応援コメント

「異世界に転移したらエルデンリング(死にゲー)でした ~人間の怖さと人外の怖さ~」への応援コメント

  •  ホラージャンルにおいては、アルフレッド・ヒッチコック監督が1960年代に制作した2作品が、映画のみならず全媒体におけるホラーの主流を変えたって言われておりますな。
     それ以前、つまり1950年代までのホラーと言えば、ドラキュラ伯爵を筆頭とする吸血鬼モノ、外惑星からやってきた侵略異星人、巨大怪獣を含めたモンスター映画等が主流で、強いて言うなら「日常の外からやってくる恐怖」だったのですよね。
     それが1960年の『サイコ』では「人当たりの良い好青年が、実は連続殺人の犯人だった」、1962年の『鳥』では「ハト、スズメ、カモメなどの普段見かける鳥が一斉に暴れるだけで社会が崩壊してしまう」といった事を描くという、「日常の中に潜む恐怖」を提示したんですよね。
     そうすると実感のない「日常の外から来るもの」に対して観客が恐怖を感じなくなってしまい、そういった「外部からの脅威」を描く作品自体は生き残ったものの、アクション、ヒーロー、ヒューマンドラマ等の要素が強くなり、ホラージャンルからは駆逐されてしまいました。

     文中でも言っておられるように、現代のホラーというのは、いかに「自分の身近にもあるかも」と想起させる事が重要って事なんですよね。

    作者からの返信

     “鳥”は観た事がないのですが、触りを聞いた感じ、すごく面白そうですね。機会があったら観てみようと思います。
     
     やはり、例に挙げたエルデンリングにしても、ドラゴンだとか魔獣が相手だと「何か攻略法があるだろう」と言う希望が持てるんですよね。
     プレイヤー型の敵対NPCは、お互いの能力が最初から知れているので「勝てない」と悟らされるのが早い。
     ゴジラにしても、
    「現実に居るわけがない」のと「現実に居たら対処不可能」と言うのと、どちらの立場から考えるかによっても驚異度がまるで違う筈ですね。
     以前、カクヨムである怪獣ものの作品を読んだのですが、現実に地底の底で眠っていてもおかしくないと思わせるのが巧みで、読んでいて「万が一……」と考えて恐ろしくなりました。
     
     恐怖に対する当事者意識を持たせられるかどうかが鍵のようですね。

  •  人外物を好んで題材に取り上げる人でも、モンスターが好きな人と妖怪が好きな人では大分人外の捉え方が違うと感じますね。もちろん、妖怪好き同士・モンスター好き同士であっても解釈の違いというのはありますし。

     拙作(メイン連載)の場合ですと妖怪は未知の脅威になるのかもと思いました。
     主人公は物語開始時点までは人間として暮らすように育てられていましたからね。
     但し、妖怪連中は人語での意思疎通が可能(別作品「四六の~」の玉藻さんをイメージしていただければと思います)なほどの知能を持っていますので、本文中の「半モンスター」に近いのかもしれません。
     作品の性質上戦闘シーンは少ないですが、戦闘になると主人公は苦戦していますね。

    作者からの返信

     恐怖の対象に対する理解の度合いも、条件によって千差万別だと思いました。
     妖怪などは伝承などである程度、情報が残っていたり、本文中で例に出したゴジラなんかも再戦を繰り返した場合、未知から既知にシフトして心が折れてしまう可能性もありますね。
     そう考えると流動的な感覚でもあり、非常に掴み所が難しい気もします。
     
     時に、アグレッシブに攻めるには、現実に対してある程度無知であるほうが、うまく行く事もありそうです。
     思い付いた発端が、死んでもやり直しのきくゲームと言うのもありますが。