第14話 運命の支配者

 十四 運命の支配者


 どこまでも伸びる回廊。シミ一つない漆喰の柱。帝都ローゼンヘルの中央に位置するアドラー宮殿は普段政治を担う国会議事堂としての役割を担っているが、今日は戦意高揚の式典のため一般人に開放され大勢の人でにぎわっていた。

 膝に擦り傷のある少年や港湾労働者、金融街のビジネスマンや赤子を背負う乳母まで、帝都中の雑多と混沌を詰め込んだような回廊は、室内で寛ぐ高貴な人々には数秒と息も出来ないだろう。

 だからそんな回廊の中で、二人の高貴な人間が追いかけっこをしていれば、周りの平民達は好奇の目で眺める他なかった。勿論、貴族にとっては必死なのだが、彼等は感情を表にあわらわすことは滅多にないため、それが滑稽さに余計拍車をかけていた。

「だから、礼服は後で着ると言ってるでしょう。戦車の中で着て、オイルまみれの服で陛下の御前に出るわけにはいきません」

 振り返る貴族は顔をしかめ、それでも平民の手前落ち着いた態度を崩さぬよう冷静な説得を試みた。洗っても落ちない汚れに浸食された軍服は尉官のそれだったが、端整な顔と優美な物腰は彼女が高貴な者であることを証明する。

 振り返った女の横顔を見て、アイスクリームを舐めていた子供が硬直する。道の真ん中で停まった子供を押しのけて、追う側の貴族――大礼服のいかにも貴族の男――は伸ばした手で女の肩を掴んだ。

「ヴァローナ、父上たちに挨拶もせずに行く気か? 兄に免じて顔だけでも出してやれよ」

 ひく付く頬を痙攣させて、無理な笑顔を浮かべた兄と名乗る男が言った。引き寄せられた女、ヴァローナ・フォン・オルレンドルフは、兄の儀礼的笑顔に嫌気しながらも、肩に食い込む腕の強さに渋々従うしかない。

「会えば、ドレスなり礼服なりを着てパレードに出ろというのでしょう。私一人だけ新品の服なんてかえって悪目立ちです」

「そうはいかん。オルレンドルフ家の者がこんな小汚い格好では、どこの乞食かと馬鹿にされる。大体軍はなぜ新品の服をよこさん。気の聞かん連中だ」

「今日はそう言う……イタ、コンセプトなのです。銃後の民にも戦争を身近な危険だと知ってもらう、国王陛下の聖慮であらせられますよ」

「ならなおさらだ。我々貴族への配慮があって当然だろう」

 ぶつぶつ文句を言う兄に引っ張られ、ヴァローナはついにサロンの一室まで連れてこられてしまった。中には数多の貴族たちが、小汚い軍服姿で現れたヴァローナに冷めた一瞥をくれる。

「……だから新品の服にした方が良いんだ。ほら、あっちの方に皆いる」

 渋々と足を進めるのを後ろから兄に小突かれるようにして、ヴァローナは会いたくもない家族の下へと向かった。六人の男女、全員が黒髪の人々が彼女の方を向く。四人の若者たちは貴族らしい能面の如き笑み、年配の男女は眉間にしわを寄せて家長とその妻に相応しい威厳を示す。妻の方、目じりにしわが目立つ尊大そうな女は目を細め、その高い鼻に相応しい高慢な口調で話し出した。

「ハフナー……」

 名を呼ばれた兄は頭を垂れ、神妙に目を閉じていった。

「何でしょう、母上」

「何でしょう? 見て気が付かきませんか、ヴァローナの格好を見て。お前の命はこの子を連れてくる事ではなく、貴族に相応しい格好に着替えさせてここに連れてくる事、そう申したではありませんか。それを忘れて……一体何をしていたのです」

 慌てて頭を下げる兄は、他の兄弟たちからの冷笑に気が付かない。

「も、申し訳ござません。どうにも私めの言葉では、この者を説得するのに不足でして」

「それで母に言いつけに来たと? 全く……」

 心底軽蔑の鼻息を漏らして、母親は明後日の方向に視線を移してしまう。ニヤリと、ヴァローナは皮肉と呆れが混じった笑みを浮かべた。鼻筋に血管を浮かべ、怒りを懸命に隠そうとする兄は、もう一度彼女の肩を掴んで引っ張っていこうとする。

「兄上。ですからもう時間が――」

「黙れ、女中共に無理やりやらせても良いのだぞ……!」

 ドスの効いた低い声で兄が脅すも、ヴァローナはこれを氷の如き視線で跳ね返した。たじろぐ兄。愚息の不出来さに呆れた母親が家来を呼ぼうとしたその時、

「ちわーす、大将! やってるぅ?」

 ドアを蹴り開けて、ガードを振りほどいたヴェンツェルがワイン片手に乱入してきた。

「何だあこの酒場、給仕も女給も皆怖い顔してやがる。そんなんでぇ、商売になるんですかねえ、ぼくぁすっごく心配です! はい!」

 世迷言をのたまいながら人をのけ、ヴァローナの傍まで難なく接近したヴェンツェル。立ちはだかる兄を鮮やかな体術で組み伏せると、ヴァローナの肩に手をかけた。酒臭い息が鼻腔を刺激して、ヴァローナは思わず顔をしかめる。

「伍長……」

「伍長? 俺はァ大将様だぞぉ! ……それより姉ちゃん、かわいい顔してんな」

 ヴァローナを無理に引き寄せるヴェンツェルは、そのまま外に出て行こうとする。

「ちょっと向こうでお茶しませんこと? お嬢さん!」

「ま、待ちなさい! 社交場を荒らす狼藉、祭りの日と言え見逃せぬ!」

 意表を突かれたヴァローナが引っ張られて行こうとしたところで、いち早く立ち直った母が一喝する。気怠そうに振り返るヴェンツェルは怒鳴り返した。

「ババァに用はねえ! すっこんでろ」

「ば……」

 絶句する母の前で、ヴェンツェルの脳天に拳骨が振り下ろされた。雷に打たれたように硬直し、がっくりと意識を失うヴェンツェル。彼の体を担ぎ上げ、ギャラリーたちに冷たい視線を送るのはオットーであった。

「どうも、お目汚しを失礼いたしました。皆様の寛大な御心に感謝するばかりです」

 勝手に許しを得たことにするオットーは、ヴァローナに左手を差し出した。

「時間です少尉、参りましょう」

「あ、ああ。では父上、母上、これで」

 そそくさと立ち去るヴァローナに対し、オットーは毅然として出口までの道を行った。日が照っている回廊に三人が姿を現すと、乱入者への侮蔑代わりと、後ろでドアが荒々しく閉じられた。

「クズめ……」

 顔をしかめたオットーが唾棄するように言うと、いつの間にか正気に返っていたヴェンツェルが尋ねた。

「それって……俺のことじゃないよな」

「勿論だ。さあ降りろ、ロクデナシ」

 同じじゃねえか、と文句を言うヴェンツェルを無視し、オットーはヴァローナの方を振り返った。手袋をはめ直すヴァローナはわざと間を置いた後、顔を上げ、今気が付いたというような顔を作る。

「何か言いたい事でもあるのか、准尉」

「いや、その……」

「……礼は言っておく、一応な」

 一瞥して顔を逸らすヴァローナは、前に視線を移した途端笑顔になった。見知った顔が二人、此方に歩み寄ってくるのが見えたからだ。

「少尉、久し振り!」

「ハンナ!」

 人を掻き分けて走ってきたハンナがヴァローナに抱きつく。体格差で倒れかけたヴァローナは寸での処で持ちこたえる。

「ああ少尉。一体どこ行ってたんです? 連絡ぐらいしてくれたっていいじゃないですか!」

「うぐぐ……ハンナ、倒れる……」

「あ、ごめんなさい」

気が付いて手を離すハンナ。後をゆっくり追ってきたゲオルクが、恭しく頭を下げる。

「……やあ軍曹、久々だな」

「音沙汰がないので、挨拶も無しに転属かと思いましたよ。少尉」

「あちこち引っ張り回されてね。軍も門閥貴族には逆らえんから顔も出せなかった。そっちは大事ないか?」

「ええ、丁度久々の任務を終えたところです」

 ゲオルクが言うと、後ろにいたオットーとヴェンツェルがしたり顔で笑っていた。

「なかなか堂に入った演技だったろ、准尉なんて最初は一人で充分とか言ってたんだぜ」

「悪いかよ」

「アンタ一人じゃ、邪魔する奴全員パンチして無理に押し通るだろ」

「何が悪い?」

「勘弁してくれ……お前が縛り首になるのは見たくない」

 げんなりした顔でヴァローナが言う。誰からともなく、五人の中から笑いが起こった。出会ってまだ二週間足らずである筈の四人は、ヴァローナにとって、姉との間に出来た秘密の友情に匹敵するものであるのは間違いなかった。

(姉上……)

 振り返り、サロンの入口を横目に見るヴァローナ。期待などしてはいない。だが……

「貴方も……いつか……」

 寂しげな垂れ目を元に戻したヴァローナは、自信に満ち溢れた何時もの顔で四人の先頭に立った。宮殿を抜け、今日は関係者以外立入禁止の公園に入った五人。公園中央を縦断する通りを渡ろうとした彼らの目と鼻の先を、ガラクタを積んだ装軌トラックの列が横切った。一番前を行って引かれそうなったヴァローナは驚いて半身を翻す。

「おお……なんだ」

 列をなすトラックの積み荷、焼け焦げて泥だらけの鉄の塊たちは、明らかにヴァローナ達が撃破したゾルケンの戦車群であった。ヴェストール、エルディル、ボードス。彼女らの前に幾度となく立ち塞がり、恐るべき怪物として暴れまわった彼等も、今や物言わぬ骸である。

「こんな鉄屑を……一体どうするつもりだ?」

「そりゃ勿論、見物人の前に積み上げて戦果を誇るんだろう」

 首を傾げるヴァローナにオットーが答えた。

「小汚いだけじゃただの落ち武者行列。だが戦利品を持っていれば、怪物を倒して戻る勇者の凱旋に早変わりってわけだ」

 芝居としては面白いが、果たして芸術と無縁の凡百、否、臣民たちに、果たしてその趣旨を理解してもらえるだろうか。凝り過ぎだというある種の白けをヴァローナが禁じえなかった時、

彼女はまたしても見知った顔、いや、物に出くわした。彼女たちが散々滅多打ちに、見る影もない程破壊の限りを尽くされた戦艦――掃除夫が復元された状態で運ばれていた。

「……」

 五人は式典の目玉として運ばれる掃除夫を、ただ黙って見送るしかない。黙って頭を垂れている主砲塔の、あのノーズアートの代わりに書かれた文言に、哀愁を感じずにはいられなかった。

『国王陛下万歳! 未来への投資に戦時国債を!』

 ただの広告か鹵獲兵器として戦争に行くのか。だが、彼がどうあっても他人の思惑に翻弄され続ける人生を送るのは目に見えていた。それは、自分たちも同じ。時の勝ち負けに翻弄されて、最早誰の望みかもわからぬ運命の中を彷徨い続ける。我々は……

「……行こうぜ。時間が勿体ない」

 オットーに肩を叩かれたヴァローナは静かに頷いた。彼の言う通り、死者に使う時間など今の自分たちは持ち合わせていない。今はまだ、明日も不確かな命を繋ぐことで精いっぱいだ。

「行こうか」

 通りを渡る事を諦め、ヴァローナ達は歩みを進めた。死者の骸を満載した流れはなおも絶えず流れ続ける。これからも。




『……さい……なさい』

 夢を見ていた。これは夢だ。少女は理解した。

 隙間だらけのボロ小屋。薪にもならない古ぼけたイスとテーブル。朧な蝋燭の光の中、崩れかけのベッドの上でむくれる少女は、最新の記憶の物よりだいぶ小さく感じられた。何より、彼女が見る夢は決まってこの夢と運命に定まっていたからだ。

 奥歯を噛み締め、閉じ切った口をさらに固く結ぶ。怒りは無かった。寧ろ悲しみ。顔の前に押し付けられたものへの恐怖。

『食べなさい……いい子だから……』

 口先にあるもの、フォークに刺した肉を少女に押し付ける男は、強引な姿勢とは裏腹に穏やかな猫なで声と微笑で彼女を説得しようとした。

 別に、男がそう言った趣味があるわけでもない。少女も彼を嫌ってはいなかった。寧ろ、愛している。いつもなら素直に言うことを聞いているが、今日ばかりは彼を拒絶しなくてはならない。とりわけ、彼が突き付けてくるものは。

『頼むから……お願いだ……』

 男のフォークを持つ手、鈍い鉄色に光る義手が小刻みに震えだす。合わせて震えだす彼の脚までもが鉄色である。少女の目尻に涙が浮かぶ。一瞬の隙を逃さず、男は彼女の口にフォークを押し入れた。

――どうして?

 お父さん。観念して咀嚼する少女の問いは彼女の中を駆け巡る。これでもう、父の温もりは過去のものとなってしまった。吹雪の夜に抱きしめてくれた温かさ、収容所の苛烈さから幾度も自分を救ってきた温もりが今や、少女の中で燃え尽きた。残されたのは銀の手足、灰となった希望の火の残滓。

――なぜ?

 肉を食む度、溢れる疑問は徐々に怒りへと変わっていく。

 何故、我々はここに居るのか。

 何故、彼は身を切って自分を助けるのか。

 何故、自分にはこの豚小屋を飛び出せる力がないのか。

 強くならなくては。屈辱と悲しみの中で少女は思った。こんな処にいつまでも居られない、これは夢だ、ただの過去の記憶だ。記憶は私に味わってもらう以外に生きる術がない。だから私をベッドに固定させたのだ。父の姿を借りて!

『止めろぉ!』

 渾身の力を籠めた叫びが、父の幻影を突き破り、ボロ小屋の幻を闇の向こうに追いやった。少女自身の幻影も吹き飛ばし、彼女の魂は暗闇の中を揺蕩う。一瞬、死後の世界とやらが存在したのかと思ったが、どうにも違う。

 手を動かし、足をばたつかせると感じるまとわりつくような抵抗。上からさす光の揺らめきが、彼女に確信をもたらした。光へと向かって手を突きだし、上へ。揺らぐ光にどんどん手が近付き、やっと掴める、その一歩手前まで来た時、少女の体は水面を突き破り、しとどに濡れた体は酸素を求め大きく息を吸った。その横顔に、笑顔。

――帰ってきた。

 眼下に広がる荒野を見渡して、少女の笑みはより狂喜に、残忍じみたものへ変わっていく。大地を埋め尽くさんばかりに打ち捨てられた、肉、肉、そして肉。敵味方、猫も杓子も分け隔てなく骸を晒し、流れる血は水たまりに溶けて血の海を作り出す。笑い続ける彼女の顔もまた、血の雫が滴っていた。

 突き刺さっていた銃を拾い上げ、赤一色の世界をあてどなく彷徨う少女。ここに広がる全ての物が彼女の物だ。捨てるも拾うも彼女次第。なんせ全ては、彼女が仕留めた獲物なのだから。

――だが……

 ひとしきり歩き続けた少女はしゃがみ込むと、前のめりになり周囲の物音に耳を澄ました。

――あと三つ。

 仕留め損ねた獲物の姿を彼女は探し求める。あと三つ、それがあればこの世界はより完璧になる。あと三つ、あの日仕留め損ねた一番の難敵。叩き付けられた怒りを、ぶちまけられた

屈辱を、返してやらずして満足感には浸れない。

――あと三つ!

 残忍な笑みを浮かべる彼女の首には、血で汚れた紅白の飾り紐がぶら下がっていた。その紐についている筈の煙突掃除夫を模した飾りは、今はもう、ない。




「どうだぁ、直ったか?」

 アントンの足元で計算機をいじるヴェンツェルが、上にいる他の搭乗員に声を掛ける。白く塗られた日向の方からヴァローナの声が聞こえた。

「駄目だ。まだ前かがみのままだな」

「OK、だったら……」

 ヴェンツェルは計算機に取り付けられた防護手袋に手を入れると、中に入っている脳髄から端子を一つ引き抜く。瞬間、中の脳髄はまだ生きているかのように痙攣し、突っ張っていたアントンの後ろ脚はゆっくりと縮んでいく。

 抜き取った端子を別の場所に。今度は油圧サスの収縮音も、コンプレッサの作動音も聞こえない。一息つき、手袋から手を抜いたヴェンツェルは、計算機を車体の中に収めてアントンの足元から這い出してきた。すぐ前に立っていたヴァローナが言う。

「ご苦労だったな。でも予備があるのにどうして――」

 わざわざと、その先にある言葉をヴェンツェルは遮った。得心のいかない様子のヴァローナ。ヴェンツェルは後ろで硬直している整備士に対して黙って会釈すると、ヴァローナの物申したげな視線を複雑な笑みでいなして先にアントンに乗ってしまう。秘密なんて、知らない方がだいたいを得する。

「修理完了だ、准尉殿」

「ん」

 いつも通り、オットーの淡々とした返し。その何も知らぬ顔を横目に、ヴェンツェルは操縦席についた。平常通り、手先が器用な天才操縦手が、交換対象の機械式計算機を生き返らせた、それだけでいいのだ。エンジンをかけながらヴェンツェルは反芻した。それでいい。

 露ほども知らぬ罪ならば、神も御許しになるかもしれん。


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