちゃんも、どこ行っちまったんだよ」


 腰掛けた切り株にうなだれて、アレクは大きくため息をはく。


 あの夜。

 自分の家から竹子が突然と姿を消したのを最後に、彼らはいなくなってしまった。


 アレクたちに伝わったのは竹子が目の前から消えてから一度も村に姿を見せないことと、村に駐屯していた王立軍がとんでもない慌てようで引き上げていったことのみ。


 風の噂で王立軍の一部隊が壊滅的な打撃を受けて撤退したとは聞いたが、それが誰の手によるものか、竹子がそれに関わっているのか…そして何より、ドラゴンは無事なのか。それらは何一つわからないままだった。


「…大丈夫だよな、ドラ坊。お前は強いから、王立軍なんかにやられやしないよな。それに嬢ちゃんだって…あんだけしぶとくてぶっとんでる嬢ちゃんだ、どんなことになったってにこにこ笑って切り抜けられるはずだ…」


 だが、アレクの脳裏には、最後に見たときの竹子の不安そうな顔だけがいつまでも残っている。


 アレクがいよいよもって体中の息を吐き出すのかというほどの深いため息をついた直後。

 急に視界が暗くなった。さんさんと降り注いでいた日差しが遮られて、あたりが突然薄暗くなる。


 雲が太陽を遮ったか。アレクは何の気もなしに上空を見上げ…そして驚きに目を見開いた。


「ドラゴン…」


 空の彼方、太陽を背にして浮かび上がる黒いシルエット。上空にいるために幾分も小さく見えるそれは、確かに見覚えのある翼を備えていて。


「ふた、り…」


 そして、その隣には全く同じ姿の生き物が寄り添っていた。


 風が巻き起こった。あたりの土や落ち葉を巻き込みながら、突如烈風が吹き荒れる。

 たまらずアレクは目を腕で覆った。風が収まったころにゆっくりと腕を下ろす。


 からん。


 軽やかな音が響いて、アレクは目の前に視線を移した。そこには不思議な玉が転がっていた。淡く光る緑色の、美しくきらめく球体。

 表面に走る繊細な模様が時折息づくように光を放つー。


「…嬢ちゃん。ドラ坊?」


 玉を握りしめて、アレクは空を見上げる。自分の瞳の色と同じ、抜けるような青空を。

 見上げた空には誰もいなかった。



 雲の上。遮るもののない太陽がこれでもかと照りつける。

 上から見下ろすとどういうわけかつぶれたパンのようにぺったんこな雲が、辺り一帯に広がっていた。


「アレクさん、わかりますかねー。あれの使い方」


「さあ。でもあいつなら悪用しないだろ。もしもの時にでも発動すればいいさ」


「気づかずに誰かにあげっちゃたりとかしたらやばいですねー」


「…」


「あーあー大丈夫です!後で私が差出人不明の取扱説明書出しときます!アレクさんもこれで安心安全!ヘルプセンターまで完備の40年ぐらい保証高品質だと証明してやりましょう!」


「へる…?何?」


「つまりは困ったときの相談所ですよ!何もしてないのに壊れた!を迅速に解決!」


 普段なら風の音しか吹き抜けないはずのそこに、なにやら騒がしい会話が鳴り響いていた。


 太陽の光を遮る二つの影。

 この地表に存在する生物としては埒外の巨体、大きな翼…。


 二匹のドラゴンが、寄り添って空を飛んでいた。


 金色の瞳のドラゴンが、一度小さく目を伏せる。

 物憂げな表情たたえたままぽつりとつぶやいた。


「相談は受けられないだろ。顔を出したらまた同じことになる」


 ひときわ強く風が吹き抜ける。もう一方のドラゴンの、よく回っていた口がとたんに閉じた。

 金色の瞳のドラゴンの顔に、さっと悲しみの色が乗った。


「やっぱりお前だけでも…」


「嫌です。あなたと一緒にいます」


 金色の瞳のドラゴンが勢いよく顔を上げた。

 もう一匹のドラゴンは、断固とした口調でつぶやいた。


「後悔も未練もありません。いやいやしょうがなくやったわけじゃない。私がこうなりたくてなったんですよ。この姿だろうと何だろうと、私はあなたと一緒にいる。自分でそう決めて自分で罪を犯した。もう戻れませんし戻りません」


 そして、もう一方のドラゴンは…黒い瞳のドラゴンは、一転して顔を綻ばせた。


「約束したじゃないですか!世界のきもいもの変なもの、美しいものきれいなもの…全部全部見に行きましょうって!嫌だって言われても何度説得されようと、どこまでもついていってやりますからね−!」


 金色の瞳のドラゴンが何か言いたげに口を開いた。

 だけど結局何も言えずに、そのまま口を閉じた。


 しばらく双方何も言わない沈黙が続き…最終的に金色のドラゴンは一言だけ口にした。


 ごめん、と。


「なぁーに言ってるんですか!謝る必要なんかありません。だって私、こんなに幸せなんですから!」


 そして、黒い瞳のドラゴンは勢いよく翼をはためかせた。

 金色の瞳のドラゴンの前に進み出て、そしてくるりと振り返る。


「ドラゴンさん、行きましょう。大丈夫。世界は広いんです。これからたくさん、素敵なものいっぱい見ましょうね!」


 金色の瞳のドラゴンは、黒い瞳のドラゴンをじっと見た。

 そこに浮かぶ面影は確かにあの人間と同じ。

 笑顔も雰囲気も変わらない。あの人間が、そこにいる。自分と一緒にいてくれる。


「うん。行こう」


 金色の瞳のドラゴンも、多きく翼を動かした。

 負けじと黒い瞳のドラゴンも体を動かす。


 寄り添って飛ぶ二匹のドラゴンは、ぐんぐんと空の彼方に向かって飛んでいき…やがてはすっかり、空の彼方に消えてしまった。



「そういえばさあ、ドラゴンさんドラゴンさんって言ってるけど。お前も今ドラゴンだぞ」


「あっそうでした!そしたらなんとお呼びすれば…?」


「…教えてやるよ。僕の名前。昔、つけてくれたやつがいるんだ」


「え、そうなんですか?…昔?それってもしかして」


「うん。洞窟に入る前のこと。全部思い出したよ。名前をつけてくれたやつのことも」


「へえ、へええ!どんな方なんですか!?」


「いいやつだよ。明るくて優しくて冗談ばっかり言うくせに、こっちの気持ちによく気がついて、それで…僕のこと大切にしてくれた。大事な僕の友達だ」


「…そうですか。そうですか!それで、その方がつけてくれたお名前は?」


「うん。僕の名前は」

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しゃちドラ~もしブラック企業で疲弊しきった社畜が異世界最強のドラゴンに会ったら~ さめしま @shark628

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