第13話 ドラゴン昔話②

 外が騒がしい。


 ××××はゆっくりと顔をあげた。


 辺りを見回す。案の定その音は洞窟の入り口側の方から響いていた。

 複数人の人間の声が混ざり合い、一つの大きな音になって響いている。


「もう我慢の限界だ!」


「あいつを倒さなきゃ俺たちは安心して眠れねえ」


「いい加減にしてよ。あんた個人の感情だけで村の全員を危険にさらすの?」


 いつものやつか、と思って××××はまた知らないふりをしようとしたが、しかし様子がおかしい。

 声がいつもより近い。近いと言うよりこれは。この洞窟の中にまで入ってきている…?


「やめろって言ってるだろ!こいつは絶対に危ないことなんかしない!」


 ひときわ大きく響く声。アレックス。

 それと同時に人同士がもみ合うような音が聞こえる。


 衣擦れの音、肌と肌が擦れ合う音。鋭い怒声に悲鳴じみた声…。

 その中に少し悲嘆のような声が混じって、なんだか随分と聞くのが辛い音になっていた。


「なあ」


 ××××はついに声をあげた。

 このまま知らないふりを貫いていれば、それ以上に悲惨な状況に陥ってしまう気がした。


 ざわめきが突如として静まり返る。誰も何も言わなかった。

 まるで恐怖に身を竦めているような沈黙に、××××はそっと溜息を吐いた。


「出ていくよ。もう村には顔を出さない。…それで充分だろ?」


 ××××の静かな宣言に、洞窟の中にざわめきが走った。

 だが、真っ先に異を唱えたのはやっぱりあいつだった。

 アレックス。


「なんだよそれ!なんでお前が出ていかなくちゃいけないんだ!」


 洞窟の中を駆け抜ける音。自分の前に躍り出るアレックス。


 それに引き続いて複数人の人間の足音が追いかけてくる。

 こちらを見つめるアレックス、遠巻きにしながら肩を寄せ合う面々。


 ××××が軽く首を動かすだけで、背後の人々は体を竦ませた。

 そんなものは想定の範囲内だったので××××は何も言わなかった。


「丁度いい頃合いだろ。この洞窟にももう飽きた。新しいねぐらでも探しに行くよ」


「お前が出てく必要なんかないよ!何も悪いことしてない、何も気を遣う必要ない!なあ皆、本当にこいつを追い出すつもりかよ!何一つ悪いことしてないこいつを…そんなことして本当に満足か!?」


 アレックスが背後を振り向いた。

 アレックスは信じていた。村の皆も××××とともに長い時間を過ごしてきた仲間だ。


 今は他の村の圧力や恐怖心に負けておかしくなっているけれど、冷静になればきっとわかるはず。

 こんなことを言う××××を見て罪悪感だって感じるだろう、と。だけど。


「…外に行かれると、いつ襲われるかわからなくて困る」


 アレックスの顔から表情が消えた。

 ××××は、背後からそれが良く見えた。


 村の皆は寄り集まるように動いて俯き…そのうち、一人。現在の自警団長、アレックスの先輩にあたる人物が、一歩大きく進み出た。


「俺たちは安心したい。他の村だってそうだろう。遠くに行くと言ったって、お前の翼じゃすぐに戻ってこれるはずだ。外の世界を好き勝手動いて気まぐれで襲われたりしたらたまらない…」


 その人間の言葉は最後まで続かなかった。

 アレックスが胸倉を掴んで思いっきり引き寄せたからだ。


 地面を蹴って、その人間の前に飛び出したかと思うと、勢いのままに襟元を掴み上げた。


 目は血走りこれでもかと見開かれ、強烈な感情を宿している。怒り。薄暗い洞窟の中でもはっきりとわかるほどに、アレックスの瞳は憤怒に彩られていた。


 自警団長は何も言わなかった。

 胸倉を引き寄せられた姿勢のまま、静かにアレックスを見下ろしている。

 文句も、言い訳も、悲鳴も出さない。

 アレックスの燃えるほどの怒りを前にただ冷徹なまま。


「いい加減にしろよ…。お前ら、心がないのかよ。なんでそんな酷いことが言える?」


「心がないのはどっちだ。村中全員路頭に迷うかもしれないんだぞ。いや、そいつに殺される方が可能性が高いか?お前ひとりのくだらない情で、この場の全員を危険に晒すのか?」


「下らない情!?お前ら、散々こいつに助けてもらっておいて…!」


「面の皮が厚いのは承知だ。何とでも言え。逆に聞くが、お前はどうやってこいつの安全を証明できる?もし仮にできたとしてその安全が続く保証は?繰り返すがそいつの気まぐれ一つで俺たちは全滅するんだぞ。いつ爆発するともしれない爆弾を抱えて生活なんかできるか」


「だから、こいつはそんなことしない!」


「またそれか。くだらない感情論としか思えんな。説得力がかけらもない。…なら聞くが、お前はいいのか?ハンナちゃんが、コリンくんが、ニックくんが、両親が…ドロシーが殺されても、文句を言わないんだな」


「ッ…!テメェ!」


 アレックスの額にはっきりと青筋が浮かんだ。

 駄目だ。これは本当に乱闘が起きてしまう。

 そんなことになったらアレックスはどうなるか。孤立してしまう。


 ××××に肩入れして村を危険に晒す危険人物として、人の輪から遠ざけられて。アレックスだけじゃない。ドロシーも、アレンも、ダイアナも、ハンナも、ニックも、コリンも。


 ××××は慌てて二人を引きはがそうとして…しかし自分の爪では二人を傷つけずに引きはがすことはできないことに気づいて、一瞬止まった。


 そして、その間に割り込んできた声。


「…証明してもらえばいい。そいつの安全を」


 鶴の一声、というものだった。



 首元の辺りがむずむずする。

 物馴れない感覚に思わず首を振りたくなる。


 もちろんそんな危ないことはしない。

 首の後ろに今いるのは、自分の命と同じぐらい―、いや、下手したらそれより重いのだ。


「いよぉーぅし!いくぞ、××××!」


 ぱしん、と軽く首元に衝撃。

 普段触れられないそこに突然飛び込んできた刺激に、思わず体が跳ねた。


「お前、突然はたくのやめろー!」


「ああ、ごめんごめん。くすぐったかったか?」


「そ…うだよ。かゆい。くすぐったい。うざい」


「段階踏んでひどくなると傷つくぜ~…」


 自分の背中。そこには、××××の体にまたがるような形で乗り上げているアレックスの姿があった。


 大きく足を開いて、手は××××の首元の辺りに回し、さながら馬にでも乗っているような姿勢である。


 ××××はアレックスから視線を逸らした。

 薄曇りの太陽が降り注ぐ外気の中、洞窟の外に出た××××を人々が取り囲んでいる。


 自分たちの背後、だいぶ離れたところで遠巻きに取り囲んでいるのは村の面々だ。先ほどの自警団長ももちろんいる。


 そして、その隣…自警団長より一歩後ろでたたずむ男が、この事態の提案をした者だった。


 ××××に人間を乗せて空を飛んでもらおう。

 空中でなすすべのない人間を乗せて、落としもせず傷つけもせず、戻ってきたのならひとまず信用してやる…。


 提案の大筋はそんなところだった。

 一定時間人間を乗せて飛行して、××××の安全性を確かめようと言うのだ。


 ××××は思った。なんでこんな提案を。先ほども言ったが××××の気まぐれ一つで村を滅ぼせる以上、一時の安全を証明したところで意味はないはずなのに。


 だが、××××が疑問に思うよりも前に、話が進んでしまった。


「××××が俺を落とさなければ信用するんだな?」


「ああ。しばらくなら村に置いてやってもいいと思うぜ」


 おい、と口を出しかけたのは自警団長だった。

 どうも彼は先ほどまでの言動に能わず、徹底排除の構えらしい。


 だが、自警団長の声が届くよりも前に、その小柄な男が背後の村人に呼びかけた。


「どうだ?お前たちだって何もしてないドラゴンをただ追い出すのは気が咎めてたんだろう?条件と期限付きの安全チェックをするって言うのは、悪い提案じゃないと思ってるんじゃないか?」


 村人たちは気まずそうに視線を逸らした。

 だが、やがて賛成の声が一つ上がると、次々と皆が追従した。

 自警団長は強く眉をしかめ、小柄な男は口の端だけを釣り上げて笑った。


「まあまあ。このままじゃ話も平行線だ。みんなだってあまり過激なことはしたくないのさ。間を取って穏便に済むならそれに越したことはないだろう?他の村にも安全チェックの結果を伝えて説明すればいい」


「…決断するリスクを恐れて当初の考えを翻した挙句、偶然の結果に自分たちの今後を委ねて責任の所在をうやむやにし、罪悪感を和らげる、と。如何にもお前たちの考えそうなことだ。決断した責任を突き付けられるのが今更恐ろしくなったか?」


「へへぇ、いや全くほんとおっしゃる限りで。ですが…この場の総意は決まったようですなあ」


 自警団長が振り返る。村人たちは確かに小柄な男の意見に賛成のようで、どころか自警団長の今の発言に対する叛意が強まっているようにすら見えた。


 自警団長はしばらくそれを見ていたが…やがてふいと視線を逸らした。


「そうしたければそうしろ。俺の結論は変わらんが、村の総意を覆せない以上反論はしない」


 自警団長はそのまま、洞窟の出口に向かって歩いて行った。

 小柄な男を筆頭に、洞窟内の村人たちも外に出ていく。

 最後に残ったのはアレックスと××××で、洞窟内が静まり返るとどちらともなく話し始めた。


「どうして受けちゃったんだよ。この勝負…」


「あいつらが言ったんだ。勝てば認めてやる、ってな。あんなこと言われて黙ってられるか…!」


 わなわなと震えて怒り心頭のアレックスに対し、溜息を吐く××××。

 もう一度眼下のアレックスを見下ろす。


 人間としては大柄なほうだが、ドラゴンにしてみたら小さくて脆い弱小生物。

 ××××の爪一つで死に至るのは誇張ではない。


「大丈夫だよ。お前は俺を落としたりしない」


 アレックスがドラゴンの体にそっと手で触れた。

 触れられた箇所からじんわりと伝わる熱。


 ××××の体はいつもどことなく冷たいのに、アレックスの体は暖かい。

 血と骨と熱でできた小さくて脆い生き物。


「さあ、外に行こうぜ。お前がすごくいいやつだってこと、ちゃんと証明してやろうじゃないか!」


 アレックスが先陣を切って洞窟を出る中、××××はその背中をしばらく見つめていた。

 どうしてだろう。嫌な予感が止まらない。


 嫌な予感は外に出ても、アレックスを背中に乗せても止まらなかった。じりじりと胸を焼く焦燥感のような感情。


「なあ、やっぱりやめた方が…」


「何言ってるんだよ!ちょっとその辺飛ぶだけでいいなんて楽勝だろ、ちゃっちゃと終わらせようぜ!」


 アレックスはそう言ったっきり、むしろより深く体をかがめて××××に密着した。

 是が非でもこのまま飛ぶ気だし、そうじゃなければ降りる気はない…そういうことだろう。


 …仕方ない。


 ××××はついに腹を決めた。

 顔を真正面に向けて、飛ぶための準備を始める。


 体をかがめて力を籠め、それと同時に翼の筋肉を動かしていく。

 上下に大きく羽ばたく翼にあおられて、遠巻きに見ていた人が数人体勢を崩したのが見えた。


 -今だ。


 羽が大きく空気を捕らえたのに合わせて地を蹴った。


 翼の揚力と地面から飛び上がる力、二つが合わさってドラゴンの体が一気に急浮上した。


 その勢いのまま翼を動かし続け、強く羽ばたかせていれば、××××の体は瞬く間に上空へと押し上げられる。


 懐かしい。


 ずっと洞窟にこもっていたから、久しく空など飛んでいなかった。

 ほのかに降り注ぐ日差しに吹き抜ける風。


 薄曇りゆえに見渡すような青空もさんさんと照り付ける太陽も見られなかったが、それでも××××の心を沸き立たせるには十分すぎた。


 ああ。やっぱり外はいい。


「××××?」


「えっ…あ!すまん。ぼーっとして…」


「いや、いいよ。でももう少し動いて飛ばないとあいつら納得しなさそうだ。ちょっとこの辺旋回してみてくれるか?」


「…了解。くれぐれも離すなよ」


「おうとも。でも大丈夫だって。お前は俺を落としたりしないよ」


 うん、と小さく頷く。そして首元に感じるアレックスの手がより一層強くドラゴンの体を掴んだのを確認すると、ドラゴンは飛んだ。


 羽ばたかせていた翼を水平にして、なるべく空気の抵抗を減らす。

 それでもトップスピードに入るようなことはせず、あくまでゆっくりと、安全な速度のままで飛行を続ける。


 村の人々の視界から外れないよう、ある程度まで直進したところで、ドラゴンは左の翼をわずかにたわませた。

 逆に右の翼はやや高めに調整する。


 自然とドラゴンの体は左に向かって旋回をはじめ、美しいターンを描くように方向を変えていった。


「…ああ」


「なんだよ。変な声出して」


「いや…。なんか、思い出して。お前の背中に初めて乗せてもらった日のこと」


 ドラゴンは思わず息を詰まらせた。アレックスは気づかず語り続けた。


「小さいころに一度だけ乗せてくれただろ。それで同じように空を飛んで…そうだ、こんな景色を見た。風を受けた。懐かしいなあ…」


「…」


「そういやあれ以来一緒に飛んでくれなくなったよな。なんでだ?」


「なんでって…お前、忘れてるのか!?あんな事件を!?」


「え?なんかあったっけ?」


「うそぉ…。なんかこいつに遠慮してた自分が馬鹿みたい…」


「馬鹿とはなんだ馬鹿とはー!」


 アレックスは××××の背後でご立腹だ。

 と言いつつ、××××の体をしっかりつかんだまま離さないあたり不思議なものだ。


 やがてアレックスはさんざん××××への文句を述べた後、一息ついてまた黙った。そして、ややあってからこんなことを言った。


「ああ、でも、悔しいよ。お前と飛ぶのがこんなに楽しいんだってこと、もっと早く思い出せばよかった!」


 ××××の体にしがみつくアレックスの腕に、より一層力が籠る。

 ぎゅうと強く握りしめて、そしてアレックスは嬉しそうに告げた。

 顔が見えなくてもわかる。明らかに嬉しそうで、怖いことなんて何一つない、××××のことを信頼しきった笑顔で―。


「××××、ありがとう。また一緒に飛ぼうな」


 それで、と。アレックスの言葉はそこからさらに続く様子だった。

 しかし。


「え?」


 茫然とした声が響いた。ぽん、と空中に投げ出されたそれは本当に、意識の穴から抜け落ちたような虚脱した声で。

 ××××とアレックス、双方の気がその声で抜けた。


 そして、その間隙をついてアレックスは落ちた。


 何が何だかわからなかった。アレックスの手が突然××××の背中から外れた。

 急速に発生した竜巻のようなものがアレックスの体の間に割り込んで、無理やり引きはがしたようだった。


 ようだった、というか多分そうだった。××××ははっきりとそれを知覚できた。


 これは魔法だ。ごくごく初歩的で威力も弱い風魔法。

 だけど、今この場においてはアレックスに対して絶大な威力を発揮した―。


 アレックスは落ちた。

 ドラゴンの背中から滑り落ちて、頭から落下していった。


 ××××にはそれが良く見えた。

 スローモーションの視界の中、落ちていくアレックスに何とか手を伸ばそうとして―。


 駄目だ。間に合わない。風魔法でも届かない。自分の手だって届かない。そもそもこの爪じゃ、アレックスの体に触れない―。


 アレックスはそのまま森に落下した。



 はっと目が覚めた。

 勢いよく飛び起きる。そして辺りを見回した。

 木の壁、木の天井、見慣れた部屋の造りに調度品。

 間違いない。ここは自分の家だ。


 自分の家の自分の寝室に寝かされていた状態で、アレックスは目を覚ました。


 どうして寝ていたのだろう。前後の記憶があいまいだ。思い出せない。


 アレックスは頭を抑えた。必死に記憶を探り出す。ベッドに着く前の記憶。


 自分は一体何をしてここに、そしてどうしてこんなに慌てているのかと…。


「××××…?」


 アレックスはすべてを思い出した。


 自分の大切な友達。小さいころからずっと一緒の家族。


 その相手の疑いを晴らそうとした行動が、一体如何なる結果を生んだのか。


 アレックスは部屋を飛び出した。


 途中、ドロシーに声をかけられた。だけど何を答えたのか覚えていない。


 とにかく行かなければ。あいつのところへ。

 あれは俺のせいだ。俺の間違いで俺のせいで、だからそう、あいつは悪くないんだって、村の皆に説明しないと。


 洞窟の入り口が完全に閉じていた。


 ほんの少し前まで口を開けて自分を迎え入れていたその入り口が、ぴったりと閉じられていた。

 最初から入り口なんかなかったかのように岩壁でおおわれている。


 そっと触ってみてもびくともしない。

 動かないし移動しない。移動式の扉でも魔法で開閉する自動ドアでもなく、ただただ単純なただの岩の壁。


 それが入り口を完全にふさいでいた。


「××××―!」


 慟哭した。岩壁に拳を叩きつけて、何度も何度もその名を呼ぶ。

 拳が切れて血が滲んだがそれどころではなかった。

 痛みも傷も何もかも、自分を止めることはできなかった。


 アレックスはただただ叫び続けた。

 力の限り声を枯らして、巌の中の相手の名前を呼び続けた。


 だが。


「五月蠅いぞ人間。我の眠りを妨げるな」


 岩の中から響いたのは、今まで聞いた中で一番冷たい声だった。


 聞こえてきた声の冷たさに仰天して、それでも答えてくれたのが嬉しくて。

 アレックスは岩壁に縋りつく。××××、と名前を読んで、安心したように息を吐いた。


 涙がこぼれて顔を伝った。やがてそれは岩の表面も伝って下にこぼれていった…が。


「疾く去れ。我はこの洞窟で眠りにつく。矮小な下等生物ごときに静穏を妨げられるなど吐き気がする」


 ××××の声は、最早かつてのそれとはまったく違っていた。


 アレックスは仰天して、もう一度名前を呼ぶ。

 ××××、嘘だよなと、何に対して嘘と言っているのかもわからぬままに問いかけて…自分の名を名乗り語り掛けて、必死で岩の中に取りすがった。


 握りしめた手のひらに爪が食いこみ、血の気を失った拳がカタカタと震えている。拳がぶつかった先の岩壁がわずかに剥がれ落ちて落下した。


「くどい。何度も言わせるな。うるさい、と言っている。早々に立ち去るがよい。岩越しとは言え貴様のような羽虫の一匹、殺しつくすのにそう労力はかからんぞ。…証明してやろうか?」


 アレックスは絶叫した。

 嘘だ、やめろと叫んではやたらめったらに岩に拳を叩きつける。

 先ほどの比ではない勢いで血がしたたり落ちるのも構わずに、やたらめったらと打ち付ける。


 洞窟の中の圧が増したが関係なかった。

 今のアレックスの頭にあるのは、かつての友人の姿だけだった。


「そうだ、宝珠…!」


 アレックスは懐を漁り、そして例の宝珠を取り出した。淡く緑色に光る龍の宝珠。

 渡されてから欠かさず身に着けている、願いが叶うと言う超級品。


 震える手でそれを手のうちに握りこんだ。

 強く願えば、そう、強く願えば何でも願いが叶うと。


 宝珠は反応しなかった。


「なんでだよ!なんで、なんでなんでなんで!」


 こんなに強く願っているのに、宝珠はピクリとも動かない。反応しない。

 ××××の見せてくれたあの眩い緑色の光…その片鱗をわずかでも見せてくれることはなかった。


 どうして。なぜ。××××をここから出したいと、こんなところに押し込めたくないと、…ひとりでいさせたくないとこんなに心から願っているのに。


 いや。


 わかっているのだ。本当は。何をどう願えば××××をここから連れ出して、村でまた平和に暮らせるのか。アレックスにはその方法がとんとわからない―。


 岩壁の向こうからは最早何の声もなかった。

 アレックスは気落ちした足取りで家に帰った。


 家では家族が待っていた。ドロシー。ハンナ。コリン。ニック。自分の両親。

 急に飛び出したアレックスを心配して、皆が待っていた。


 帰ってきたアレックスを抱きしめてドロシーは少し泣いた。

 子供たちも、両親も、同じように自分に慰めてくれた。


「…森に落ちたから。木がクッションになってあなたは助かったの。体中傷だらけでひどい状態だったけど、××××が魔法であなたを治してくれた」


 落ち着いた後、ドロシーがその後何があったかを説明してくれた。


 ××××の背中から落ちて怪我をした後、アレックスは気を失った。

 その体を××××が魔法で治療した。

 しかしそれで収まるはずもなかった。村人たちの疑心は最高潮に達してしまった。


「私も反論したけど、少しも聞く耳を持ってくれなかった。わざと落としたんだの一点張りで」


 ドロシーは悔し気に唇を噛んだ。世闇に沈む寝室で、ともにベッドに腰掛けたまま、ドロシーは静かに涙を流した。


 アレックスはその肩を抱き寄せた。ドロシーはそっと涙を拭って続けた。


「そしたら…まるで見計らったようなタイミングで王立軍がやってきたの。そんな気配かけらもなかったのに、突然森から飛び出してきて。今にして思えば、村の誰かが最初から軍を呼んでたんだわ。××××を討伐する口実を作るためにあんな提案をして…あなたが背中から落ちたのだって、王立軍の魔術師が何か仕込んだに決まってる…!」


 そこから先はわからないと言う。王立軍の部隊は村人たちを戦闘の邪魔と遠ざけて様子を伺わせなかった。


 だが。漏れ聞こえてくる音と声、そして繰り広げられるとんでもない規模の魔法の数々。

 何が起きたかを推察するには十分だった。


「次の日の朝に洞窟を訪ねた時には…××××はもう、すでに」


 王立軍たちは誇らしげに語った。討伐まであと一歩だった。あの薄汚いドラゴンめ。だが奴も恥を知っていたと見える。最後には自分から洞窟に入っていきおった。


 洞窟の入り口を厳重に魔法で封印した。如何にドラゴンと言えどあの強固な封印を解けはしない。


 そして王立軍は引き上げていった。

 勝利の宴を盛大に催し飲めや歌えやの大騒ぎを繰り広げて、嵐のように去っていった。


 アレックスが目を覚ましたのは、その三日後のことだった。


「なんで…なんでこんなことに。××××が何をしたの。優しい子よ、誰かを傷つけようなんて考えたこともなかったに決まってる…」


 ドロシーはそれ以上何も言わなかった。

 アレックスは強く妻の体を抱き寄せた。

 自分の目からも涙がこぼれた。

 左手で顔を覆っても、手の端からぼたぼたと涙が伝って床に落ちた。



 アレックスはそれから、村の一員として過ごした。


 村は平和そのものだった。戦争が終わり魔物の数が減ったからだ。

 たまに来る盗賊団を何とか撃退するぐらいが目立った脅威で、それ以外は何の波風もたたずに平穏無事な日々が過ぎた。


 アレックスはひたすらに働いた。

 ××××の予想した通り村の一員として中心的な役割を担い、誰からも信頼される存在になっていった。


 ただ、アレックスは時折、妙に空虚な表情をすることがあった。

 空を見つめてはぽかんと口を開け、どこか遠くを見つめている。


 話しかければすぐに戻るが、その時のアレックスは…本当に、どこか遠くの世界に思いを馳せているような感じすらあった。


 誰もが話しかけるのを一瞬ためらった。

 そして、我に返ったアレックスに、今のは何だったのかと問いかけられるものもいなかった。

 触れてはいけないものの気がして、誰も彼もが口をつぐんだ。


 アレックスは時折夜に姿を見かけられることがあった。

 村の外の森まで歩いていき、そのまま消えてしまう。

 そしてほどなくして戻ってくる。

 その時のアレックスはまるで幽鬼かのような気迫とおどろおどろしさを備えていた。


 時折村の誰かが問題行動として注意を促したが、アレックスのそれは改善される兆しはなかった。


 具体的な実害も出ていないということ、そして何よりアレックスの人望が篤かったせいで、その行動はそれ以上問題視されることはなかった。


 アレックス…アレックス・ドラモントは、そうやって生涯を過ごし、生を終えた。

 最期、臨終の瞬間、何故か拳を強く握ったまま開くことはなく…不自然に何かを握りながら息を引き取った。


 のち、医者がその手の中を改めたが、不思議と何も掴んでいなかった。死の間際になって錯乱でもしたのだろうと彼を看取った人は結論付けた。


 彼の握りこんだその拳は、ちょうど球体を掴んだように空洞が空いていたと言う。



 ここがどこかはわからない。ただ何をするためにここにいるのかはわかる。

 待っているのだ。自分の友達を助けてくれる人が来るのを。


 死の間際、自分の心のうちにため込んだ後悔。それが強烈に胸を焼いた。


 生涯肌身離さず身に着けたあの宝珠が―初めて、反応した。


 人生のうち何度もあの洞窟に足を運び、その度願いを込めて彼の救済を願ったが…一度も反応しなかった宝珠が。臨終の際になってようやく反応を見せた。


 アレックスは、気が付けば何もない空間にいた。


 辺り一面、ただただ白い。何もない。

 地面も空も境はなく、白だけが支配している世界。

 その世界でただ一人アレックスは立ち尽くしている。


「死後の世界…に行く前の状態、とかかな」


 不思議だった。ここがどこかは皆目見当がつかなかったが、自分が何をすべきかはすぐに分かった。


 アレックスはその場に腰を下ろした。

 座り込むべき地面も椅子も見当たらなかったけど、何故か自分の尻は確かな反動を覚えて固定された。


 自分は確かに座っていた。何もないはずの空間に、ただ一人腰掛けて、じっと何かを待っていた。


 時間の感覚があるのかどうか。それに意味があるかどうか。何もわからない空間だった。


 それでもアレックスは待ち続けた。自分がどうなったのか、死んだのか生きているのかそれすらも曖昧で。

 だがやるべきことはわかっていたから、ただただひたすら待ち続けた。


 そして、その人物はやってきた。


 真っ白な何もないだけがある空間に、突如として現れた一人の人間。

 見慣れない髪の色をして、見慣れない服を着て、そして聞きなれない言葉を放つ。

 だけどその人物が何を言っているのか、何故かアレックスには瞬く間に理解できた。


 もう嫌だ。逃げたい。


 その人物は確かにそう言った。

 地面らしき白い面にべったりと付したまま、ピクリとも動かない。


 よく見ると体つきからして女性らしかった。

 倒れ伏す女性は同じことを繰り返した。


 もう無理だよ。無理なんだってば。できないよ。助けて。お願い。ここから逃げたい…。


 アレクの手の中で、宝珠がらんらんと輝いていた。


 見つけた。自分の望みを叶えてくれる人。

 この宝珠を託すのに申し分ない人。

 この宝珠の力に引き寄せられる、強い願望の意思を持った人…。


「あなたの願いを叶えます。その世界から連れ出してあげよう。その後の願いもきっとこの宝珠なら叶えてくれるよ。代わりに…一つ頼まれてくれないか」


 その人物がゆっくりと顔をあげた。

 なんだか随分と生気がない。疲れ果ててやつれて、どうにもこうにも死にかけのように見える。


 それでもアレックスの言葉で瞳がきらめいた。

 淀んだような瞳の中で、希望の光がぴかぴか光っている。

 夜の闇そのもののような漆黒の瞳。

 アレックスは笑った。


「俺の友達の側にいてあげてほしい。俺にはできなかったことだから」


 その人間はただ茫洋とアレックスを見ていた。

 意味を理解しているのか、いないのか。

 それでも確かにこっくりと、深く頷いた。


 アレックスは微笑んで、彼女の手に宝珠を握らせた。


「行ってらっしゃい。…俺の友達を、よろしく!」


 そして、その人間は。緑の光に飲まれて見えなくなってしまった。


 アレックスの意識もそこまでだった。彼はただ、満足そうに微笑んで、そうして消えていった。

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