正当なハーレムを書くには?
前回、現代日本で一夫多妻を行っている事例を取り上げた所、“ポリアモリー(多対多の恋愛形態)”のついてコメントを頂き、もしかしたら引用元の男性にも無関係では無いのかも知れないと思い、改めて調べてみました。
結論から言えば、前回引用した男性については「ポリアモリーと認めてはならない」と思います。
何故かと言うと、ポリアモリーが認められる条件として「関係者全てが同意している事」が必須となっています。
少なくとも奥さんAに納得を強いた時点でこのルールからは外れます。後に納得を得られたと言う意味で現在はセーフ……と言う見方もあるかも知れませんが、それなら「再度、納得できなくなった」可能性にも目を向けねばなりません。
自分で制御出来ない、と言う旨の発言がいくつかあった所を見ると、この男性単独としての性的嗜好は、やはり多対多にならざるを得ないのかも知れません。
だとすればやはり、自分の特性に無知なまま誰かに割を食わせている時点で、むしろ認めてはならないと思います。
実際、ルールを守ってポリアモリーをなさっている方々は「浮気や遊びの言い訳にしている」と第三者から責められて苦しんでいると言います。
そう言う偏見が生まれるのは、ルールを守らない実例を作った人達の責任もあると考えます。
私もたまたま、予備知識を得るきっかけがあったので比較的「本物と言い訳」の区別がついている方なのだと思います。それでも完璧には程遠い筈です。
「本音のまま生きたい」
一見してもっともなそれを、無秩序に容認したらどうなるか。
些か幼稚で乱暴な言い方になりますが「あの人に死んで欲しい本音を押さえきれないから殺す」と言う理屈も通ってしまいます。
私は、結婚して子供を持つよりも遥か以前から、小児性愛者だけは容認出来ませんでした。
性の多様性について学ぶ機会にも(平均よりやや)恵まれ、そうした感情をコントロールするのは実は困難であると、充分に知った上でも、なおです。
それについて、啓発活動に参加している知人には、
「子供を好きになってしまう気持ちは仕方がないと思う」
と言われました。
しかし、例え金を渡すなどして児童が納得した上であっても、児童側の気持ちが同じであっても、そこには被害者が生じていると思います。
大人は子供を守らねばならない。
子供を食い物にしてしまうのを止められない。
どちらも本能に根差した「本音で生きている」のは同じであり、後者ばかりを尊重しなければならない道理は無い筈です。
また、私は例えば「三人で育てる」など、生まれて来た子供に影響を与えた時点でポリアモリーのルールを破っていると認識しています。
だから、子供が出来たらポリアモリーを辞めるか、そもそも子供を作らないで欲しい。
私のこうした考え方も「性の多様性」の一つではないかと考えています。
これには、私自身がやや定形外の環境で育ち、周囲との感覚的なギャップに苦しんできた事と、定形外の環境で育った結果歪んでしまった何人もの人間に苦しめられてきた、両方の立場での経験があるので、どうしても他人事として流せないのです。
これもまた「コントロール不可能な感情」であり、例えば復讐に走る理由にしようと思えば出来てしまいます。
そんな暇はないのでしませんが。
そしてまた、私の両親も、それぞれ定形外の家庭で育ったのだと、私は見ています。
ここで私もそうなりかかった(今もそうかもしれない)事を説明しないと、前回「定形外の家庭では危険な育ち方をする恐れがある」と主張する差別主義者になってしまうので、今回付け足しました。
何故、殊更こんな主張をするかと言うと、ポリアモリーについて調べていた折りに、自身のそれを公言した人の記事を読んだからです。
曰く、
「ポリアモリーを肯定する人・全否定する人・部分肯定する人と居るが、この中で一番卑怯なのは部分肯定の人だ。
ポリアモリーを出汁に、自分が公共側の味方であることをアピールしている。本当に肯定する気があるのか」
と言うものでした。
更に、
「世間は認めないけど、私は認める」
「私は認める。世間は認めないけど」
この「“私”と“世間”」の順序一つで、当事者を傷付けてしまうんだよ、と言う事を主張なさっていましたが、
そもそも何故、モノアモリー(一対一の恋愛をする)側の人間が、一方的に顔色をうかがいながら話さねばならないのか? と思います。
これは、私がこの創作論で何度か取り上げて来た、一部のLGBT啓発活動に対する違和感と同じものです。
私のポリアモリーに対する見解は、先述の通り。まさしく“部分肯定”ですが、自分が公共側の味方だと誇示したいからだろうと言われてしまうのは心外です。
とにかく、こうした主張には万事が“自分”しかありません。
部分肯定する人の中には、私のように、嫌でも子供側に共感せざるを得ない結果の人も相当数居る筈なのに、そうした「都合の悪い」可能性には一瞥だにしない。
全肯定(味方)と全否定(絶対敵)に二極化出来たほうが、戦うには楽でしょう。
前回引用した一家もしかり。結果的に計6人の子供を設けたと言いますが「今の所いじめられていない」だとか「子供は自然に受け入れている」だとか、自分達に有利な上辺だけを拾って、正当化に余念が無いなと思いました。
もう一つ。
この方は別のトピックにおいて「時間差一夫多妻」を根拠に、ポリアモリーを擁護していました。
曰く「交際(結婚)しては別れを繰り返し、常に一対一の形を維持するのも、一夫多妻と変わらない」
との事です。
これについては、ここで何度か紹介した私のネットゲーム時代のリアル追放リーダー、および、自著・マジックック(以下略)における追放リーダーが当てはまります。
もっとも、前者はその程度の堪え性も無くなり、最後には(ゲームのシステム上とは言え)重婚に走りましたが。
しかし、こうした「交際を計画的にコントロールする輩」と、通常の、やむを得ず破局したカップルとでは本質がまるで違います。
そんな事を言い出したら、世の中の夫婦の大半が時間差ポリアモリーになってしまいます。
確かに、前者にはその証拠を残さない狡猾さがあるので、対外的には同じとも言えるかも知れませんが……そうした、機械で測定出来ない事柄を自我で判別してこそ人間、と言う“私見”を述べるに留めておきます。
勿論、問題はグラデーションを描いていて、ポリアモリーかモノアモリーかの境目も簡単には定義できませんよ、と言う意味でもあるのは承知しております。
前置きの方が長くなりましたが、本題。
小説でハーレムを書くと言う事は、ポリアモリーを書く事なのかも知れないと考えます。
大前提として、関わった全ての人間が納得している事。それも「主人公が好きだから、私は良いの!」と言う短絡的なものではなく、相応の根拠に基づいた描写の上で。
そして忘れていけないのは「ヒロインが他の男と二股をかけた場合も無条件で許さねばならない」と言う事。
同じ事を相手にされて嫌でないのなら、それは正当なポリアモリーなのでしょう。
勿論、ヒロイン側だけがそんな事をしない関係も、納得さえしていればポリアモリーなのでしょう。ただし、小説作品となると更に読者も納得させねばならないので、なおのこと至難だと思います。何故なら、読者は所詮他人であるから、一夫多妻を拒絶した所で主人公に捨てられる謂れも無いからです。
そうなると、ハーレムものと言うのは実はかなりニッチな属性を書いている事になります。
自らそれだけの苦難を選択している事に自覚的かどうかは、描写の出来に出てくる事でしょう。
願望が先にあり、そのために現実の方をねじ曲げる。
巷でサイコパスだとかソシオパスと言われる人達と全く同じ特徴です。
そして、小説を書くと言うのは「作中の現実をいとも簡単にねじ曲げてしまえる」事。
小説を書くと言う行為は、その性質上、ソシオパス思考に引っ張られやすいのかも知れません。
だから、ヒロインを奴隷商から買ったり、挙げ句の果てには洗脳してモノにするような物語が生まれてしまう。本来、現実ではそんな事を思い付きもしない人達によって。
けれど、それを読むのは我々“現実”の住人なのです。
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