深淵の瞳

三重県伊賀市に在する観光名所、忍ノ博物館。

その地下8階には、とある研究施設がある。

「超人類及び超自然研究所捌番セクター」、通称「忍ノ研究所」。


そこに特事課二名の姿があった。

「万代課長、それに久良岐博士…いらっしゃるのなら、お電話の一つも下さればこちらから伺ったものを…」

忍ノ博物館館長兼忍ノ研究所所長、柴成ひさし(しばなりひさし)はソファに腰を下ろすと、万代と久良岐にも対面のソファを勧めた。

「私も久良岐も近頃は閉じこもり気味でね。たまには足を伸ばして運動不足を解消しないと 」

万代は血色の悪い顔に薄い笑みを浮かべながらそう言った。

「それはそうと館長、例の件、進捗はいかがかしら? 」

久良岐は、万代とは対照的な艶のある微笑みを浮かべ言った。

いつ見ても吸い込まれそうな瞳を持った女だ。

知性と野生を秘めたその瞳に見つめられると、還暦を迎えた柴成ですら、

若い欲情を掻き立てられる気がした。

柴成は、妖艶な妄想に引き込まれかけた自身を何とか現実に引き戻すと、

茶机の上の紅茶を一口啜り、ため息をついた。

「それがなかなか芳しくないのですよ 」

「と、いいますと? 」

「まず…サンプルが足りておりませんな。研究自体はお二人の立てた仮説を元に進めておりますが、肝心のサンプル…要は”事象”が少なすぎる 」

事実であった。

研究には、最大限注力しているが、万代と久良岐の求める進捗成果には満たない。

「事象自体は近頃増加の一途ですわ。先日の裏世界変換にしても、これまでとは異なる点の多い稀有なサンプルかと 」

「久良岐博士、それこそが問題なのですよ。事象ごとに異なる要素が多すぎる。発生条件も消滅条件も全く一貫性がない。ふざけた話です 」

柴成は全くもってうんざりしているといった表情でそう言った。

万代はそんな柴成の様子を見て、にたりと笑った。

「館長、ふざけた話なのは今に始まったことではない。私と久良岐と…あなたも含め、我々が成し遂げようとしていることは、そもそもがふざけたことなのです 」

万代は茶机の紅茶には手をつけず、鞄から取り出したペットボトルの珈琲を一口飲んだ。

「そして、そのふざけた事を成し遂げなければ、我々に未来はありません 」

万代は先ほどまでの笑みを消し、じっと柴成の目を見つめた。

柴成は観念したようにため息をつくと、一拍置いて立ち上がった。

「少し弱音を吐きたかっただけですよ。退任を考えた日もありましたがね…。何とか良い報告ができるよう、研究員一同、引き続き尽力いたします。…この研究に人類の命運が掛かっていると考えるのは…ぞっとしませんがね 」

その意気ですわ、と久良岐がニッコリ笑った。

「ところで館長、早速事象のサンプルが追加できる見通しです。うちのが調査中でね 」

「あぁ、例の誘拐事件ですか。しかしあれは… 」

「えぇ、裏世界への変換事象だとすれば、発生期間も規模もこれまでにないレベルのものです 」

「ですな。しかしそんなレベルのものが研究所の予測に引っ掛からなかった。これは変換事象ではなく、本物の誘拐事件と考えるべきでは? 」

はい、と久良岐が手を上げ万代と柴成の会話を止めた。

「変換事象ではないのかも。もっと別の…異常事象の可能性も排除できませんわ 」

万代と柴成が顔を見合わす。

「確かに可能性はあるが…もしそうなら貴女方にとって価値のあるものではないのでは…」

「いや、館長、久良岐の言う通り変換事象でなかったとしても、それが“常ならぬもの”なら我らが対処すべきだ。なんといっても私は特殊事案調査課の長だからね。人に仇なす異なる存在は何であれ看過できない 」


「マッシー、今回の件、本当に塩津とレージくんだけに任せて大丈夫〜? 」

忍ノ博物館を出るや否や、久良岐がいつも通りの間延びた声色で万代に問いかける。

「うん、あの二人なら大丈夫だよ。きっと私の想像以上の成果を持って帰って来てくれるさ 」

「ふーん、あたしは心配だけどね〜、主にレージくんが。塩津はどうでもいいけど 」

万代がクククと笑う。

「塩津巡査も茨の道だねぇ 」

「なーにそれ?どーゆー意味? 」

「いやこっちの話さ。それより柴成館長はしっかりやってくれるかな? 」

「大丈夫でしょ〜、老いて枯れても捌番セクターの所長なんだし。他のセクターにも顔出すの? 」

「そのつもりだよ。研究所あっての特事課だからね。進捗確認と挨拶も兼ねてね 」

万代が車に乗り込む。

久良岐は助手席に座り、電子タバコを咥えると、何か思い出したようにフッと笑った。

「あれ本気?人に仇なす存在は〜…ってやつ。すごい皮肉よ〜 」

万代がニヤリと笑みをこぼす。

「本気さ。今のところはね 」


万代と久良岐が忍ノ博物館を後にした頃、柴成館長はソファに沈み込むようにして天井を見つめていた。

特殊事案調査課課長、万代万代。

彼に見つめられた時、柴成はその瞳の奥に、彼の本心を探ろうとした。

そこに見えたのは…否、何も見えなかった。

暗く、虚な、光の無いポッカリと開いた穴のような…闇…

何の意思も、心も無い…まるであれは…


「マネキン… 」


柴成はボソリと呟いた。

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警視庁公安部特殊事案調査課 特殊事案ファイル 凡ボヤジ @shin-kana

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