あかし

あかし

 赤い着物を着て、黒檀のような黒髪を結い上げた少女が立っている。

 彼女の唇は金魚のようにツンとしており、その細い首筋は血管が見えるほどに真っ白だ。


 その手には、何枚もの写真が握り締められている。少女のひ弱な握力にくしゃくしゃになった写真は、奇妙なことに赤いペンで印がされていた。


 「ふふ、この人はそう。この人は違う。この人は......確かそう。」


 鈴のような声を転がして、少女は写真に印をつけていく。そのか細く折れそうな指が握った赤いペンは、写真に写る人物のうち数名を囲ってゆく。老人、少年、赤ん坊、青年、少女。一見無作為とも思えるその行動は、確かな意思を持ってなされているということが、少女の言葉からわかる。


 「ん、この人は違ったかも。......この子はそう。うん、この人も。うん、うん、うん。」


 少女の手は止まることなく、次から次に写真に丸を描いていく。

 歪みのない綺麗な丸、歪んだまる、囲いきれてないまる、とても丸とは言えないいびつな円形。その一筆一筆に、彼女の魂が込められているかのごとく、少女はその瞳に執念を燃やして印をつけていた。


 少女が立っている真っ白な部屋の扉が開く。


 「おい、何やってる。」


 開け放たれた扉の前には、壮年の男性が立っていた。その体は土に汚れ、かつては光沢を放っていたであろう着物は煤にまみれている。

 男はその乱れた黒髪をかき回して少女に怒鳴りつける。


 「おい、やめろ。やめろ。やめろ。やめるんだ。」


 「なぜ。」


 「おれがやめろと言ったらやめるんだ。いいか。いいな。」


 必死の形相で男が少女へ向かってくる。少女の写真へと伸ばされた手は震え、その表情には苦悶が浮かび上がっていた。

 少女は火傷と土埃にまみれた腕をひょい、と避けると、部屋の隅へ逃げていく。ちょこちょこ走るたびに、下駄の涼やかなカランコロンという音が部屋中に響き渡る。


 「その、写真を。写真を渡せ。」


 「いやよ。」


 「渡せ。それは、それはお前が持つべき」


 「ものじゃない。ええ、そうよ。これは私が持つべきものじゃない。」


 「ではなぜ。」


 「ふふふ、そりゃあ決まってるでしょ。これはね、証なの。印なの。あなたと私、そして皆様。私たちを結ぶ印。血より深く、血より濃い繋がりなんてない。血縁者って、特別でしょう。だからあなたも私を見逃してる。」


 「おれは、見逃してなんか」


 「見逃してるのよ。あなたは。」


 「ふざけるな。なんでお前なんかを」


 「いーえ、見逃してるの。だってそうでしょ。血縁だから、あなたは私を罰せない。」


 次第に蒼白になってゆく男の顔に、カラコロと少女は笑いかける。その手にはくしゃくしゃになった写真が握り締められたままだ。写真に写った顔が歪んでいく。印も歪んでいく。


 「そう、これは証なの。印なの。」


 そういうと少女は、男に一歩近づき写真を握りしめた拳を男の眼前に突き出した。

 白魚のような指が、一本ずつ開かれてゆく。


 親指。人差し指。中指。薬指。小指。


 写真を取り返せる距離になっても、男は動けない。指一本、髪の毛一つ動かせない。異様な雰囲気が場を支配している。


 全ての指は開かれた。少女の手のひらには写真が載っている。

 次の瞬間、少女は手のひらを逆さまにして、写真を床に落とした。


 「ああ、ああ、あああああ。」


 悲痛な叫びを上げ、男は硬直から解き放たれた。その膝は地に着き、両の手は写真をかき集めるために地を擦っている。少女の足元に這いつくばるその姿は、人間のエゴと、錯覚と、偽善と、愛と、色々にまみれていた。


 乱れた髪から覗くつむじをみて、少女の口元は薄く開く。男の鳴き声が聞こえる。

 小さな口からのぞいた舌が場の空気を味わう。その小鼻は男の煤にまみれた欲望を感じ取った。


 あとは、男に触れるだけ。


 その時だった。


 「そうだ。これは、証だ。そうだそうだそうなのさ。そうだろう。」


 地面に張り付いていた男がすっくと立ち上がる。次の瞬間、男は少女を地に押し倒した。その両手が、先程まで写真を抱いていた両の手が、少女のすらりとした首筋にまとわりつく。


 「証。印。証。証。お前こそが印。」


 男は両手に力を込める。ぐぐぐっ、と指を筋に押し付けると、少女の顔が苦痛に歪んだ。飴玉ひとつ転がすのががやっとなほどの小さな口を必死に開けて、少女はもがく。


 着物を乱し、髪を崩して執着を見せる自身の姿を、少女は男の両目を通して知る。男の左目に写った自分は傍観を是として、右目に写った自分は喜色が悲嘆に塗り変わったかのような顔をして涙を流している。


 こんな自分は知らない。そう思いたかった。だがしかし、それこそが彼女の本質なのだ。

 そう、この姿こそが、あるべき姿だったのだ。


 その考えが思い浮かんだ瞬間。少女の中で何かがストン、と音を立てた。


 少女は開け放った口をすぼめ、舌を動かした。


 「 」


 その小さな動作に男は指の力を強くする。


 強く、強く、強く。


 少女は糸がぷつん、と切れたかのように動かなくなった。

 その姿を目に入れ、男はようやく指の力を抜く。


 「ああ、ああ、ああ、」


 先程までずっと力が入っていた指は、男の思うままに動かない。

 少女から離れようとする指は、少しずつ、少しずつ。一本一本、糸につられてるかのように開き始める。


 親指。人差し指。中指。薬指。小指。


 全ての指が離れた。

 男は、手をわなわなと震わせると、少女の傍に膝をつく。


 「やめろ。いやだ。ああ、そんな。ああ、嘘だ。」


 男の瞳から何かが溢れる。その何かを救おうと、男は手のひらを顔に近づけた。


 くしゃくしゃになった男の顔に添えられた両手。その手の天地が裏返り、何かが地に落とされた時。その時男は思うだろう。


 「あかし」


 かつて彼の血縁だった、哀れな少女のことを。

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