近年、特化型・オンリーワン型主人公が好まれる理由? ~中二病と高二病~

 以前、別項でRPGツクールの思い出を語った際、自分や当時の学友をパーティメンバーとした作品を作った話をしました。

 作者特権と言うか、自分をモデルとしたキャラクターの性能はあからさまに優遇されており、

 全ての回復魔法を使える・最も高威力の攻撃魔法を使える・必殺剣も完備という、あからさまなドラクエ型勇者タイプでした。(※1)

 当然、魔法を弱い設定にされた運動部の友人や、体力を低く設定された魔法使いタイプの友人からは白い目で見られていましたが、これこそが中二病と言うものなのだと思います。

 

 さて、そこから知恵が付くと、ある程度の慎みを覚えます。一応“自分”にも弱点を設定するようになりました。

 ツクール3が出た辺りの身内ネタRPGにおいての自キャラでは、過去作の回復魔法・攻撃魔法・近接戦闘の三冠王は踏襲しつつも、体力や防御力が低いと言う弱点を設定しました。

 これには、当時の部活動で、他のチームメイトに比べて持久力が劣っていた事に起因しているかと思います。

 しかし結局のところ、鎧などの重装備が可能であり、魔法耐性も非常に高い為に、HPの低さを隠れ蓑にした、制約になっていない制約と言うのが実態でした。

 

 さて、自分を万能勇者型に設定できたのは、それが制約の全くないRPGツクールだったからです。

 同時期、私はウィザードリィ(仲間全てを自作するキャラメイク制)もプレイしていたのですが、これも自分達をモデルにしてパーティを作っていました。

 当然、自分の設定もウィザードリィのルールに則って決めなければなりません。

 妥協の末、まず“自分”の職業は君主ロードと言う、聖騎士、あるいはパラディン的なものにしました。

 このクラスは剣が使え、重装備も出来て専用の最強鎧もあり、そしてヒーラー系の魔法も覚えられます。

 つまり、ツクール時代のそれから攻撃魔法を妥協した形となります。

 サムライと言う、君主とは逆に攻撃魔法と武器の面で優遇された前衛クラスもありましたが、そちらを選ばなかったと言う事は、この時点で「RPG世界における自分像」が固まりつつあったのかと思います。

 

 そして、ネットゲームをやり始めます。

 実在の他人と行動を共にする性質上、全ての職業は厳格なバランス設定によって一長一短の性能になります。

 必然的に、“自分”の長所を明確にし、引き換えに短所を甘んじて受ける選択を迫られます。

 流石にRPGツクールの時ほどの万能感からは脱却していた年齢ではありましたが、ウィザードリィ気分の抜けきっていなかった当初。

 性懲りもなく、僧侶のクラスを選んだ上で、ステータスを満遍なく上げると言うバランス型にしようとしました。

 しかし、私をゲームに誘った友人から「まともにパーティに参加できない程の駄キャラになる」と強く引き止められ、再考する事になりました。

 他者が関わる世界において、これまでの甘えを一切絶たれた上で「自分がRPG世界で戦うとしたら」と言う仮定と真剣に向き合う事になります。

 ベースを僧侶にした時点でほとんど天秤は傾いていたと思いますが、たどり着いた結論は「回復魔法だけは必須」と言うものでした。

 

 回復魔法を重視したはじめの動機こそ、ポーションで回復する度にお金を気にしたくない、と言う快適性もあり、何より、一人で戦い抜く為でもありました。

 しかし、ゲーム内で共闘する固定パーティやコミュニティと出会い、回復魔法や補助魔法で仲間をサポートする役割が自然と巡ってきます。

 すると、攻撃も自分で行う、これまでのスタンスから一変。攻撃を仲間に任せた上で、如何に確実で効率良くサポートするかと言う、仕事に対する術理や矜持が出てきます。

 一戦一戦の技量(プレイヤースキル)が向上し、仲間に直接認められるようになると、当初思っていたものとは違うプライドや承認欲求が生まれます。

 “自分”の強さの理想形が、勇者のそれから、一芸に秀でた特化型、オンリーワン型へと変化して行ったのです。

 思えば、ドラクエ5の主人公が、自身は残念ながら勇者では無かったものの「モンスターを仲間にする」と言う特殊能力は、ある意味で勇者単体よりも強力であり、高二病的オンリーワン型の先駆けと言えるのかも知れません。

 結局、その能力も先天的なものである辺りも含めて。

 誰しも、何らかのコンプレックスを抱いているであろう世の中、得意分野が何かと言う自認は大事です。

 あるいは、小説など作品を書くと言う行為もまた、多くはそれなのでしょう。

 そして現実よりも単純化されたゲーム内社会においては、遥かに早く結果が出るのです。

 ゆえに、ネットゲームから創作に入った層の方は短期スパンで結果を求めてしまうのかも知れません。

 結果、世界観やプロットの方が主人公(“自分”や読者の投影)に忖度するような話になってしまうのでは、と。


 今回は、あくまでも私のケースをご紹介していますが、MMO経験者の相当数は、こうした経緯を辿ってきたのではないかな? と邪推しています。

 当然、全ての人が私とは違う“自分像”を持つ……言い換えればこれまでに受けてきた影響が違うお陰で、私は戦士や魔法使いと徒党を組む事が出来たわけです。

 例えばアクション性の高さから剣士を操作する機会の多いテイルズオブ~シリーズにハマった人は、憧れや投影も剣士に向くのかも知れません。

 高二病のベクトルが「リアル志向の洋ゲーをプレイする自分は特別だ!」と言う方向に向いていたなら、全身甲冑と言う、モブキャラみたいなビジュアルに拘るのかも知れません。

 また、この時期はHUNTER×HUNTERなどの、トリッキーなタイプが格好良く書かれている漫画も人気を得ており、ライトノベルなどでも「局地的な状況で、やる時はやる」タイプを見掛けるようになったのでは無いでしょうか。

 “主流”が逆転すると「一捻り」の意味も変動、時にはそれまで陳腐とされていたものが目新しいとされるのが世の常です。

 先程挙げたHUNTER×HUNTERでは、キメラアント編と言う、敵の種族が圧倒的に強いパワーゲームとなった際にも話題を呼びました。

 また、たまに広告などでも見掛けますが、あえてバランス型の能力でどう戦うか、と言うテーマの作品も見受けられるのは、先述の反動からなのでしょう。

 器用貧乏の代名詞として、ドラクエ2の“サマルトリアの王子”が挙げられます。

 私自身は未プレイのシリーズなのですが「戦士よりも魔法が使え、魔法使いよりも武器が持てる」ように設定された結果、最終的には武器が弱い・魔法も決め手に欠けると言う二重苦を背負っていたようです。

 これには、比較対象となる仲間=相対的な母数が他に二人しかいない事が災いしたのかも知れません。

 最新作である11では、システムが洗練されたのもあると思いますが、9人の仲間で明確に“弱い”キャラクターは誰一人居ません。(※2)

 サマルの事情はさておき、そうした制約下で華々しく戦闘を書くのはなかなかに難しそうだとは思います。

 

 とにかく、中二病と高二病と言うのは、常に変動して巡り続けるものなのかも知れません。


(※1)

 ただ、このキャラクター、今にして思えば無駄が多かったりします。

 攻撃魔法と必殺技の性能が似たり寄ったりで、両立している意味があまりなかった事が、その最たるものでした。

(※2)

 二人以上の仲間で使用可能な“連携技”による差別化などが、捨てキャラを作らない要因の一つでもあると思います。

 また、ストーリーの途中で純魔法使いの性能をしていた姉の能力を、純僧侶タイプの妹が全て継承する展開があり、単体の性能としてはもう一人の賢者の完全上位互換となります。

 しかし、二人だった戦力が一人に統合されると言う事は、1ターンでの選択肢も1回に減ると言うこと。

 妹のこの覚醒により、むしろもう一人の賢者には、択の多すぎる彼女の手が回らない時のフォローと言う、新たな役割も生じています。

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