9 幻覚
体が、重たい。
一歩踏み出すごとに、地面から黒い腕が伸びて足を掴む。まるで、これ以上自分を進ませまいとするように。
(……行かなければ)
白髪の男は、頭を振って幻を打ち払う。そうして恐怖ですくみそうになる足を、また持ち上げた。
(確かここに……)
雑草が生い茂る場所をかき分け、錆びたハッチを剥き出しにする。ハンドルを掴み、深呼吸を一つしてから力尽くで回した。
地下へと続く隠し通路が開かれる。視界の隅に誰かの恨めしそうな顔が浮かんで、消えた。
(……)
吐き気が込み上げたが、何とか耐える。震えが止まらない。寒い。なのに火傷痕の部分だけはやたらに熱くて、煩わしくてならなかった。闇に向かう通路に体を滑り込ませる。空気の澱んだ匂いに、一度は堪えた吐き気がまた押し寄せてきた。
――通路の奥から、幼い自分の絶叫が聞こえる。だが、そんな彼を助ける者は誰もいない。父と母によく似た影が、「かわいそうに」「ごめんね」と焼けた鉄を向けてくるばかりで。
皮膚が溶ける。溶けた皮膚が鉄にへばりついて、持っていかれる。剥がれた中身には、更にバーナーを近づけられて……。
(幻覚だ)
汗が頬を伝って、落ちていく。
(傷は癒えた。父も母も……もう死んだ)
父と母の信奉していたカルト教団が潰れた時。突如として精神的な支えが無くなってしまった二人は、それでもなおも教団存続の為に働きかけていたらしい。けれどある日、二人は首を吊って死んだ。よりにもよって、息子を焼いていた教団の施設の中で。
そして、自分だけが残されたのである。
(……)
ここに来るのは、父と母の死体を見つけた時以来だ。檜山は荒くなる息を必死で抑え込みながら、壁に手をついて歩いた。
(絶対に……助けなければ……)
脳の片隅に残るのは、かろうじて自分を繋ぎ止める屈託の無い笑み。その存在がこの先にいると信じ、檜山は唇を引き結んで闇の中を進んだ。
けれど、突き刺すようなこめかみの痛みに足を止める。
(……ああ、また)
こめかみを押さえる。
(やめろ。僕は違う。あの人たちと同じじゃない)
自分を嘲笑うかのように、痛みは激しく鋭くなる。罪の意識と凄まじい自己嫌悪は体を沈め、闇に浮かんだ薄笑いは自分の首に真っ黒な手を巻きつけてくる。そしてその手は、記憶の隅に隠したはずの彼にまで及ぼうとして――。
(触れるな)
触れるな。触れるな。触れるな。
ダメだ。いけない。それだけは許されない。
そのバケモノが、彼に触れることだけは。
恐怖に叫び出しそうになる。おぞましい存在に脳が食い破られ、残った部分すらじわじわと腐食させていくような。
耐える。己の腕に爪を立て、血が滲んでも、それが過ぎるまでうずくまる。
(……行かなければ)
けれど時間は有限である。歯を食いしばって、檜山は前を向いた。
(今度は、僕が助けるんだ)
立ち上がる。闇に向けて、足を踏み出す。
こめかみの痛みと醜悪な幻覚に己を削りながら、檜山正樹はひたすら前へと体を引きずっていった。
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