第4話明日は晴れがいい
どのくらい時間が経っただろうか。外は夜になっている。壁の隙間から冷たい風が流れ込んできて、俺の胸の中でじっと動かなくなっていた女の子の髪の毛を揺らした。
女の子がゆっくと顔を上げて、朧げな眼差しで俺を見た。
「……腕の傷は大丈夫か? 」
俺がそう聞くと、女の子は自分の腕を見て、あーと声をあげた。
「大丈夫だと思う。もう血は止まってる」
傷口には赤黒く変色した血の塊が付着して、内臓が破裂したミミズみたいになっている。転んで出来た傷ではないだろう。明らかに刃物で切られたような傷跡だ。痛々しい傷口に俺の表情は歪む。
女の子は傷口を優しく触れて、淡々と呟いた。
「別に誰かに襲われたとかじゃないよ。自分で切ったの」
予想外の言葉に俺は女の子を見つめたまま、動けなくなる。それを見て、女の子はにへらと力なく笑った。
「……生きることに嫌気がさしたのか? 」
女の子は首を振る。
「ううん。死ぬのは嫌だよ。私はまだ生きていたい。ここに戻って来る時に意識を失いそうになったから、それで切ったの」
「……そっか。それは生命力に溢れてるな」
俺がおどけるように笑ってみせると、女の子はまた力なくニヘラと笑った。
「そうだね。私は生に執着してる。諦めたくても、諦めたくても、私は諦めることは出来ないの」
努めて明るく見せるように笑う女の子だったが、その笑みは今にも消えてしまいそうなほど儚げだった。俺の口角は下がった。
「諦めたいのか? 」
「ううん。…………でも幸せな世界に行きたいな」
「それは……大変だな」
「……うん」
女の子はフッと体の力を抜いて、顔から倒れ込むように俺の胸にもたれかかってくる。俺の胸に顔を埋めた。
「ねぇ。君はどうして私を助けてくれたの? 」
どうして助けたのか。明確な理由があった訳じゃない。使命感も、正義感もなかった。むしろ逃げ出したかったけれど。俺には助けないことが出来なかった。だから助けただけだった。
「……別に。助けたつもりはない。あんたが勝手に助かっただけだ」
そう言うと女の子は顔を上げて、ぽかんとした表情で俺を見つめる。真ん丸に見開かれた瞳がだんだん横に細長く伸びて、小さな三日月型に変わる。クスリと笑った。
「なんだよ。何が可笑しい」
「……中二病とか言われたことない? 」
顔の温度が上昇しているのが分かった。けれど、俺は至って平静なふりをして、ムスッとしかめっ面で言った。
「うるせぇ。俺の今までの人生にあんたみたいなガサツな友達はいなかったよ」
女の子はとても嬉しそうにケタケタ笑っていた。そして、ひとしきり笑うと真剣な表情に変わる。熱を帯びた視線が俺を見つめていた。
「ねぇ。初めてのガサツな友達の頼み聞いてくれない? 」
いつ友達になった。そんな文句が俺の口から出るまえに、女の子は続く言葉を言った。
「学校に一緒に行ってくれない? 」
友達と学校に行く。それは、この世界が穴だらけになってからは馴染みのなくなった、とても懐かしいものだった。
女の子の言う学校とは廃ビルから二駅ほど離れた場所にある私立の高校だった。丘の上にある大きな学校で、校門から見えるグランドだけでサッカーコートが4つ分の大きさがある。元はきっと華やかな学校だったのだろう。
グランドの中心にはぽっかりと大きな穴が開いていた。
女の子は校門を抜け、ズンズンと学校の中に突き進んでいく。俺は慌てて後を追った。横に長い階段を登って、正面玄関に着くと女の子は足を止めて、振り返った。
「ここ私の学校なんだ」
「……へぇ」
この子はなぜ、わざわざ俺の自分の学校に連れてきたのか。今になって友達ごっこでもしたくなったのだろうか。
一見陽気で、けれど陰鬱な一面も持つ不思議な雰囲気の女の子。そんな子の母校を一緒に見て回る。この穴だらけな世界には似合わない平和じみた日常。
意外と悪くはない?
一瞬そんなことを考えて、能天気な妄想を膨らませた俺は忘れていた。
ここは穴の開いた世界であることを。灰色の空に包まれた現実の世界のことであることを。
女の子との学校散策。そこで俺がまざまざと見せつけられたものは、彼女の学校での生活記録。生々しく物に刻まれた、虐められていた女の子の思い出のアルバムだった。
汚された教科書。落書きだらけの机。ゴミが詰め込まれたロッカー。女の子の悪口が書かれたノートの一部破った回し手紙。背中に大きく赤いバッテンがつけられた真っ白な制服のカッターシャツ。
世界が穴だらけになって、世界はボロボロになっているというのに、まるで女の子の過去を刻んだものだけは残せと、そう定められたかのようにしっかりと学校の中に残っていた。
正面玄関に戻り、靴を脱ぐと、女の子は空の下駄箱にしまった。裸足のまま正面玄関を出て階段を降りる。階段の中腹部分まで行くとそこで足を止め、振り返った。
不気味なほど晴れやかで、愛らしい笑みだった。
そして、女の子はポケットに手をつっこむ。抜かれ手にはサバイバルナイフが握られていた。それを視界に捉えた途端、俺の心はきゅぅぅと締め付けられたような息苦しさに襲われる。ドクドクと血管の流れが速まる。
女の子はナイフのケースを外した。銀の刀身に媚びりついた赤黒い血が露わになる。
女の子はサバイバルナイフを俺に差し出すように掲げて、えへへと笑った。
「……もう一個お願いしてもいい? 」
「それは内容によるな」
女の子の眉尻が垂れる。申し訳なさそうに笑った。
「私を幸せな世界に連れって? 」
視界に映る女の子の瞳は、まるでこの世界の穴のように真っ黒で、全てを飲み込んでしまいそうだった。
「無理だ。俺には出来ない。そもそもそんな世界はない。いいか? 落ち着け。今はちょっと気が混乱して馬鹿になってるだけだ。だから……」
女の子が目を閉じた。ナイフの柄を両手で握り、顔の高さまであげる。自分の胸に向かって刃を向けた。
目の奥が熱くなった。頭の中で、ぶちぶちと血管が切れる音がする。
やめろ!
その言葉は音にはならなかった。大きく開かれた口からはかっぁ……。と熱い空気が漏れた。
ナイフは深々と女の子の胸に突き刺さることなく、その切っ先が胸の表面に小さな傷をつけるだけだった。
女の子の表情がくしゃりと歪む。眉間に皺を寄せて、下唇が白くなるまで噛みしめて嗚咽を堪える。肩を小刻みに震わせた。サバイバルナイフが手からすり落ち、キンッと金属音が響く。
女の子は涙を流して言った。
「…………なんでっ」
その姿を見た時、俺は既に走りだしていた。猛烈な勢いで階段を降りると、女の子の足元に落ちるサバイバルナイフを拾う。そして、階段を駆け上ると校舎の中に消えていった。
茫然と立ち尽くす女の子。してすぐに、彼女の耳に男の不細工な叫び声とバンッ! バンッ! と破裂音のような音が聞こえてきた。その音はしばらくの間なり続け、幾分かして、ピタッと止む。
パリン、と耳朶を刺すような音が聞こえた。女の子は音が聞こえた方に目を向けると、二階の一つの教室の窓が割れていた。
女の子が唖然と見つめていると、割れた窓ガラスからグランドに向かって様々なものが飛んでいった。机、ロッカー、ノート、ありとあらゆるものが割れた窓ガラスから飛び出していく。それは全ての教室で起こった。全ての教室の窓を割り、ありとあらゆるものが割れた窓ガラスを飛び出し宙を舞う。ビリビリに破けたノートは桜吹雪のようにひらひらと宙を舞い、木製の机はガンッ、ガンッと激しい勢いで地面とぶつかっていく。まるで、おもちゃが詰まった箱を逆さまにした時のように、学校の物が宙を舞った。
俺は全ての教室の窓ガラスをたたき割り、学校の物を全て外に投げ捨て終えると、息も絶え絶えに正面玄関に向かう。体中が痛い。足を、腕を、動かそうとするたびにブチブチと筋肉繊維がちぎれていく。それでも構わず俺は走った。正面玄関に辿り着く。手に握ったサバイバルナイフで下駄場をズタズタに傷つけて、飛び出す。階段を駆け下りた。
女の子は俺と目が合うと、えへへと、またあの愛らしい笑みを浮かべる。その瞳からはまだ涙がつーーと流れ続けている。乱れた呼吸のまま俺は言った。
「幸せな世界なんてないからな」
膝に両手をついて、下から目線で睨みつけるように女の子に言う。そして、サバイバルナイフを手渡した。
女の子はナイフを受け取ると、ぎゅっと抱え込むように胸の前で抱きしめて涙を流し続けた。
「......ありがとう」
その時だった。地面が真ん中からこじ開けられるように広がって、女の子の足元に人ひとり分サイズの黒い穴が出現した。
えへへ、とあのやけに頭に残る笑みを最後に、俺の前から女の子の姿は消えた。
俺は女の子が消えた穴を覗き込む。
いつもはぞっとするような穴の中が、少しだけ明るく見えた。
穴が開いた世界 詩野ユキ @shinoyuki
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