11 いい子だから

「どうして……。ほんとに、檜山さん……?」

「うん、安心して。……ほら」


 そう言うと、彼はオレの手を掴んで自分の頬に添えた。火傷痕の無い方の肌。そこに宿る熱を、震える左手で確かめる。

 ……ああ、檜山さんだ。もう二度と会えないと思ってた檜山さんが、本当にオレの目の前にいる。


「檜山さん、オレ……!」

「静かに。もう少しだけ声を落として」

「あ、す、すいません」

「大丈夫。……慎太郎君、少しやつれた?」

「えっと、帆沼さんがあんまり食べさせてくれなくて……」

「彼は少食だし、君はよく食べるからな……。それに」


 親指で、目の下を拭われる。


「泣いてたんじゃないか。少し目が腫れてるよ」

「そ、そんなことないです。気のせいですよ」

「そうかな」


 ……まさか、帆沼さん原作の漫画にガン泣きさせられていたとは言えない。ごまかしたのがなんだか気まずくて、オレは目を逸らした。


「……慎太郎君」


 けれど、ぎゅっと手首を掴まれたのに驚き、また顔を上げてしまう。間近に迫った真剣な檜山さんの顔に、思わず頬が熱くなった。


「今すぐ僕と逃げよう。これ以上、君がここにいる必要は無い」

「え……」

「外は既に警察が包囲している。じきに突入してきて、帆沼君は逮捕されるだろう」

「!」


 警察という言葉に、ドキリと心臓が跳ねる。……そりゃ帆沼さんはVICTIMSを書いた人で、オレを攫って監禁した人だ。事が明るみになれば、逮捕されるに決まってるけど……。


「……オレ、逃げていいんですか?」

「逃げていいのかって――ああ、事情聴取の心配をしてるのか? そこは気にしなくていい。莉子さんと事前に話して、君は僕が保護する事で了承を貰ってる」

「そ、そうじゃなくて。あの、帆沼さんのことです」

「帆沼君?」


 檜山さんの目が、訝しげに歪む。


「なんで彼のことを気にするんだ?」

「だって、あの人まだ眠ってて……」

「そうだろうね。僕が彼の飲み物にそういう薬を混ぜたから」

「え!?」

「君を助ける為に、この施設に侵入して彼の隙を窺ってたんだ。もうしばらくは目を覚さないはずだ」

「……」

「だから今のうちに僕と逃げよう。早く」


 個室のドアが開かれようとする。でもオレは、咄嗟に体を割り込ませてそれを阻止した。


「……慎太郎君?」

「あ、す、すいません……。その、まだ混乱してて……」

「……無理もない。突然誘拐されて、こんな所に監禁されてたんだ。だけど今は、一刻も早く逃げて……」

「でもオレ、帆沼さんと約束したんです」

「約束?」

「はい。帆沼さん、寝る前にどこにも行かないでってオレに言って……オレもそれを了承したんです。けど、ここで檜山さんについてっちゃうと、その約束を破ることになります」

「……本気で言ってるのか? 彼は君を殺そうとしてるんだぞ?」


 檜山さんの低い声に、動揺する。

 ――そうだ。その通りだ。今から殺されようというのに、オレは何を馬鹿げたことを言ってるんだろう。


「でも、帆沼さんは……どこにも行かないと言ったオレを、信じてくれました」


 それが分かっていながら、口は勝手に動いていた。


「そ、その証拠に、オレは拘束されてませんでしたよ! 現に部屋の鍵も開けっぱなしでしたし……!」

「……それは、君がこの施設から逃げられないからだ。ここは地下にある。普通の施設とは違う」

「え……」

「窓の一つも無ければ、換気口も人の通れるようなものじゃない。君の見つけられる出口は、厳重に外から鍵をかけられた扉一つしか無いんだ」

「……!」

「君は、異様な環境下に置かれて一時的に判断力が落ちている。自分の服を見てみろ。これから何が起こるかぐらい、彼から聞いているだろ」


 言われて、自分の服を見下ろす。着せられているのは、紛れもなく手術着だ。帆沼さんと一つになる外科手術を施される為に。

 だけど、それはまだ先だって……。


「嘘だ」


 檜山さんは、冷たく吐き捨てた。


「最後に食事をしたのは何時間前だ? 手術をする数時間前は飲食をしてはならない、基本的なルールだろう。君は、もう間も無く帆沼呉一の妄想のもと体を切り刻まれることになる」

「あ……」

「彼を信用するな。彼の口から出てくるのは、自分にとって都合のいい言葉ばかりだ」

「……ッ」

「そもそも彼は君を攫う為につかさ君を犠牲にしたんだぞ? そんな男の何を信じられるってんだ?」


 ――つかさ。通り魔に襲われた、オレの弟。もし彼を狙った犯人が盗まれたVICTIMSを持っていたのなら、帆沼さんが関わっていたことは明らかだ。でもここに来てから、帆沼さんは一言もそのことに触れていない。

 ……きっと、あえて話さなかったんだろう。その情報は、確実にオレが悪印象を抱くものだからだ。


「檜山さん、つかさは……!」

「ちゃんと目を覚ましたよ。犯人にドロップキックくらわせるぐらいには元気にしてる。安心して」

「それは元気過ぎじゃ」

「とにかく行こう。あの犯罪者が目を覚ます前に……」

「だ、だけど、檜山さんはそれでいいんですか!?」


 このオレの問いに、檜山さんはピタリと動きを止める。すぐさまオレは畳み掛けた。


「だって、帆沼さんは檜山さんの恋人なんですよね!? 色々事情はあるみたいですけど、帆沼さんは檜山さんのことすごく好きだって言ってました! 檜山さんだって、本当は……!」

「……それも嘘だ」

「え?」

「嘘だ。僕と帆沼君は恋愛関係に無い。恋人というのも、彼の一方的な思い込みにしか過ぎない」

「……思い込み?」


 ――思い込み? 檜山さんに対する帆沼さんの言動が? あの恍惚とした態度が?


「そう。彼は恋人だと思い込んだ僕を救う為、いっそ病的なやり方でこの連続犯罪をけしかけている。挙句、君の命すら奪おうとしているんだ」

「……!」

「断言する。帆沼呉一は、狂人だ」


 愕然とするオレに、檜山さんは言い放つ。


「全てが自分の為に動いていると信じ、どんな言葉も自分にとって都合良く捉える。それだけじゃない、その口先三寸で人を思うがまま操り、相手が気付かぬ内に己の世界へと引きずり込んでしまうんだ」

「……帆沼さん、が」

「彼と会話しようと思うな。信用し合えると思うな。事実だけを掬い上げて物事を見ろ。彼は、数人を犯罪へと導き、君の弟にまで手を伸ばした男だ。……そして今、君を殺そうとしている」


 ……脳が追いつかない。目に映る景色にまるで現実感が無い。すぐそばにいるはずの檜山さんまで、どこか別の人のように見えた。

 本当に? 本当にそんな人がいるのか? 騙し、黙し、打ち明けて、巧みに別世界へと巻き込んで。

 でも、オレの見た帆沼さんはそれだけじゃない。脆くて、寂しがりやな一面もあった。いや、敢えてそう見せていただけなのか? 油断させ、弱さという信用でオレを縛ろうとする為に。

 ――どこまでいっても言葉が届く気がしない、まるで人の皮を被ったバケモノ。それが、帆沼さんの正体だったのか?


「慎太郎君」


 狭い個室。檜山さんは、じっとオレを見つめていた。


「答えが出せないなら、それでもいい。でも今は、とにかく時間が無いんだ」


 檜山さんの指が、オレの髪を梳く。その手は下に向かい、オレの頬を押さえて軽く持ち上げた。

 ずっと恋焦がれてきたその目と、視線が合う。


「僕を信じてくれ。僕を信じて、言う通りにして。そうすれば、君の命を助けてあげられる」

「……檜山さん」


 オレの見上げた彼は、何故か薄く笑っていた。


「……君はいい子だから。僕の言うことを聞いてくれるだろ?」

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