小説家は多弁なのか
小説にさほど明るくない人に小説を書く事を言った結果、貼られるレッテルは大体決まっているのでは無いでしょうか。
芸術家、理屈屋、夢追い人、たまに奇人変人のレッテル。
確かに、時には日常で使わないような難しい言葉も扱うし、プロの世界で成功するのは一握りの人だけ、歴史上の作家でも変わり者がそれなりに居る。
一昔前は、小説家だと知れると、真っ先に頭の正気を疑われる事もあったとか。
とりあえず、相手との関係の深さ・長さにもよりますが、実害がない限りは思いたいように思って貰えれば良いとは思いますが……。
しかし、どうにも無条件で「言葉や文章に強い」と決め付けられる、もしくは「君の話はどうせ自分には理解出来ない」と決め付けられるのは立派な実害では無いでしょうか。
作風や想定している読者にもよりますが、小説とは伝わらなければ意味がない……逆説的に、最大限確実に伝わるように書くのが小説だと考えます。
(わかる人だけ読めば良いと突き放しているケースは別ですが)
少なくとも「自分の想定している読者」には確実に伝わるよう、時には苦心して書くものだと思います。
あくまでも現在の私の場合は、ですが、小説を書き続けた結果、何事もシンプルに短く切る、というスタンスに落ち着きました。
雄弁な言葉を使うのは、ここ一番の場面まで温存します。
特に、難しい言葉と言うのは「他に被る言葉がそうそうない」と言うメリットがあり、案外、確実な伝達に貢献してくれます。
難しい言葉と言う葉っぱは、簡素な言葉と言う森に紛れさせてこそ真価があると思います。
これは小説にしろスピーチにしろプロポーズにしろ日常会話にしろ、です。
つまり私の場合、小説を書き続けた結果、逆に口数が少なめの人間に変わっていった事になります。
先日、あるトラブルでゴネてた人が居たので色々説明する機会があったのですが、その人物をよく知る知人に説明が足りないと言われました。
大事な要点は押さえていましたし、この人物のようなタイプは、言葉が多ければ多いほど枝葉末節な部分を無差別に拾い、論点がどんどんズレていく危険があると言う判断でした。
しかし知人が言うには「あの人には1から10まで説明しないと、空白の部分を勝手に埋めて暴走する」との事で。
まこと、この世はめんどくさ――ひと筋縄ではいきません。
また、自費出版を考えていた時期、その印刷会社が地元のローカルな発信を行っていた関係でインタビューを受け、最後に一言、意気込みをコメントする機会がありましたが、これについても先方は「小説家ならではの濃い言葉を!」と期待していたそうで、肩透かしを与えてしまったのではと思います。
プロポーズの言葉なんかも、友人らにはさぞ凝った演出と言い回しがあったのだろう、と言われたのですが、そうでもありません。
大袈裟な言葉や力のこもった言葉、そして偉人や名作の引用と言った言葉には、発した本人を酔わせ惑わせる効果があると、私は考えます。
一応人生のターニングポイントになるであろう時にこそ、文字通り自分の言葉に酔うべきではない。そう考えました。大事な事を決める話で、お酒は原則飲まないでしょう。
特に偉人や名作の引用については、自分の力で出した言葉ではない事を忘れると、色々と見誤る危険も伴うと思います。
周囲の“小説家”への偏見もさる事ながら、自分自身が“小説家らしさ”と言う世の中のステレオタイプに引っ張られ、盲目になる事もまた、気を付けねばと思います。
まあ、自分に関係の無い分野とは、理屈をすっ飛ばしたステレオタイプで見られがちとは思います。
掘り下げて調べるのは莫大な労力が掛かりますし、また、それだけの労力を支払う意義も感じられない。
だから、先人達の総評を手懸かりにして、とりあえずの評価を下す。
私達とて、例えば俳優やタレントの私生活は、みんな派手で豊かだと思い込みがちでは無いでしょうか。ボクサーは皆が皆オラオラ系だ、とも。
感情とは価値判断のショートカット機能である(伊藤計劃著・虐殺器官)という一文をまた思い出します。
あっ、これも名作の引用でした。
小説家とは、必ずしも理屈屋・お喋りでは無いと言うのが私の考えですが、皆様はいかがでしょう。
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