安直な死?

※今回は、自著「毒食グルメ」の内容に一部触れるので、ネタバレが気になる方はご注意ください。

https://kakuyomu.jp/works/16816452219661193379

 これも、そんなに長くない小説です。

 

 

 

 毒食グルメは、正直なところ、“死”が安直な使い方をされている小説かも知れません。

 主人公はどれだけ毒物を食べても死んでいません。

 身も蓋もないのですが、小説だからです。現実で(作中で語られているだけで)7回もこんな事をしたら確実に死にます。

 まるで、車にはねられても✕印の絆創膏がつくだけで済むギャグマンガのような気軽さすらあるかも知れません。

 一方で、後に恋人となる香莉奈は序盤も序盤の段階で末期がんを告白、次話の一行目で既に故人となっています。

 これには、構成の実験や私の毒物に対する引き出しの都合もあるのですが、まさしく「物語の都合で生き死にが決まっている」わかりやすい例でもあると思います。

 

 弁明と言うわけでも無いのですが、小説における人物の死とは、全てが「物語の都合による死」だとは思います。

 そこで納得されるケースと安直だと言われるケースに分かれるのは、どういう事か。

 シンプルな話、その人物を死なせる目的が「次に描きたいものがあるから」なのか「読者を泣かせてやろう」と言う即物的な所で終わっているかの違いだと思います。

 私が毒食グルメで香莉奈をあそこで死なせたのは、第一に「彼女のお陰で変われたかも知れない主人公の変わる余地が潰えた、しかし、そもそも彼女が癌でなければ出会う事も無かった」ジレンマを書きたかった事。

 もうひとつは「人が肉体を失い、過去の存在となる」死の側面のひとつを表現するため。

 先に香莉奈の死を置く事により、後に語られる旅行の思い出や、毒を食う・食わせまいとする攻防の日々の意味合いがまるで違っていた筈です。

 彼女に未来がある、あるいは死期が近いことを伏せた状態では、全く同じ文章でも受け取られ方は変わったのでは無いかな、と。

 

 逆に“死なない”事にも書き手の作為があります。

 最初に触れた、毒食グルメの主人公がいくらヤバい物を食べても決して死ななかった事もそうです。

 例えば全7回の毒食シーンがあるのに、3回目で死んでしまったら、後の4回と、その果てにある結末に続かないからです。

 もっとポピュラーなもので言えば、戦闘などのある分野。主人公は、主人公であるだけで、戦死する可能性は低くなります。

 中途半端な所で死んだら、話が成立しないからです。

 その作為を感じさせない、あるいはそこを超越して「誰が死んでも納得せざるを得ない」境地に至れば、面白い話がもっと書ける気がします。

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