10 救出策

 ――逃げるつもりはなかった。帆沼さんのそばから離れるつもりもなかった。

 でも、何事にも不測の事態はつきもので――。


(トイレ行きたい……!!)


 今、オレはものすごいピンチを迎えていた。


(やっぱ帆沼さんの分までスポドリ飲んだのがダメだった? 夜なのに早く寝なかったのが? どれか分からんでもトイレ行きたいぃぃぃ……!)


 けれど、帆沼さんを揺さぶっても声をかけても、彼はまったく目を覚まさなかった。引くほどぐっすり眠ってる。他に誰かいる可能性に賭けて監視カメラに向けて訴えてみるも、当然梨の礫だった。

 帆沼さんは、起きない。オレは、もう限界。どうする。どうする。


(……すぐ帰ってきたら……セーフ、かな?)


 さっきの固い誓いはどこへやら。オレは、ちらっと薄く開いたドアに目をやった。いや、ここに留まるより遥かにマシだと思う。帆沼さんも、起きてオレが泣きながら漏らしてたらびっくりするだろうし。

 目隠しをされていたとはいえ、なんとなくトイレまでの方向や距離は掴んでいる。行ける……んじゃないかな。多分。

 うん、行こう。

 一応寝ている帆沼さんにトイレに行ってくる旨を告げ、オレは立ち上がる。ドアの所まで行く。ノブを掴んで力を込めて引くと、呆気なくそれは開いた。最後に一度部屋を振り返るも、やっぱり帆沼さんはぐっすりと眠っていた。

 ここでやっと、ドアが外から鍵をかける構造になっていることに気づく。元からこうだったのか、帆沼さんがこうしたのか……。いや、後者に決まってるだろ。元からこうだと怖すぎる。どんな部屋だ。

 ドアから首だけ出して、辺りを見回す。……それにしても、ここはどんな施設だったのかな。病院みたいに、長い廊下に沿っていくつもドアがあった。暗さも相まって、まるでホラーゲームに出てくるダンジョンである。それでも勇気を出して、オレは歩き出した。

 一瞬、ドアに鍵をかけていこうかと考える。でもそれは、なんとなく帆沼さんを裏切る行為に思えて結局やめた。

 足音を立てないように注意しながら、壁に手を添えて歩く。今誰かに遭遇したら確実に漏らすな……と、余計なことを思った。

 確か、この辺りで角を曲がる。で、もう少し歩いた所で目隠しを外され……。

 ……うん良かった、ここは見覚えがあるぞ。ほっとしたオレは、急いでトイレに駆け込んだ。

 そして用を済ませて、出てくる。手も洗って、早く自分の部屋に戻ろうとした所――。

 腕を掴まれる。振り返る前に口を塞がれ、お腹に回された手に力を入れられる。

 抗う余裕も与えられなかった。オレは、トイレの個室に引き摺り込まれた。







 ――私にできるのか。否、やるしかないのだ。

 丹波莉子は、体の横に下ろした拳を握り固めた。それから、顔を上げる。

 私の背後には、待機した複数の警官。少し遠くの小屋の前には、自分の首にナイフを押し当てるかつての部下の姿。

 戸田東介。それが、彼の名だった。

 彼は私の部下だったが、歳は一つしか離れていない。普段は物静かで、言われたことを嫌な顔一つせず淡々とこなす人。趣味もわからなければ、友人と共にいる所も見たことがない。

 けれどそんな印象が変わったのが、ある夏の日。迷子として保護された子を、たまたま時間が空いていた私と彼で面倒を見ることになったのだ。


「……寂しい、と自覚できることは、いいですね」


 無事に親と再会して手を振る少女を眺めながら、彼はぽつりと言った。


「寂しくなくなれば、それも自分で分かるんですから」

「あら。じゃあ戸田君は、自分で寂しいのがわからないんですか?」

「わからないというか」


 静かな声で、彼は言葉を紡ぐ。


「寂しいと思ったことも無いです。僕は、空っぽな人間ですので」


 ――その時の彼の表情が、どうにも胸に焼きついて離れない。この感情の正体はよくわからないが、何故だか彼を放っておけないという気持ちだけは残り続けていたのだ。

 それからというもの、私は積極的に彼に関わってみることにした。話しかけ、ご飯に誘い、半ば無理矢理買い物に付き合わせてみたり。今にして思えば、相当鬱陶しい上司だったかもしれない。

 けれど、気のせいでなければ。自分の思い違いでなければ。


「……なんで、先輩は僕に関わろうとするんですか」


 とある仕事終わりのひと時。彼は私に向かって、ぽつりと言った。


「僕は、何一つ面白い人間じゃないのに。気の利いたことも言えないのに」


 うつむいて、顔をくしゃりとさせる。


「……変わった人ですね」


 ――彼は、少しだけ以前より笑うようになっていると。私は、そう感じていた。


(……だけど)


 その会話が、彼と言葉を交わした最後だった。どうすることもできないまま、とうとう彼は犯罪に手を染めてしまったのである。

 もう、猶予は無い。施設で奪われようとしている命も、盾にされた彼の命も。全てを、ここで救わねばならない。


「戸田君!」


 拡声器で呼びかけても、戸田からは何の反応も無い。だからこそだろうか。こちらが何らかのアクションを取ろうとすれば、彼はすぐにその首を掻っ切ってしまいそうなほどに脆く見えた。

 しかし、それでも丹波は一歩踏み出した。


「帆沼呉一の手配した医者のうち、三人は既に確保しました! それでも、これが全員じゃないということを私は把握しています!」

「……」

「その道を譲ってください! 私達は、その小屋から地下へ行き、帆沼呉一によるこれ以上の犯罪を防がねばなりません!」


 地下へ行き、という言葉に戸田が目を鋭くする。それを見た丹波が頷いた。


「……もう、全て分かっているんです。あなたの守る小屋は、ただの小屋じゃない。巨大な地下施設へと繋がる、入り口のカムフラージュです」

「……」

「戸田君のやっていることは、もはや悪あがきでしかありません! 帆沼呉一の悪事は全て暴かれ、あとは逮捕されるのみ。けれどあなたがその道を譲ってくれないと、彼に攫われた子が中で死んでしまうんです! それが分かっていながら……!」


 丹波は、何の色も浮かべない戸田の顔をまっすぐ見つめて、言った。


「そこに突っ立って、あなたは何が得られるというんです!?」









 トイレの個室に引きずり込まれたオレは、その手を逃れようと必死で抵抗した。けれど、ふいに包まれた知った匂いにハッとする。

 唾を飲み込む。オレは恐る恐る、自分を捕らえた人を振り返っていた。

 ――ふわふわとした総白髪。大きすぎる眼鏡。顔の左半分を覆う、酷い火傷痕。

 胸が詰まる。息ができない。なんで。なんで、あなたがここに。


「檜山さん……?」


 掠れたオレの声に、その人は頷く。そして、疲れたように笑った。

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