主人公の視点“だけ”が無い一人称小説の試み
近況ノートでも軽く触れましたが、去年末から書き始めた「世紀末ヒャッハー・スローライフ」(※1)
https://kakuyomu.jp/works/16817330650997620808
での試みです。
この作品は一人称視点で語られるのですが、必ず主人公以外の視点が用いられる……言い換えれば主人公の心情“だけ”が全く描写されない形になります。
これは私が独自に考えたものではなく、いくつか前例がある手法です。
有名な所で「桐島、部活辞めるってよ」や「プシュケの涙」、メタルギアソリッド4のノベライズ(著:伊藤計劃)(※2)も広い意味ではこの手法と言えるのかも知れません。
実の所、あるちょっとした仕掛けの為に冒頭の視点を主人公にしたくなかった事情があり「いっそ今回の視点を全部こうしてしまえ」と、土壇場での選定となりました。
実際、その弊害ーーと言うべきか、前向きに“特色”と言うべきかーーはすぐに現れました。
言うまでもなく、この手法を取ると言う事は、主人公の主観情報を一切捨てる事を意味します。
ある意味で、一人称でありながら、神の視点より主人公が遠くなります。
今回、タイトルから一目でわかるように、主人公はモヒカン
その主人公を問答無用でミステリアスにしてしまう手法と、正直食い合わせが良くありません。(※3)
「主人公の気持ちが全くわからない」事を逆にメリットに変える何らかのアイディア……それどころか作品の柱にするくらいの覚悟が必要となってきます。
さて、そうなると先ず思い付くのが「サイコサスペンスや
私の作品で言えば、サイコブラックや邪聖剣チェーンソーがこれに当たります。
あくまでも私個人の、この二作に照らし合わせてシミュレーションした結果ではありますが……意外と相性がよろしくありませんでした。
と言うのも、この二作はいずれも、その「常人に共感不可能な思考」を具体的に伝えねばならない構造をしています。
サイコブラックで言えば、意図的に罪の無い一般人を巻き込んでおいて、それを嘆き悲しむシーンがあるのですが、これは決して被害者をおちょくっているのではなく、本心から相手を想っての嘆きである=常人では話の通じない狂人である事を、間違いなく伝えねばなりませんでした。
それを、他人の視点から泣いていると言う“客観的事実”のみを抜き出した場合、被害者をおちょくって泣いている振りをしていると誤解されてしまいかねません。
その上、邪聖剣チェーンソーに至っては「日本では常軌を逸していた主人公ですら、異世界の極端な社会・風習に振り回される」と言うもう一つのコンセプトの為、心情を明確に書かねばならなかったのです。
かと言って、凡人・真人間を主人公とした(私の直近の作品で言えばマジクックなど)でこれをやった場合、どうなるのか。
これも、さしあたりメリットが思い付きません。
等身大の凡人を書きたい……言い換えればミステリアスにしたくない人物をわざわざ謎のヴェールで覆い隠してみて何になるのか。
創作と言うものにおいて作者が何か変わった事をするとなると、そこには必ず“意味”や“狙い”が生じる筈です。
読者としても、明らかに主人公の視点だけが省かれた作品だと気付いた時点で、何らかのトリックを予感するのが大半でしょう。
そうなると最悪「この主人公は怪しい、裏があるはずだ!」と、意図しない疑いを持たれるリスクも出てきます。
主人公をミステリアスにする以外には、外堀を埋めるようにその人となりを表現できる……と言うメリットはあると思います。
やはり、自分で自分をかっこいい! などと宣うより、他人からかっこいい! と推してもらった方が説得力があるのは間違いありません。
世紀末スローライフにおいても、この点は意識して書いてきましたが……事実上の二話目(証言01)で、即、デメリットの大きさを痛感させられました。
勘の良い方は既に予想できたかも知れません。
語り手が、いとも簡単に「主人公賞賛マシーン」と化してしまうリスクが非常に高いのです。
ただでさえ、わざとらしい心酔ぶりを晒す“仲間キャラクター”が生じがちなジャンルにおいて、主人公のカリスマ性を伝達する手段が「周囲に居る人間(それも、主に身内)の声」しか無い。
やっている事に相応の実が伴っていれば賞賛・心酔に値するのは確かですが、それを伝えるにしても「仲間の評価と言う名の主観」を通す事になります。
少なくとも、主人公の行動の成果が出るまでの、語り手の言動については特に危険が一杯です。
しかし、「主人公について思うこと:特になし」と言わせ続けるわけにも行かず、何かしらの評価をさせなければ話が進まないジレンマを常に抱える事になります。
ちなみにこの点も、先に挙げたプシュケの涙が上手いと思いました。
常に余裕然として、まさしく他人から見れば苦悩とは無縁に見える天才がほんの一瞬だけ内面の脆さを見せるシーンは、この手法だからこそのインパクトがありました。
彼の内面が普段から克明に描写されてきたなら、こうは行かなかったでしょう。
ただ、この作品については、本三冊分の短期スパンで完結するシリーズであるから出来た事でもあろうとは思います。
それと、語り手の人数がそれなり以上の場合、当たり前ですが群像劇の特性を帯びる事となります。
ヒャッハースローライフでは、それぞれまるで性格の違う視点を毎話切り替えられるので、作品全体にメリハリが出るかな? と期待しています。(少なくとも、書いている方としては気分転換になっています)
ただ、なるべく語り手同士の距離や舞台の範囲は主人公から離さない方が無難かも知れません。(立場的な敵味方などは関係なく)
結局、話のほぼ全てが主人公についての言及になる筈なので、語り手の人数の多さに反して、あまり広範囲を見渡すような・あるいは収束していく物語には向いていないのでは、と思います。
先程、群像劇の「特性を帯びる」と言う、煮え切らない言い方をしたのはこの為です。
無論、語り手となる人物の書き分けにも細心の注意が必要です。
……今回のヒャッハースローライフの場合、よりにもよって「出てくる女の子の属性をわざと被らせる」と言う、かねてより考えていた別の試みも兼ねているのですが、無計画な好奇心によって招いた自業自得と言えます。
無事、書き分けられると良いですね。
若干とっ散らかりましたが、まだ書き始めたばかりの時点での所感はこんな所です。
イメージとしては“孤独のグルメ”のように、淡々と、マイペースにVRMMOの世界を生きるようなシリーズにしていきたいのですが、果たして。
(※1)
正確には、ヒャッハースローライフの方が副題で、主タイトルは「VRMMO制度の世界を淡々と生きる男」の方なのですが。
この先、アイディアが浮かべば、ゲームタイトルごとにシリーズ化する予定です。
(※2)
主人公のソリッド・スネークではなく、無線越しのサポート要員であり相方のオタコンの一人称で語られています。
とは言え、オタコンがどう行動したかではなく、あくまでもオタコンの目(と心理)を通してのスネークの行動を描写しているので、純粋な第三者視点と言い切れるかは微妙な所です。
大体、メタルギアソリッドのノベライズを買う層と言うのは、スネークを主人公として本編をプレイした(あるいは動画を観た)方が大半だからこその手法でもあるでしょう。
桐島~は桐島本人が全く登場しないので、これも厳密には同じと言い切れない所があります。
参考にした中では、プシュケの涙が一番今回の試みに近いかも知れません。
(※3)
とは言え、書きたいものが何であるかを改めて自問すれば、少なくとも北斗の拳のモヒカンやらフォールアウトのレイダーやらをただただ書き連ねたいわけではなく「それをロールプレイする未来の日本人」であるので、最終的にコンセプトが矛盾する事はないと判断しました。
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