トイ・ストーリー4が日本で不評だった(らしい)理由?

 サブタイトルと通りの内容になります。

 作品に関する重大なネタバレを含みます。

 また、今回は特に個人的な見解に過ぎない事を強調しておきます。

 

 目下ネタ切れにつき、またまた近況ノートから掘り返した話題となります。

 日曜日から夢の世界へと旅立つ事もあり、我が家では予習がてらディズニーアニメの視聴を行っておりました。

 さて、これに伴ってトイ・ストーリーシリーズ四作品を通して視聴する事が出来ましたが。

 最終作の4については、我が家でも賛否の分かれる結果となりました。

 実際、私が調べた限りでは、特に日本国内での評判が今一つだった傾向にあるそうです。

 かいつまんでご紹介すると、

「ウッディが終始持ち主から無視されている」

「最終的にウッディが持ち主の手を離れ、仲間とも別れて野良おもちゃになるなんて」

 大きく分けてこの二点となるようです。

 前者については、事情が事情なので仕方がない面もあります。

 1と2において、ウッディ達の元々の持ち主・アンディは10歳前後の少年でした。

 しかし3ではアンディが成長し、大学生となっています。

 そこでアンディが引っ越す際に、ウッディ達を譲り受けた子供が、三歳くらいの・ボニーでした。

 実際、ウッディ(カウボーイの人形)の女の子タイプであるジェシーの方はそれなりに可愛がられていました。(※1)

 大学生となりおもちゃ離れをして久しかったアンディでしたが、それでもウッディ達への想いは根底にあり、女の子に託す際には躊躇を見せていました。

 その上で、断腸の思いで(と言うと大袈裟ですが)ウッディを託したアンディに対して、4での扱いは裏切りだと捉えた視聴者が相当数居たそうです。

 まあ、近況ノートでも書きましたが、三歳かそこらの女の子に対して向けるものとしてはヘイトが過ぎ、大人げないのでは、と思いますが……それを言っては話が終わってしまうので。

 

 おもちゃは何時か、飽きられ、忘れられ、最後には捨てられる。

 私も幼少期にお気に入りだったおもちゃやぬいぐるみの事は今でも覚えていますが、その一つとして手元には残っていません。

 現実的に考えて、これはおもちゃと言うものの宿命です。

 むしろ私個人は、3の結末に対して懐疑的でした。

 アンディからボニーにおもちゃ達が託されたとしても、それは彼女が成長するまでの、問題の先送りに過ぎないと思ったからです。

 だからむしろ、4でウッディが選んだ結末や、3で(手違いではありましたが)保育園に寄贈されるパターンこそ妥当な落としどころかとも思いました。

 

 3の時点でおもちゃ達は屋根裏部屋に仕舞われる事を受け入れるつもりでもいたようですが、自我がそなわっている存在としては、むしろ残酷な事なのでは、とも。

 そう、この「おもちゃが自我を備えている」と言う点も色々と問題をややこしくしていると思います。

 持ち主だった子供達は、その大前提を知りません。

 もし知っていたなら、4のボニーはウッディを無視する事は無かったでしょう。

 そして、作品の視聴者は、おもちゃ達に人格がある事を知っています。

 ボニーと、我々との、ここの齟齬を意識しないと、先程ご紹介したような、一方的に彼女に裏切りを感じるような事が起こってしまうのでしょう。

 これはトイ・ストーリーのみならず、あらゆる創作物において、作者・読者(視聴者)双方の立場から気をつけなければならないリスクでしょう。

 

 4、ウッディが野に下る結末は非常にしっくり来ました。

 繰り返しますが、3のラストでアンディからボニーに託された事は、問題の先送りに過ぎないと思うからです。

 ただ、と言う意味ではイエスとも言い切れません。

 私のみならず「おもちゃはいずれ飽きられ、忘れられ、捨てられる」と言う“現実的な”テーマをトイ・ストーリーには求めていなかった人も相当数居たのでは無いかと思います。

 サザエさん時空よろしくアンディの幼少期だけを舞台として、純粋なおもちゃ達の活躍劇だけを見ていたかった、と思った方も多かった筈です。

 つまり、物語としての出来が良い事に、必ずしも需要があるとは限らない、と言う事です。

 

 取り上げる作品を一瞬ずらしますが、“ガンダム0080ポケットの中の戦争”の小説版における逸話は有名なのでは無いでしょうか。

 これもそれぞれのネタバレにご注意くださいと前置きしておきますが。

 原作では、主人公の一人がすれ違いの末に命を落とす結末に終わりましたが、小説版では生還したと言う一行が加えられていたそうです。

 曰く「優れた悲劇よりも、陳腐なハッピーエンドを選んだ」との事で、アニメ版しか知らないながらも、非常に感銘を受けました。

 勿論、これにはアニメ版での悲劇があってこそではあります。

 また、ゲームの初代ペルソナがリメイクされた時、BGMが一新された事に、発売当初は不評が多かったそうです。

 私も聴きましたが、曲そのものは非常に良いものでした。

 ただ、初代ペルソナの思い出にある旧曲も名曲揃いであり、リメイクにも同じものを求めていた方が大半だったのでは無いかと思われます。

 少なくとも私であれば、いくら上質な新曲であったとしても、そこは変えて欲しくないと思った事でしょう。

 口さがないコメントでは「曲がクソ」と平然と言われていましたが、せめて「選曲がクソ」と言おうよ、と思いました。

 少なくとも私が聴く限り、曲そのものは非の打ち所がありません。

 他の曲を求められていた所に無理やりねじ込まれた事が問題の本質であった筈です。

 

 話をトイ・ストーリーに戻します。

 アメリカ本土においては「子供のおもちゃである事に依存していたウッディが、自分の為に生きる事を選んだ、意義ある選択だ」と好意的に受け止められているようで、私も純粋な感想としてはアメリカの方々寄りです。

 私の妻は逆に、ウッディがバズライトイヤー達と別れて野に下った事を大変残念に思っており、彼女いわく、

「神が唯一無二であるキリスト教圏の人達と違って、万物に神が宿ると考えている日本人には、受け入れがたい結末なのかもしれない」

 とのことで、理神論者の私としては、ああなるほど、と目から鱗でした。

 

 まとめると。

・作中人物と、我々現実の住人との齟齬は時に恐ろしい

・読者(視聴者)の需要次第で、優れた物語こそが悪手になってしまう

 という、二つのトラップが存在することでしょうか。

 やはりディズニーアニメは、日本の小説書きとしても色々と勉強になります。


(※1)

 そしてこのジェシーは、最初の持ち主である女の子がおもちゃ離れした事で見捨てられた後、アンディの手に渡った経緯がありました。

 同じおもちゃでも、持ち主の性別や年齢、性格次第で扱われ方が全く変わると言うのは初代の頃から明確に示唆されていました。

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