眠りの夜明け

眠りに落ちる青年

第1話 オー!グッドマザー!


「今日はマグロの初競が行われました‼︎」

 夕方四時過ぎ。太陽が半分だけ顔を隠し始めた頃、ニュース番組ではキャスターがいつものように騒ぎ立てている。正直、初競に心を奪われているというよりは、己の理想キャスター像に心を奪われているという感覚に近い。

 今朝に撮ったVTRが流れる。競の様子が映されると、そこにはむさ苦しい男達が大声を上げ大盛り上がりを見せている。映像から、熱気や湿度がもくもくと感じられる。

 どうやら、今年の一番マグロは一億五千万円で落札されたようだ。このような活気のあるニュースと共に、日本中は豊かな流れがあるのだと錯覚を起こしてしまいそうになるがそうもいかない。

 有名な芸能人の訃報が流れれば、それを弔うメッセージが流れ誰もが悔やむ。

 しかし、僕らのような何でもないただの一般人の訃報は当然スポットが当たるわけでもなく、自分らだけが世界に置き去りにされたという感覚が胸を締め付け離そうとしない。

 高校で着用が義務化されたブレザー制服に袖を通し、見慣れたつまらないリビングを見渡す。

「なんか、寂しいね」普段ならそんな漠然としたことは口に出さない。心に留めてもっと温め続けて、それがハッキリした時口に出すのだがやはり今日ばかりは普通、、がこなせない。

「大丈夫だ。父さんが頑張るから、文也はいつも通りにすれば良いんだよ」

 

 いつもなら『そんなこと言ってる暇があったら勉強しろ』と強く当たる気がするのだが、やはり父さんも普通がこなせないのだろう。

「今日で母さんに会えるのも最後だからな。最期は笑顔で見送ろう。そしたら二人で再スタートだ」

 父さんは、クローゼットの奥に掛けられた喪服を取り出してぎこちない笑顔でそう言った。

「うん」

 スマートフォンをポケットにしまって、飲みかけの緑茶を喉に流し込んだ。普段は好きだからという理由で飲んでいたものだが、今日の緑茶はあまり美味しくない。心なしか茶葉の量が多くて、旨みのない苦味が残る。そこにも普通は無かった。

「よし、それじゃあ行くぞ」

 父さんは、車のキーを片手に僕を置いて外へと出て行ってしまった。


『美味しく無かった?』や『忘れ物ない?』といった、過剰すぎる心配の声が無い事すらも現実をより色濃くしてしまうもので、胸焼けをしてしまいそうだ。

 

 一枚扉で見えなくなった父さんの背中を駆け足で追う様に、使い終えたプラスチックのコップをシンクに投げ出す。

 ガコンッと鈍い音が響くが、興味の対象には入らなかった。

 履き慣れたローファーのかかとを踏んだままドアノブを捻り鍵を閉める。

 築二十五年のボロアパート二階から見える住宅街は、至って普段通りの光景が右から左へと流れていた。

 荷物が積み込まれた電動自転車を何事もないかの様に漕ぐ老婆や、息子を幼稚園へ向かいに行った帰りの母親の姿、或いは仕事を終え早歩きで自宅へと帰る会社員。

 全ての人にも日常がある。此処から見える日常を過ごす人々の今日は何気なく終わるのだろう。今日という一日で、家族の死に打ちのめされそうになっているのはきっと僕だけなんだという気にさせる。

 何を言うわけでもなく、思い悩む息子を黙って見護る父の姿が今日だけは父親の様に見えた。

 今日だけは──そんな一言で今から逃げようとしている自分は、きっと弱い。


 最期の別れというものをしたく無いから、車に乗りたいわけじゃ無い。

 僕ら家族と母の別れは、息を引き取った瞬間だ。

「文也、そろそろ行こう」

 父さんは四人乗り軽自動車の助手席側のドアを開けた。僕はその流れに乗って、少し前までは座るはずがなかった助手席に腰を下ろした。

 何をいうわけでもなく父はエンジンをかけて、葬儀場へと向かった。


※※


 約束なんてなかった。だけど僕には無の時間が要らなかったというだけ。

 告別式を終え、土日を跨いで何食わぬ顔で学校へ登校した。

 朝の登校はいつも通り賑わっていて不謹慎だなと心の中でモヤモヤした。

 どうして、人の母が亡くなったのにこの輪は、この世界は、平然と生きようとするのか。その様が憎くすら感じた。

 しかしそれは同時に、ワガママであることも一応は自覚している。けれども、温和を演じるにはあまりにも擦り減ってしまっているのだから見てくれは無難でしか居られない。


 教室へ踏み込むと、情けの視線が幾らか感じ再び怒りが込み上げてくる。

「文也……大丈夫か?」普段の行動を共にする、和瀬川が心配そうな顔で肩をつついた。

 可哀想、大変だ、大丈夫か?、そういった偽善の心で酔いしれている連中など、全員死んでしまえばいい。そんな連中など、相手にするものか。

「ちょっ……」戸惑いの声など気に留める必要もない。

 できるだけの早歩きでクラスの奴らを掻き分けて自分の席につく。特に用はないがリュックを漁り適当に手に取った本を机に出す。

 そこには『数学ⅡB』と書かれたA5判の教科書があった。

 気を紛らわせるためにその教科書を開いてみる。どうせならと予習の範囲に目を通してみるが、目の体操にしかならない。

 周りの視線に五割、暇じゃ無いことを示したいに三割、教科書を読むのに二割の配分で意識を散らしてしまっているからだ。

 結局僕は何を目指しているんだ。誰かに慰めてもらいたい? とにかく何かをして母のことを忘れたい? 母にもう一度会って話がしたい? 死んでこんな苦痛から逃れたい?

 それとも悲劇のヒロインを演じたいのか。

 なんて僕は醜いんだ。母を亡くしてまで、誰かに構って欲しいと願う人間は悪魔そのものだろう。

 もういっそ、死んでしまおうか。

 今日帰ったら父に相談をしてみよう。そうだ、そうすればいい。それなら今日だけを耐えればこんな腹立たしい視線も、憎き偽善者とも会わずに済む。


 そう考えると気が楽になった。昨夜の告別式、最期の別れで母の顔を見ることはできなかった。顔での判別が出来ないほどに、グチャグチャだったらしい。


 交通事故だった。いつものように買い物へと行き、その帰りに飲酒運転の車に轢かれた。その運転手は重症で意識が戻っていないらしい。

 そのまま目が覚めなければいい。覚めても一生後遺症を背負えばいい。物騒だが、母の命を奪った人間だ。当然の報いだろう。なんならそれくらいで足りるものか。いつだって真面目に生きる人間がバカを見る。母は恨みを買う人がいないくらいに優しく愛情深かった。どうしてそんな人間が人生を真っ当できず、自分すらも制御のできないクズな大人が人生を真っ当するんだ。奴らこそが死ねばいいだろう。

 どうして──どうして──。

 

 悔しさでどうにかなりそうだ。どれだけ考えようとも、憎もうとも、時間は戻らない。母さんが生きていた時は少しずつ昔になって、色褪せてしまう。


「大丈夫──?」

 偽善の優しい女子生徒の声だった。

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眠りの夜明け @vinyl-224

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